「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ

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第13章|「わかりました。あなたには、がっかりです」(微笑み撤退)

 扉が閉まったあとも、リディアの微笑みは崩れなかった。

 廊下に出た瞬間、外の空気がひやりと頬を撫でる。
 磨かれた大理石の床は冷たく、窓から差す冬の光が白く伸びている。
 王宮の廊下は、いつも広すぎる。人がいなくても、視線がある。

 ——泣く場所は、ここではない。
 ——崩れる場所は、ここではない。

 背後に、ミナの靴音がぴたりと寄り添う。
 侍女は主の影。主が倒れれば、一緒に倒れる位置にいる。

「……妃殿下」

 ミナの声が、震えていた。怒りと悲しみと、どうしようもなさが混ざった声。

 リディアは歩幅を変えず、ただ、ほんの少しだけ顎を上げた。
 妃の歩き方。
 堂々と見せる歩き方。
 いちばん弱いときに、いちばん強く見せなければならない歩き方。

「ミナ」

 名前を呼ぶ声は穏やかだった。
 それが、余計にミナの胸を刺す。

「……泣かないで」

 リディアは振り返らずに言った。
 自分のためでもある。侍女が泣けば、主が泣いていると同じになる。

 ミナは息を呑み、言葉を飲み込む。

 角を曲がったところで、すれ違う女官が二人いた。
 リディアは微笑んで軽く頷き、何事もなかったように通り過ぎる。

 女官たちの視線が背中に刺さる。
 “何があったのか”を嗅ぎ取ろうとする目。
 “妃の顔色”を読もうとする目。

 リディアは笑顔を保ったまま、胸の奥で静かに呟いた。

 ——もう、終わった。
 ——あの窓辺の茶会は、終わった。

 そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。
 軽くなるのに、同時に冷えていく。
 何かを諦める時の、あの冷たさ。

 自室の前に着く。
 扉の前には侍女長ヘレナが控えていた。
 ヘレナは一礼し、リディアの顔を見て、ほんのわずかに目を細める。

 ——表情が薄い。
 ——もう痛いのに、痛く見えない。

 ヘレナは扉を開け、静かに告げた。

「……妃殿下、お戻りをお待ちしておりました」

 その声が、ぎりぎりの“優しさ”だった。

 部屋に入った瞬間、リディアは初めて息を吐いた。
 廊下の冷たい空気から、香りのない静けさへ。
 ここなら、少しだけ、肩を落としてもいい。

 ミナが扉を閉める。
 鍵が掛かる音がした瞬間、世界が切り離されたように感じる。

 リディアは、鏡台の前まで歩き、椅子に腰を下ろした。
 ドレスの裾が、ふわりと床に広がる。
 それだけの動作なのに、体が重い。

「……妃殿下」

 ミナが耐えきれず、声を落とした。

「殿下は……どうして、あんな……」

 リディアは鏡の中の自分を見つめた。
 プラチナブロンドの髪は乱れていない。頬も赤くない。目元も濡れていない。
 完璧な王太子妃がそこにいる。

 ——だからこそ、誰も助けに来ない。

「……殿下は、優しい人よ」

 リディアは静かに言った。
 自分の心を誤魔化すように。
 けれど次の言葉で、自分が嘘をついていることに気づく。

「優しいから……誰も傷つけたくないの。誰かを守る言葉を選べない」

 守る言葉を選べない。
 それはつまり、守ってくれないということだ。

 ミナが唇を噛む。
 ヘレナが静かに一歩前に出た。

「妃殿下。本日は……茶会は、もう」

 リディアは頷いた。
 頷くのに、心臓が痛い。
 茶会は唯一の安らぎだった。
 だから終わらせることは、自分の呼吸を削ることでもある。

「ええ。もう、いたしません」

 言い切った瞬間、胸の奥で小さな音がした。
 折れる音ではない。
 閉じる音だ。

「今後は、公務の場だけで。必要なことだけを」

 それは冷たい決断ではない。
 生きるための決断だった。

 ヘレナが膝を折り、深く礼を取る。
 侍女長としてではなく、主に仕える者として。

「……承知いたしました。妃殿下のご意志のままに」

 ミナは涙をこらえきれず、下を向いた。
 それでも泣かない。泣けば主が泣くから。

 リディアは鏡の中の自分を見つめ、唇の端を少し上げた。
 微笑み。
 あの茶会室で、最後にした微笑みと同じ形。

 ——わかりました。あなたには、がっかりです。

 言葉を口に出さなくても、胸の中で繰り返すだけで痛む。
 あの一言は、夫に向けた刃ではない。
 自分の中の“期待”を切り落とす刃だった。

 扉の向こうから、遠く足音が聞こえる。
 廊下を駆ける靴音。
 誰かが慌てている。

 ミナが顔を上げた。

「……殿下、でしょうか」

 リディアは、答えなかった。
 答えたくなかった。
 ——今さら追いかけてくるのなら、もっと早く守ってほしかった。

 その瞬間、部屋の扉が小さく叩かれる。

「妃殿下。王太子殿下がお越しです」

 女官の声は硬い。
 緊張している。
 この王宮が、何かが壊れたことを察している。

 リディアは立ち上がり、背筋を伸ばした。
 涙はない。怒りもない。
 ただ、静かな空洞が胸の中にある。

「……通して」

 扉が開く。
 アーヴィンが入ってくる。
 いつもより息が荒い。整っていたはずの王太子の顔に、焦りがある。

「リディア——」

 呼ぶ声が、初めて“夫”の声に聞こえた。
 遅い。遅すぎる。

 リディアは微笑んだ。
 王太子妃としての、完璧な微笑み。

「殿下。ご用件は、公務でしょうか」

 その一言で、アーヴィンの足が止まった。
 追いつこうとした距離が、また一歩、遠ざかる。

 リディアは続ける。

「午後の茶会は、終わりにいたしました。今後は必要なことだけをお話しいたしましょう」

 それは宣言だった。
 愛情の撤退。
 呼吸を守るための撤退。

 アーヴィンは、言葉を失った。
 失った言葉の代わりに、ようやく気づく。

 ——妃の微笑みが、もう自分に向いていないことに。



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