「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ

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第20章|ミレーユ、勝った気で距離をさらに詰める

 王宮の廊下は、噂を歩かせるためにあるみたいに長い。

 ミレーユはその廊下を、軽やかな足取りで進んでいた。
 昨日よりも背筋が伸び、笑顔が明るい。
 胸の奥にあるのは反省ではない。——確信だ。

 妃は茶会をやめた。
 殿下は追わなかった。
 噂は“優しい殿下”の味方をしている。

 勝った、とまでは思わない。
 けれど“私には可能性がある”と、王宮に教えられた気がしていた。

 すれ違う女官が、目を逸らす。
 小さく礼を取る。
 その礼が、昨日より丁寧に見える。

 ——私を無視できなくなった。
 ミレーユの胸が甘く膨らむ。

 そのとき、角から現れたのは子爵令嬢エステルだった。
 扇を広げ、口元を隠して笑う。

「まあ、ミレーユ。今日もお元気そうね」

「……元気というより、少し安心したの」

 ミレーユは小さく笑った。
 あれほど叱られたのに、心が軽い自分に驚く。

 エステルが囁く。

「当然よ。だって妃殿下は“厳しい方”だもの。殿下は“優しい方”。——誰が愛されるかなんて、分かりきっているでしょう?」

 愛される。
 その言葉が、胸の奥で熱を持つ。

「そんなこと……私、妃殿下を敵にしたいわけじゃないの」

 ミレーユはそう言いながら、自分の声の甘さに気づく。
 敵にしたいのではない。
 ただ、妃の席の隣に“自分の居場所”を作りたい。

 エステルは肩をすくめた。

「敵にする必要はないわ。妃殿下は、自分から引いたんだもの。茶会をやめたって、皆が言ってる」

 皆が。
 その言葉で、噂が確かなものに変わる。

 ミレーユは扇を握り直し、視線を前へ向けた。
 今日の目的は、王太子の執務室近くを“偶然”通ること。
 偶然を装って、存在を思い出させること。

 ——殿下は優しい。
 優しい人ほど、そばにいる者の手を払えない。

 執務室へ続く回廊に差しかかる。
 そこは空気が固い。文官たちが行き交い、騎士が立ち、書類の匂いが漂う。
 ミレーユは、あえてその場で立ち止まった。

 扉の前に立つ近衛騎士ルシアンが、ちらりとこちらを見る。
 その目は冷たい。
 歓迎していない目。

 でもミレーユは怯まない。
 昨日の自分なら、視線だけで引いただろう。
 今日は違う。

「ルシアン様。殿下はご在室かしら」

 “殿下”と言えた。
 作法講師の前で覚えた言葉を、上手に使う。
 ——私は学べる。私は変われる。だから許される。

 ルシアンの声は平坦だった。

「殿下は公務中です。面会の手順を踏んでください」

「もちろん。女官長には申請を出しているわ」

 嘘ではない。紙を出しただけだ。許可を得たわけではない。
 だが“申請を出した”という事実は、扉の前に立つ理由になる。

 ルシアンは言い返さない。
 騎士は感情で争えない。
 それを、ミレーユは理解していた。

 その瞬間、扉の向こうから声がした。
 文官が出入りし、扉が少し開く。

 ミレーユはその隙に、柔らかく声を投げる。

「殿下……お忙しいのに、ご無理をなさらないで」

 言葉は気遣い。
 けれど狙いは、“私はあなたを心配している”という印象づけ。

 扉の隙間から、アーヴィンの姿が一瞬見えた。
 彼の視線がこちらに触れ、すぐ逸れる。
 触れた、という事実だけでミレーユは満足した。

 ——見た。
 ——私を見た。

 その小さな勝利が、距離をさらに詰めさせる。

 ミレーユは、次の手を打つ。
 執務室ではなく、“公の場”へ。
 公の場なら、妃がいない。妃がいなければ、線を引く者が少ない。

 彼女が向かったのは礼拝堂だった。
 午後の祈りの時間。
 貴族たちが静かに集う場所。
 噂が囁かれるには、ちょうどいい静けさ。

 ミレーユは膝を折り、祈りの形を取った。
 そこへ、偶然を装ってエステルが隣に来る。

「殿下、最近お疲れですって。妃殿下は……お忙しいのかしらね」

 わざとらしい囁き。
 わざとらしいほど、周囲の耳に入りやすい。

 ミレーユは目を伏せたまま、静かに答えた。

「妃殿下は、とても立派な方よ。……でも、殿下は優しいから。優しい方って、時々、誰にも甘えられないでしょう?」

 自分は、甘えられる存在。
 そう示す言葉。

 礼拝堂の後方で、誰かが小さく息を呑んだ。
 噂は、すぐに祈りの間を抜けていく。

 ミレーユは立ち上がり、静かな回廊へ戻った。
 そこで、偶然を装って女官に声をかける。

「妃殿下のお加減、いかが?」

 心配するふり。
 けれど心の底では、こう思っている。

 ——妃殿下が弱れば、私の席が近づく。

 そのとき、彼女の背後から低い声がした。

「伯爵令嬢」

 振り返ると、そこにいたのは侍従長グレイスだった。
 目が冷たい。
 礼節の番人の目。

 ミレーユの心臓が小さく跳ねる。
 だが、笑顔を作るのは得意だ。

「侍従長様。ごきげんよう」

 グレイスは微笑まないまま告げた。

「妃殿下へのご配慮は結構。ですが、殿下の動線に近づくことはお控えください。——王宮は、順序を守る者だけを残します」

 その言葉に、ミレーユの頬が熱くなる。
 屈辱。
 それでも同時に、胸の奥で火が灯る。

 ——順序。
 ——順序を守れば、残れる。

 ならば私は、順序を学んで、もっと上手に近づく。
 妃殿下より“正しい形”で、殿下に寄り添う。

 ミレーユは礼を取り、静かに笑った。

「もちろんです。わたくし、学びますわ」

 その言葉が、王宮に響く。
 “私は引かない”という宣言として。

 そして同じ頃。

 リディアの部屋では、昼の光が落ちているのに、眠れぬ夜の影が残っていた。
 ミレーユの距離は、今日もまた、少し縮まっている。

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