20 / 60
第20章|ミレーユ、勝った気で距離をさらに詰める
しおりを挟む
王宮の廊下は、噂を歩かせるためにあるみたいに長い。
ミレーユはその廊下を、軽やかな足取りで進んでいた。
昨日よりも背筋が伸び、笑顔が明るい。
胸の奥にあるのは反省ではない。——確信だ。
妃は茶会をやめた。
殿下は追わなかった。
噂は“優しい殿下”の味方をしている。
勝った、とまでは思わない。
けれど“私には可能性がある”と、王宮に教えられた気がしていた。
すれ違う女官が、目を逸らす。
小さく礼を取る。
その礼が、昨日より丁寧に見える。
——私を無視できなくなった。
ミレーユの胸が甘く膨らむ。
そのとき、角から現れたのは子爵令嬢エステルだった。
扇を広げ、口元を隠して笑う。
「まあ、ミレーユ。今日もお元気そうね」
「……元気というより、少し安心したの」
ミレーユは小さく笑った。
あれほど叱られたのに、心が軽い自分に驚く。
エステルが囁く。
「当然よ。だって妃殿下は“厳しい方”だもの。殿下は“優しい方”。——誰が愛されるかなんて、分かりきっているでしょう?」
愛される。
その言葉が、胸の奥で熱を持つ。
「そんなこと……私、妃殿下を敵にしたいわけじゃないの」
ミレーユはそう言いながら、自分の声の甘さに気づく。
敵にしたいのではない。
ただ、妃の席の隣に“自分の居場所”を作りたい。
エステルは肩をすくめた。
「敵にする必要はないわ。妃殿下は、自分から引いたんだもの。茶会をやめたって、皆が言ってる」
皆が。
その言葉で、噂が確かなものに変わる。
ミレーユは扇を握り直し、視線を前へ向けた。
今日の目的は、王太子の執務室近くを“偶然”通ること。
偶然を装って、存在を思い出させること。
——殿下は優しい。
優しい人ほど、そばにいる者の手を払えない。
執務室へ続く回廊に差しかかる。
そこは空気が固い。文官たちが行き交い、騎士が立ち、書類の匂いが漂う。
ミレーユは、あえてその場で立ち止まった。
扉の前に立つ近衛騎士ルシアンが、ちらりとこちらを見る。
その目は冷たい。
歓迎していない目。
でもミレーユは怯まない。
昨日の自分なら、視線だけで引いただろう。
今日は違う。
「ルシアン様。殿下はご在室かしら」
“殿下”と言えた。
作法講師の前で覚えた言葉を、上手に使う。
——私は学べる。私は変われる。だから許される。
ルシアンの声は平坦だった。
「殿下は公務中です。面会の手順を踏んでください」
「もちろん。女官長には申請を出しているわ」
嘘ではない。紙を出しただけだ。許可を得たわけではない。
だが“申請を出した”という事実は、扉の前に立つ理由になる。
ルシアンは言い返さない。
騎士は感情で争えない。
それを、ミレーユは理解していた。
その瞬間、扉の向こうから声がした。
文官が出入りし、扉が少し開く。
ミレーユはその隙に、柔らかく声を投げる。
「殿下……お忙しいのに、ご無理をなさらないで」
言葉は気遣い。
けれど狙いは、“私はあなたを心配している”という印象づけ。
扉の隙間から、アーヴィンの姿が一瞬見えた。
彼の視線がこちらに触れ、すぐ逸れる。
触れた、という事実だけでミレーユは満足した。
——見た。
——私を見た。
その小さな勝利が、距離をさらに詰めさせる。
ミレーユは、次の手を打つ。
執務室ではなく、“公の場”へ。
公の場なら、妃がいない。妃がいなければ、線を引く者が少ない。
彼女が向かったのは礼拝堂だった。
午後の祈りの時間。
貴族たちが静かに集う場所。
噂が囁かれるには、ちょうどいい静けさ。
ミレーユは膝を折り、祈りの形を取った。
そこへ、偶然を装ってエステルが隣に来る。
「殿下、最近お疲れですって。妃殿下は……お忙しいのかしらね」
わざとらしい囁き。
わざとらしいほど、周囲の耳に入りやすい。
ミレーユは目を伏せたまま、静かに答えた。
「妃殿下は、とても立派な方よ。……でも、殿下は優しいから。優しい方って、時々、誰にも甘えられないでしょう?」
自分は、甘えられる存在。
そう示す言葉。
礼拝堂の後方で、誰かが小さく息を呑んだ。
噂は、すぐに祈りの間を抜けていく。
ミレーユは立ち上がり、静かな回廊へ戻った。
そこで、偶然を装って女官に声をかける。
「妃殿下のお加減、いかが?」
心配するふり。
けれど心の底では、こう思っている。
——妃殿下が弱れば、私の席が近づく。
そのとき、彼女の背後から低い声がした。
「伯爵令嬢」
振り返ると、そこにいたのは侍従長グレイスだった。
目が冷たい。
礼節の番人の目。
ミレーユの心臓が小さく跳ねる。
だが、笑顔を作るのは得意だ。
「侍従長様。ごきげんよう」
グレイスは微笑まないまま告げた。
「妃殿下へのご配慮は結構。ですが、殿下の動線に近づくことはお控えください。——王宮は、順序を守る者だけを残します」
その言葉に、ミレーユの頬が熱くなる。
屈辱。
それでも同時に、胸の奥で火が灯る。
——順序。
——順序を守れば、残れる。
ならば私は、順序を学んで、もっと上手に近づく。
妃殿下より“正しい形”で、殿下に寄り添う。
ミレーユは礼を取り、静かに笑った。
「もちろんです。わたくし、学びますわ」
その言葉が、王宮に響く。
“私は引かない”という宣言として。
そして同じ頃。
リディアの部屋では、昼の光が落ちているのに、眠れぬ夜の影が残っていた。
ミレーユの距離は、今日もまた、少し縮まっている。
ミレーユはその廊下を、軽やかな足取りで進んでいた。
昨日よりも背筋が伸び、笑顔が明るい。
胸の奥にあるのは反省ではない。——確信だ。
妃は茶会をやめた。
殿下は追わなかった。
噂は“優しい殿下”の味方をしている。
勝った、とまでは思わない。
けれど“私には可能性がある”と、王宮に教えられた気がしていた。
すれ違う女官が、目を逸らす。
小さく礼を取る。
その礼が、昨日より丁寧に見える。
——私を無視できなくなった。
ミレーユの胸が甘く膨らむ。
そのとき、角から現れたのは子爵令嬢エステルだった。
扇を広げ、口元を隠して笑う。
「まあ、ミレーユ。今日もお元気そうね」
「……元気というより、少し安心したの」
ミレーユは小さく笑った。
あれほど叱られたのに、心が軽い自分に驚く。
エステルが囁く。
「当然よ。だって妃殿下は“厳しい方”だもの。殿下は“優しい方”。——誰が愛されるかなんて、分かりきっているでしょう?」
愛される。
その言葉が、胸の奥で熱を持つ。
「そんなこと……私、妃殿下を敵にしたいわけじゃないの」
ミレーユはそう言いながら、自分の声の甘さに気づく。
敵にしたいのではない。
ただ、妃の席の隣に“自分の居場所”を作りたい。
エステルは肩をすくめた。
「敵にする必要はないわ。妃殿下は、自分から引いたんだもの。茶会をやめたって、皆が言ってる」
皆が。
その言葉で、噂が確かなものに変わる。
ミレーユは扇を握り直し、視線を前へ向けた。
今日の目的は、王太子の執務室近くを“偶然”通ること。
偶然を装って、存在を思い出させること。
——殿下は優しい。
優しい人ほど、そばにいる者の手を払えない。
執務室へ続く回廊に差しかかる。
そこは空気が固い。文官たちが行き交い、騎士が立ち、書類の匂いが漂う。
ミレーユは、あえてその場で立ち止まった。
扉の前に立つ近衛騎士ルシアンが、ちらりとこちらを見る。
その目は冷たい。
歓迎していない目。
でもミレーユは怯まない。
昨日の自分なら、視線だけで引いただろう。
今日は違う。
「ルシアン様。殿下はご在室かしら」
“殿下”と言えた。
作法講師の前で覚えた言葉を、上手に使う。
——私は学べる。私は変われる。だから許される。
ルシアンの声は平坦だった。
「殿下は公務中です。面会の手順を踏んでください」
「もちろん。女官長には申請を出しているわ」
嘘ではない。紙を出しただけだ。許可を得たわけではない。
だが“申請を出した”という事実は、扉の前に立つ理由になる。
ルシアンは言い返さない。
騎士は感情で争えない。
それを、ミレーユは理解していた。
その瞬間、扉の向こうから声がした。
文官が出入りし、扉が少し開く。
ミレーユはその隙に、柔らかく声を投げる。
「殿下……お忙しいのに、ご無理をなさらないで」
言葉は気遣い。
けれど狙いは、“私はあなたを心配している”という印象づけ。
扉の隙間から、アーヴィンの姿が一瞬見えた。
彼の視線がこちらに触れ、すぐ逸れる。
触れた、という事実だけでミレーユは満足した。
——見た。
——私を見た。
その小さな勝利が、距離をさらに詰めさせる。
ミレーユは、次の手を打つ。
執務室ではなく、“公の場”へ。
公の場なら、妃がいない。妃がいなければ、線を引く者が少ない。
彼女が向かったのは礼拝堂だった。
午後の祈りの時間。
貴族たちが静かに集う場所。
噂が囁かれるには、ちょうどいい静けさ。
ミレーユは膝を折り、祈りの形を取った。
そこへ、偶然を装ってエステルが隣に来る。
「殿下、最近お疲れですって。妃殿下は……お忙しいのかしらね」
わざとらしい囁き。
わざとらしいほど、周囲の耳に入りやすい。
ミレーユは目を伏せたまま、静かに答えた。
「妃殿下は、とても立派な方よ。……でも、殿下は優しいから。優しい方って、時々、誰にも甘えられないでしょう?」
自分は、甘えられる存在。
そう示す言葉。
礼拝堂の後方で、誰かが小さく息を呑んだ。
噂は、すぐに祈りの間を抜けていく。
ミレーユは立ち上がり、静かな回廊へ戻った。
そこで、偶然を装って女官に声をかける。
「妃殿下のお加減、いかが?」
心配するふり。
けれど心の底では、こう思っている。
——妃殿下が弱れば、私の席が近づく。
そのとき、彼女の背後から低い声がした。
「伯爵令嬢」
振り返ると、そこにいたのは侍従長グレイスだった。
目が冷たい。
礼節の番人の目。
ミレーユの心臓が小さく跳ねる。
だが、笑顔を作るのは得意だ。
「侍従長様。ごきげんよう」
グレイスは微笑まないまま告げた。
「妃殿下へのご配慮は結構。ですが、殿下の動線に近づくことはお控えください。——王宮は、順序を守る者だけを残します」
その言葉に、ミレーユの頬が熱くなる。
屈辱。
それでも同時に、胸の奥で火が灯る。
——順序。
——順序を守れば、残れる。
ならば私は、順序を学んで、もっと上手に近づく。
妃殿下より“正しい形”で、殿下に寄り添う。
ミレーユは礼を取り、静かに笑った。
「もちろんです。わたくし、学びますわ」
その言葉が、王宮に響く。
“私は引かない”という宣言として。
そして同じ頃。
リディアの部屋では、昼の光が落ちているのに、眠れぬ夜の影が残っていた。
ミレーユの距離は、今日もまた、少し縮まっている。
977
あなたにおすすめの小説
私と子供より、夫は幼馴染とその子供のほうが大切でした。
小野 まい
恋愛
結婚記念日のディナーに夫のオスカーは現れない。
「マリアが熱を出したらしい」
駆けつけた先で、オスカーがマリアと息子カイルと楽しげに食事をする姿を妻のエリザが目撃する。
「また裏切られた……」
いつも幼馴染を優先するオスカーに、エリザの不満は限界に達していた。
「あなたは家族よりも幼馴染のほうが大事なのね」
離婚する気持ちが固まっていく。
婚約破棄されたので、愛のない契約結婚を選んだはずでした
鍛高譚
恋愛
王太子の婚約者だった伯爵令嬢・カーテンリンゼ。
しかし、王太子エドワルドは突然の婚約破棄を言い渡し、彼女を冷たく突き放す。
――だが、それは彼女にとってむしろ好都合だった。
「婚約破棄? 結構なことですわ。むしろ自由を満喫できますわね!」
ところが、婚約破棄された途端、カーテンリンゼは別の求婚者たちに目をつけられてしまう。
身分を利用されるだけの結婚などごめんだと思っていた彼女の前に現れたのは、冷徹と噂される若き公爵・レオポルド。
「契約結婚だ。君の自由は保証しよう」
「まあ、それは理想的ですわね」
互いに“愛のない”結婚を選んだ二人だったが、次第に相手の本当の姿を知り、想いが変わっていく――。
一方、王太子エドワルドは、自分が捨てたはずのカーテンリンゼを取り戻そうと動き出し……!?
婚約者の私を見捨てたあなた、もう二度と関わらないので安心して下さい
神崎 ルナ
恋愛
第三王女ロクサーヌには婚約者がいた。騎士団でも有望株のナイシス・ガラット侯爵令息。その美貌もあって人気がある彼との婚約が決められたのは幼いとき。彼には他に優先する幼なじみがいたが、政略結婚だからある程度は仕方ない、と思っていた。だが、王宮が魔導師に襲われ、魔術により天井の一部がロクサーヌへ落ちてきたとき、彼が真っ先に助けに行ったのは幼馴染だという女性だった。その後もロクサーヌのことは見えていないのか、完全にスルーして彼女を抱きかかえて去って行くナイシス。
嘘でしょう。
その後ロクサーヌは一月、目が覚めなかった。
そして目覚めたとき、おとなしやかと言われていたロクサーヌの姿はどこにもなかった。
「ガラット侯爵令息とは婚約破棄? 当然でしょう。それとね私、力が欲しいの」
もう誰かが護ってくれるなんて思わない。
ロクサーヌは力をつけてひとりで生きていこうと誓った。
だがそこへクスコ辺境伯がロクサーヌへ求婚する。
「ぜひ辺境へ来て欲しい」
※時代考証がゆるゆるですm(__)m ご注意くださいm(__)m
総合・恋愛ランキング1位(2025.8.4)hotランキング1位(2025.8.5)になりましたΣ(・ω・ノ)ノ ありがとうございます<(_ _)>
あなたが捨てた花冠と后の愛
小鳥遊 れいら
恋愛
幼き頃から皇后になるために育てられた公爵令嬢のリリィは婚約者であるレオナルド皇太子と相思相愛であった。
順調に愛を育み合った2人は結婚したが、なかなか子宝に恵まれなかった。。。
そんなある日、隣国から王女であるルチア様が側妃として嫁いでくることを相談なしに伝えられる。
リリィは強引に話をしてくるレオナルドに嫌悪感を抱くようになる。追い打ちをかけるような出来事が起き、愛ではなく未来の皇后として国を守っていくことに自分の人生をかけることをしていく。
そのためにリリィが取った行動とは何なのか。
リリィの心が離れてしまったレオナルドはどうしていくのか。
2人の未来はいかに···
白い結婚を捨てた王妃は、もう二度と振り向かない ――愛さぬと言った王子が全てを失うまで』
鍛高譚
恋愛
「私は王妃を愛さない。彼女とは白い結婚を誓う」
華やかな王宮の大聖堂で交わされたのは、愛の誓いではなく、冷たい拒絶の言葉だった。
王子アルフォンスの婚姻相手として選ばれたレイチェル・ウィンザー。しかし彼女は、王妃としての立場を与えられながらも、夫からも宮廷からも冷遇され、孤独な日々を強いられる。王の寵愛はすべて聖女ミレイユに注がれ、王宮の権力は彼女の手に落ちていった。侮蔑と屈辱に耐える中、レイチェルは誇りを失わず、密かに反撃の機会をうかがう。
そんな折、隣国の公爵アレクサンダーが彼女の前に現れる。「君の目はまだ死んでいないな」――その言葉に、彼女の中で何かが目覚める。彼はレイチェルに自由と新たな未来を提示し、密かに王宮からの脱出を計画する。
レイチェルが去ったことで、王宮は急速に崩壊していく。聖女ミレイユの策略が暴かれ、アルフォンスは自らの過ちに気づくも、時すでに遅し。彼が頼るべき王妃は、もはや遠く、隣国で新たな人生を歩んでいた。
「お願いだ……戻ってきてくれ……」
王国を失い、誇りを失い、全てを失った王子の懇願に、レイチェルはただ冷たく微笑む。
「もう遅いわ」
愛のない結婚を捨て、誇り高き未来へと進む王妃のざまぁ劇。
裏切りと策略が渦巻く宮廷で、彼女は己の運命を切り開く。
これは、偽りの婚姻から真の誓いへと至る、誇り高き王妃の物語。
尽くしてきた婚約者に裏切られたので、婚約を解消しました〜彼が愛に気づいたのは、すべてを失ったあとでした〜
ともどーも
恋愛
「今回で最後だ。誓うよ」
これは二度目の『結婚式キャンセル』の時に言われた言葉。
四年間、愛する婚約者ディートリッヒのため尽くし続けてきたイリス。
だがディートリッヒは、イリスの献身を当然のものとし、やがて初恋の令嬢エレノアを優先するようになる。
裏切り、誤解、そして理不尽な糾弾。
心も身体も限界を迎えた夜、イリスは静かに決意した。
──もう、終わらせよう。
ディートリッヒが「脅しのつもり」で差し出した婚約解消の書類を、イリスは本当に提出してしまう。
すべてを失ってから、ようやく自分の愛に気づいたディートリッヒ。
しかしもう、イリスは振り返らない。
まだ完結まで執筆が終わっていません。
20話以降は不定期更新になります。
設定はゆるいです。
もう演じなくて結構です
梨丸
恋愛
侯爵令嬢セリーヌは最愛の婚約者が自分のことを愛していないことに気づく。
愛しの婚約者様、もう婚約者を演じなくて結構です。
11/5HOTランキング入りしました。ありがとうございます。
感想などいただけると、嬉しいです。
11/14 完結いたしました。
11/16 完結小説ランキング総合8位、恋愛部門4位ありがとうございます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる