「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ

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第19章|王太子、初めて“席の意味”を理解し始める(遅い)

 王妃マルグリットが執務室に入ってきたとき、アーヴィンは書類から顔を上げる余裕がなかった。

 正確には、顔を上げたくなかった。
 母の目は、王太子の嘘を見抜く。
 王太子が“夫としての失態”を隠す場所など、王宮にはない。

「アーヴィン」

 呼ばれた瞬間、背筋が勝手に伸びた。
 王太子としての反射。
 その反射が、今日ほど恨めしい日はない。

「母上。ご用件は」

 用件。
 また“公務の声”が出た。
 自分でも分かる。妻が遠ざけたのは、こういう声だ。

 王妃は椅子に座らず、窓際に立った。
 その姿勢が、裁定の前の姿勢だった。

「リディアを見てきた」

 短い一言で、胸が詰まる。

「……どうだった」

 聞きたいのに、怖い。
 リディアが泣いていたと聞けば、今すぐ走りたくなる。
 泣いていないと聞けば、もう手遅れだと分かってしまう。

 王妃は視線を外の庭へ向けたまま言った。

「泣いてはいない。——だからこそ危ない」

 その言葉が、胃の奥に落ちた。

「君は、あの子の涙より“微笑み”を怖がるべきよ」

 アーヴィンは息を止めた。
 妻の微笑み。
 あの“がっかりです”の微笑み。

「母上……」

 言い訳が喉に浮かぶ。
 火消し。噂。宰相。穏便。
 正しさの言葉はいくらでもある。
 だが王妃は、それを全部切り捨てる。

「何をしたの?」

 問いは単純だった。
 単純な問いほど、逃げ道がない。

 アーヴィンは目を伏せた。

「……礼節の話になった。伯爵令嬢が、少し……距離を」

「あなたが止めたのね」

 断定。
 王妃は聞いていない。見抜いた。
 その断定に、アーヴィンの背中が冷たくなる。

「……『そこまで言わなくても』と」

 口にした瞬間、胸の奥が痛んだ。
 自分の言葉なのに、他人の刃のように痛い。

 王妃は、ゆっくり振り返った。
 目が冷たい。
 怒っているのではない。理解しているから冷たい。

「その一言で、あなたは“妃の席”を否定したのよ」

 アーヴィンは眉を寄せた。

「席……?」

 王妃はため息をついた。

「あなたは椅子だと思っている。紅茶の配置だと思っている。礼儀作法だと思っている。——違うわ」

 王妃は一歩、机へ近づき、置かれていた小さな模型を指で弾いた。
 外交の席次を示す小さな木駒。
 王太子がいつも“政治”として扱っているもの。

「席は、秩序。席は、守られるべきもの。席は——誰がそこに立っているかを世界に示すものよ」

 その言葉が、胸に刺さる。

 アーヴィンは思い出す。
 茶会室で、ミレーユが妃の席に座った瞬間。
 自分は“困惑”して、黙った。
 そしてその後、砂糖壺を動かした瞬間に、こう言った。

 細かいことは、いいだろう。

 ——細かいこと。
 妃の席を、細かいことと言った。

 王妃は続ける。

「リディアは、あなたを守ったのよ。礼節を守ることで、あなたの立場を守った。あなたの未来を守った。——なのにあなたは、その正しさを止めた」

 アーヴィンの喉が詰まる。
 反論が出ない。
 正しいのは母のほうだ。

「……穏便に済ませたかった」

 ようやく出た言葉は、情けないほど薄い。

 王妃は笑わない。
 ただ、言い切る。

「穏便に済ませたいなら、まず妻を守りなさい。妻が守られれば、場は勝手に整う。妻が守られないなら——場だけ整えても、いずれ崩れる」

 崩れる。
 その言葉が、胸の奥で重く響く。

 アーヴィンは、初めて“席”を違う目で見た。
 外交の席次ではない。
 窓辺の、小さな二人掛けの席。

 あの席は、妻の呼吸だった。
 自分の安らぎだった。
 それを“ただの茶会”と軽く扱ったのは、自分だ。

「……母上、私は……」

 王妃は、最後に言った。

「遅いわ。でも、遅いと分かった者だけが、追える」

 追える。
 その言葉が、胸に灯をともす。

 だが同時に、王妃の声は冷たかった。

「ただし、言葉だけで追ってはいけない。あなたの言葉は、もう一度彼女を傷つける。——行動で示しなさい」

 行動。
 宰相も同じことを言っていた。
 王宮では言葉は噂にされる。行動だけが残る。

 王妃は扉へ向かい、最後に振り返る。

「アーヴィン。あなたが守るべきは、伯爵令嬢の涙でも、王宮の空気でもない。——妃の席よ」

 扉が閉まる音がした。

 アーヴィンは机の上の席次模型を見つめた。
 木駒をひとつ、指で動かす。

 王太子妃の駒。
 それは、動かしていいものではない。
 ——動かしたのは、他でもない自分だった。

 遅すぎる理解が、胸を締めつける。

 そして、その遅さを笑うように——廊下の外では、噂が今日も軽やかに走っていた。

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