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第22章|謝罪未満の言葉(言い訳が混ざる)→リディアの心が閉じる
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翌朝、王太子妃の執務室は静かだった。
朝の光が薄いカーテンを透かし、机の上の書類を淡く照らす。
インクの匂い。紙の擦れる音。
——感情の入る余地がない、仕事の空気。
リディアは背筋を正し、ペンを走らせていた。
昨夜、ほとんど眠れなかった目は少し重い。
けれど表情は崩さない。崩せば噂が拾う。
ミナが湯気の立つ白湯を置き、ヘレナが今日の公務予定を静かに差し出す。
二人の動きは完璧だった。
主が崩れないように、周りが崩れない。
扉が叩かれたのは、予定よりも早い時間だった。
「妃殿下。王太子殿下がお越しです」
女官の声が硬い。
この時間の訪問は、噂の餌になる。
リディアはペンを置き、顔を上げる。
微笑みを作る。
王太子妃としての、面会の微笑み。
「通して」
扉が開き、アーヴィンが入ってくる。
昨日より顔色が悪い。
眠れていないのは、彼も同じらしい。
——なら、なぜ昨日の夜に来なかったの。
胸の奥で言葉が浮かぶが、リディアはそれを沈めた。
“責める言葉”は、もう口にしないと決めた。
「妃殿下」
アーヴィンは公務の礼を取り、言葉を整える。
それだけで、リディアの心が少し閉じる。
彼はまだ“夫”の扉を開ける勇気がない。
「……殿下。ご用件を」
リディアが促すと、彼は一瞬だけ目を伏せた。
「昨日の件だ。……君に、謝らなければならない」
謝罪。
その言葉に、胸が僅かに揺れる。
人は、謝られると一瞬だけ希望を持つ。
その一瞬が、いちばん残酷になることを、リディアはもう知っている。
「私は、君を止めるべきではなかった」
そこまでは、正しい。
けれど次の言葉が、謝罪を“未満”に変えた。
「……ただ、あの場は、皆が見ていた。噂が広がれば、君に不利になる。だから穏便に——」
穏便に。
またその言葉。
また“場”の話。
また“噂”の話。
リディアの胸の奥が、すうっと冷える。
——謝っているのに、言い訳が先に出る。
——謝っているのに、私の痛みではなく、空気を説明する。
ミナが背後で拳を握る気配がした。
ヘレナが視線を落とし、唇を噛む。
侍女たちも、分かっている。
これは謝罪ではない。弁明だ。
アーヴィンは続ける。
「君が正しいのは分かっている。……でも、あの令嬢は王宮に慣れていない。泣いていたし、騎士カイルも——」
カイル。
第三者の名が出た瞬間、リディアの心がまた一段閉じる。
“君”ではなく、“他人”で言い訳を積む。
それは、妻の痛みを薄める作業だ。
「殿下」
リディアは静かに遮った。
声は柔らかい。
柔らかいほど、壁になる。
「謝罪とは、説明ではありません」
アーヴィンの口が止まる。
言葉が詰まる。
リディアは机の端に置いた白湯に手を伸ばし、ゆっくり一口飲んだ。
胃がひりつく。
その痛みで、感情が戻りそうになる。
戻らせないために、さらに声を平らにした。
「殿下が謝りたいのは、“何”でしょう」
問いは簡単。
簡単だから、逃げられない。
アーヴィンは唇を開け、閉じる。
答えられない。
自分が傷つけたものの名前を、まだ言えない。
「……君を傷つけた」
ようやく出た言葉は、薄い。
痛みの芯に触れていない。
リディアは頷いた。
頷いたのに、胸の奥は軽くならない。
なぜなら、その後ろに言い訳が列をなしているから。
アーヴィンが焦ったように続ける。
「リディア、分かってくれ。王宮は難しい。全部が噂になる。だから——」
だから。
その“だから”で、また妻が置き去りになる。
リディアは微笑んだ。
薄く、完璧に。
「殿下。私は王宮の難しさを知っています」
知っている。
だからこそ、礼節を守った。
だからこそ、殿下を支えた。
なのに、殿下は——。
リディアは言葉を飲み込んだ。
飲み込むたびに、心の扉が閉まる。
「……分かりました。今後は公務の場で、必要なことだけを」
アーヴィンの目が見開かれる。
「待ってくれ。君はまだ怒っているのか」
怒り。
怒りだと思われた瞬間、リディアの中で何かが切れる。
怒りではない。
諦めだ。
「怒ってはいません」
リディアは静かに言った。
「怒るだけの期待が、もうありません」
その一言が、部屋の空気を凍らせた。
アーヴィンは言葉を失う。
“怒られる方がまだ救い”だと、その顔が言っている。
リディアは立ち上がり、礼を取った。
王太子妃の礼。
距離を確定する礼。
「殿下。今週の公務日程はこちらに。確認事項は書面で」
紙を差し出す。
言葉の代わりに。
アーヴィンの手が宙に浮いたまま、紙を掴めない。
掴めないまま、彼は震える声で言った。
「……リディア、俺は——」
リディアは最後まで、微笑みを崩さなかった。
「失礼いたします、殿下」
それだけで面会は終わった。
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
ミナが、やっと息を吐いた。
ヘレナが、低い声で言う。
「……殿下は、謝り方を知らないのですね」
リディアは答えなかった。
答えたら、胸の奥の痛みが言葉になってしまう。
ただ、椅子に座り直し、ペンを取る。
仕事の形を保つ。
白い紙に、黒いインクが染みる。
それは、心が閉じた証拠みたいに見えた。
朝の光が薄いカーテンを透かし、机の上の書類を淡く照らす。
インクの匂い。紙の擦れる音。
——感情の入る余地がない、仕事の空気。
リディアは背筋を正し、ペンを走らせていた。
昨夜、ほとんど眠れなかった目は少し重い。
けれど表情は崩さない。崩せば噂が拾う。
ミナが湯気の立つ白湯を置き、ヘレナが今日の公務予定を静かに差し出す。
二人の動きは完璧だった。
主が崩れないように、周りが崩れない。
扉が叩かれたのは、予定よりも早い時間だった。
「妃殿下。王太子殿下がお越しです」
女官の声が硬い。
この時間の訪問は、噂の餌になる。
リディアはペンを置き、顔を上げる。
微笑みを作る。
王太子妃としての、面会の微笑み。
「通して」
扉が開き、アーヴィンが入ってくる。
昨日より顔色が悪い。
眠れていないのは、彼も同じらしい。
——なら、なぜ昨日の夜に来なかったの。
胸の奥で言葉が浮かぶが、リディアはそれを沈めた。
“責める言葉”は、もう口にしないと決めた。
「妃殿下」
アーヴィンは公務の礼を取り、言葉を整える。
それだけで、リディアの心が少し閉じる。
彼はまだ“夫”の扉を開ける勇気がない。
「……殿下。ご用件を」
リディアが促すと、彼は一瞬だけ目を伏せた。
「昨日の件だ。……君に、謝らなければならない」
謝罪。
その言葉に、胸が僅かに揺れる。
人は、謝られると一瞬だけ希望を持つ。
その一瞬が、いちばん残酷になることを、リディアはもう知っている。
「私は、君を止めるべきではなかった」
そこまでは、正しい。
けれど次の言葉が、謝罪を“未満”に変えた。
「……ただ、あの場は、皆が見ていた。噂が広がれば、君に不利になる。だから穏便に——」
穏便に。
またその言葉。
また“場”の話。
また“噂”の話。
リディアの胸の奥が、すうっと冷える。
——謝っているのに、言い訳が先に出る。
——謝っているのに、私の痛みではなく、空気を説明する。
ミナが背後で拳を握る気配がした。
ヘレナが視線を落とし、唇を噛む。
侍女たちも、分かっている。
これは謝罪ではない。弁明だ。
アーヴィンは続ける。
「君が正しいのは分かっている。……でも、あの令嬢は王宮に慣れていない。泣いていたし、騎士カイルも——」
カイル。
第三者の名が出た瞬間、リディアの心がまた一段閉じる。
“君”ではなく、“他人”で言い訳を積む。
それは、妻の痛みを薄める作業だ。
「殿下」
リディアは静かに遮った。
声は柔らかい。
柔らかいほど、壁になる。
「謝罪とは、説明ではありません」
アーヴィンの口が止まる。
言葉が詰まる。
リディアは机の端に置いた白湯に手を伸ばし、ゆっくり一口飲んだ。
胃がひりつく。
その痛みで、感情が戻りそうになる。
戻らせないために、さらに声を平らにした。
「殿下が謝りたいのは、“何”でしょう」
問いは簡単。
簡単だから、逃げられない。
アーヴィンは唇を開け、閉じる。
答えられない。
自分が傷つけたものの名前を、まだ言えない。
「……君を傷つけた」
ようやく出た言葉は、薄い。
痛みの芯に触れていない。
リディアは頷いた。
頷いたのに、胸の奥は軽くならない。
なぜなら、その後ろに言い訳が列をなしているから。
アーヴィンが焦ったように続ける。
「リディア、分かってくれ。王宮は難しい。全部が噂になる。だから——」
だから。
その“だから”で、また妻が置き去りになる。
リディアは微笑んだ。
薄く、完璧に。
「殿下。私は王宮の難しさを知っています」
知っている。
だからこそ、礼節を守った。
だからこそ、殿下を支えた。
なのに、殿下は——。
リディアは言葉を飲み込んだ。
飲み込むたびに、心の扉が閉まる。
「……分かりました。今後は公務の場で、必要なことだけを」
アーヴィンの目が見開かれる。
「待ってくれ。君はまだ怒っているのか」
怒り。
怒りだと思われた瞬間、リディアの中で何かが切れる。
怒りではない。
諦めだ。
「怒ってはいません」
リディアは静かに言った。
「怒るだけの期待が、もうありません」
その一言が、部屋の空気を凍らせた。
アーヴィンは言葉を失う。
“怒られる方がまだ救い”だと、その顔が言っている。
リディアは立ち上がり、礼を取った。
王太子妃の礼。
距離を確定する礼。
「殿下。今週の公務日程はこちらに。確認事項は書面で」
紙を差し出す。
言葉の代わりに。
アーヴィンの手が宙に浮いたまま、紙を掴めない。
掴めないまま、彼は震える声で言った。
「……リディア、俺は——」
リディアは最後まで、微笑みを崩さなかった。
「失礼いたします、殿下」
それだけで面会は終わった。
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
ミナが、やっと息を吐いた。
ヘレナが、低い声で言う。
「……殿下は、謝り方を知らないのですね」
リディアは答えなかった。
答えたら、胸の奥の痛みが言葉になってしまう。
ただ、椅子に座り直し、ペンを取る。
仕事の形を保つ。
白い紙に、黒いインクが染みる。
それは、心が閉じた証拠みたいに見えた。
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