「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ

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第25章|王太子、茶会の準備を自分で始める

――償いの形が不器用で、だからこそ痛い。

 執務室の朝は、いつも同じ匂いがする。
 乾いた紙と、乾いたインクと、封蝋の甘い焦げ。国を回すための匂い。——それは王太子であるアーヴィンにとって、長いあいだ“安心”だった。

 だが今日、その匂いは喉に引っかかった。

 机上に積まれた書類は、昨日と同じ厚みで、同じ角度で並んでいる。
 宰相の火消し報告。舞踏会の進行案。外交使節の名簿。
 どれも重要で、どれも正しい。正しいから、片づけられる。

 ——なのに、ひとつだけ、片づけられないものがある。

 「公務のみ」というリディアの声。
 そして、窓辺の席から消えた温度。

 アーヴィンはペンを持ったまま、同じ行を三度読み、四度目でやめた。文字が頭に入らない。代わりに入ってくるのは、妻の微笑みの薄さだ。怒りよりも、泣き声よりも、あの薄さが残酷だった。

 ——守り方を、間違えた。
 ——守りたいものを、後回しにした。

 ルシアンの言葉が、骨の内側で響く。

 言葉ではなく、行動です。

 アーヴィンは立ち上がり、執務室の棚へ向かった。
 外交で贈るための上質な茶葉が、密封された缶に並んでいる。香りが逃げないよう、丁寧に保管されたものだ。触れるたび、王宮の財政と格式が指先に伝わる。

 その中から、彼はひとつを選んだ。

 ベルガモットの茶。
 窓辺の茶会室に、いつも漂っていた香り。

 缶の蓋を開けた瞬間、乾いた葉の匂いがふわりと立ち上がった。
 その香りだけで、胸の奥がきゅっと縮む。あの香りには、リディアが「ええ」と頷く声が重なっていた。カップに指を添える所作が重なっていた。——そして今、その重なりがない。

 アーヴィンは茶葉の量を測ろうとして、匙を探した。見当たらない。
 当然だ。ここは執務室で、茶会室ではない。
 当たり前のことに、今さら気づいて、彼は一瞬笑いそうになった。笑えない。笑えば、自分の不器用さが情けなくなる。

「殿下」

 補佐官トーマスが入室した。いつも通りの顔で、いつも通りの報告を抱えている。
 王太子の一日がずれていることに、まだ気づかない顔。

「本日の会議は——」

「後にする」

 言葉が先に出た。
 自分でも驚くほど、短く、はっきりと。

 トーマスの目が丸くなる。けれど次の瞬間、彼は王太子の表情を見て、言葉を飲み込んだ。政務に生きる男は、空気よりも“命令”を読む。

「……承知いたしました」

 アーヴィンは、茶葉の缶を抱えたまま廊下へ出た。
 歩きながら思う。自分は今、何をしようとしているのか。
 茶会を復活させたいのではない。過去に戻りたいのでもない。
 ただ——“あの場所”を、取り戻す手つきが欲しい。妻が守ってきた秩序を、自分の手で触れて理解したい。

 窓辺の茶会室へ続く回廊は、いつもより長く感じた。
 絨毯の柔らかさが足の裏に馴染まず、窓から差す光がやけに白い。
 王宮は静かだ。静かすぎて、自分の足音だけが責めるように響く。

 扉の前に、侍従長グレイスが立っていた。
 彼は何も聞かず、何も尋ねない。ただ、いつも通りの礼を取り、いつも通りの動きで鍵束を差し出した。

「殿下。こちらを」

 その“いつも通り”が、なぜだか胸を刺した。
 リディアがやめたのは、いつも通りの午後だった。
 そのいつも通りを、周囲はいつも通りに戻そうとする。
 でも戻らない。戻らないのは、椅子でも、茶器でもない。心だ。

 アーヴィンは鍵を受け取り、扉を開けた。

 窓辺の茶会室は、空っぽなのに満ちていた。
 二つの椅子。小卓。白いクロス。銀のトレイ。
 整えられた空間が、逆に“欠けているもの”を際立たせる。

 ——ここに、彼女がいた。
 ——それだけで、ここは呼吸できる場所だった。

 アーヴィンは無意識に、左側の椅子を見た。
 窓に近い、リディアの席。
 あの席は、彼女の立場の象徴で、同時に彼女の小さな安らぎだった。

 彼は椅子を引いた。
 座らない。座れない。
 代わりに、テーブルクロスの端に指をかけ、ほんの少しの皺を伸ばした。

 ——こんなこと、誰の仕事でもない。
 ——本来は、侍女の手がすることだ。
 だが、誰の手でもないからこそ、自分の手でしなければ意味がない気がした。

 砂糖壺。ミルク差し。スプーン。
 彼は一つひとつを“いつもの位置”へ戻していく。
 たった数寸。けれどその数寸に、夫婦の境界線があることを、今さら骨で理解する。

 砂糖壺が、二人の間に置かれていた夜。
 あれは、ただの配置じゃない。
 “間”に他人を置いたという意味だった。

 アーヴィンは息を吐き、次にポットを探した。
 茶会室の棚にある。見つけて、持ち上げて、置く。
 重さが手首に残る。

 湯はどこから?
 カップはどの順で?
 香りを立てる時間は?
 ——知らない。知らなかった。知らないまま、妻の隣に座っていた。

 恥ずかしさが、遅れて痛みに変わる。

 アーヴィンは扉の外へ顔を出し、通りかかった女官を呼び止めた。
 声が思ったより低く、硬く出た。

「湯を……ここへ」

 女官が目を見開き、慌てて礼を取る。

「は、はい。すぐに——」

 女官は走っていった。
 その背中が“噂”を連れて走る背中に見えて、アーヴィンは唇を噛んだ。
 王宮で行動は、すぐに物語になる。
 でも、もう隠れて守るのはやめると決めたはずだ。

 湯が届くまでの間、アーヴィンは窓辺の光を見つめた。
 庭園の枝が硝子に影を落とし、風がカーテンをわずかに揺らす。
 その揺れが、あの日の静けさを思い出させる。

 ——今なら分かる。
 ——ここは、彼女が耐えるための場所だった。

 届いた湯を受け取り、彼はポットに注いだ。
 湯気が立ち、ベルガモットの香りがふわりと広がる。
 その香りだけで、胸が痛む。香りは変わらないのに、隣の温度がない。

 アーヴィンは二つのカップを並べた。
 右と左。
 王太子の席と、王太子妃の席。

 並べ終わって、指先が止まる。
 ここまで整えても、彼女は来ない。
 呼びに行けばいい? ——いや、迫ればまた傷つける。
 彼女が言った“公務のみ”を、今度は自分が破ることになる。

 だから、彼はまた不器用な選び方をした。

 侍女ミナへ伝言を託す。
 言葉は少なく。説明はしない。言い訳もしない。
 ただ、事実だけを届ける。

「……妃殿下に。もし差し支えなければ、茶会室を整えたと」

 女官は頷き、慎重な足取りで去っていった。
 それだけで、胸の奥が少しだけ軽くなる。
 軽くなったぶん、痛みが見える。

 アーヴィンは椅子に座らず、窓辺に立ったまま待った。
 王太子が待つなど、王宮の誰も想像しない。
 けれど彼は今、待つしかない。
 “来い”と言えない。来てもいい、とも言えない。
 ただ、席を守るしかない。

 時間が過ぎる。
 湯気が細くなる。
 香りが少しずつ落ち着いていく。

 その静けさの中で、アーヴィンは初めて、妻の沈黙の重さを測り始めた。

 ——彼女は怒っているのではない。
 ——期待をやめたのだ。
 ——期待をやめた心は、戻り方を知らない。

 扉が、叩かれた。

 アーヴィンの心臓が跳ねる。
 だが入ってきたのは、ミナではなかった。
 近衛のルシアンが、扉の隙間から静かに告げる。

「殿下。宰相殿より至急の報告が——」

 アーヴィンは返事をせず、ただ視線を扉の向こうへ向けた。
 来る気配はない。
 香りはもう薄い。

 彼は、ゆっくりと息を吐いた。

「……後だ」

 言った瞬間、胸が痛む。
 来ない人のために、公務を後回しにしたわけではない。
 けれど“来ない”が、こうして現実になる。

 やがて、扉の外からミナの足音が聞こえた。
 慎重で、静かで、主の心を壊さないような歩幅。

 ミナが入室し、深く礼を取る。
 顔を上げるのが遅い。言いにくい報告だと分かる。

「……殿下。妃殿下は、本日の舞踏会の準備と公務の確認でお忙しく……」

 断りの言葉ではない。
 でも、来ないという報告だ。

 アーヴィンは頷いた。
 「そうか」と言いそうになって、飲み込んだ。
 あの“そうか”を、リディアはもう信じない。

「……分かった。下がっていい」

 ミナは一瞬だけ唇を噛み、礼を取って下がった。
 扉が閉まる。

 また、静けさが戻る。

 アーヴィンは、手つかずの左のカップを見つめた。
 冷めていく茶。
 戻らない温度。
 待っても来ない席。

 償いは、こんなにも不器用だ。
 形を整えても、肝心のものは戻らない。
 けれど彼は、そこで初めて理解した。

 ——整えるべきは、茶会室ではない。
 ——妻の心が座れる場所だ。

 そしてその場所を壊したのは、他でもない自分の一言だった。

 アーヴィンは、冷めた香りの中で目を閉じた。
 遅すぎる後悔が、胸の奥を静かに満たす。

 舞踏会の夜は近い。
 今夜、彼は公の場で試される。
 守るのが遅い王太子が、今度こそ“盾”になれるのか。

 窓辺の光だけが、答えをくれないまま揺れていた。

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