「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ

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第60章|エピローグ

 茶会の時間が来ても、窓辺の席は用意されなかった。

 用意しないのは、罰ではない。
 ——約束でもない。
 ただ、現実だ。

 王太子妃リディアの朝は変わらず早い。
 薄い光の中、衣擦れの音ひとつ立てずに身支度を整え、髪を結い上げる。プラチナブロンドは淡く艶を残し、鏡の中の顔はいつもと同じ微笑みを作る。

 その微笑みは、王宮のため。
 自分のため。
 そして——もう、誰かのためではない。

 ミナが襟元を整えながら、いつものように訊いた。

「本日は、殿下とご一緒のご予定が——」

 その言葉の続きが、宙で止まる。
 訊かなくても答えは分かっているからだ。

 リディアは視線を落とし、淡々と言った。

「公務は、私の導線で進めます」

 導線。
 それは、逃げ道ではない。
 折れないための線引きだ。

 ——殿下の隣を空ける。
 でも、妃の役目は空けない。

 その選択が、王宮を少しずつ変えていった。

 噂は、まだ生きている。
 噂は死なない。形を変えるだけだ。

 「妃は冷たい」
 その言葉はしぶとく残った。
 けれど同じ口が、こうも言うようになった。

 「妃は、正しい」
 「殿下は、ようやく分かったらしい」
 「王太子府の空気が変わった」

 変わったのは、物語ではない。
 手順だ。
 取り次ぎの規定が守られる。
 近づくには許可がいる。
 誰かが“可哀想”を作る前に、王妃マルグリットが切る。

 それでも人は、感情で動く。
 だから、完全には消えない。

 ある日、廊下の角でローラが囁くのが聞こえた。

「殿下も可哀想よね。妃殿下があんなに——」

 言葉は最後まで言わせなかった。

 近衛ルシアンが一歩前へ出て、静かな声で遮った。

「子爵令嬢。妃殿下の名誉を損なう言葉は、王太子府への不敬です」

 声は低い。
 刃の角度が正確だ。
 周囲の笑いが凍る。

 ルシアンが去った後、誰も続きは言えなかった。
 空気は、作るものではなく——切られるものになった。

 リディアはその報告を受けても、表情を変えなかった。

「そう」

 それだけだ。
 勝った顔をしない。
 勝った物語を作らせない。

 彼女は、“妃”として立ち続けるだけだった。


 夕刻。
 執務の合間に、薄い鐘の音が鳴る。

 王太子アーヴィンは、いつの間にか自分の手で茶器の手入れをしていた。
 不器用な指先が布を滑らせ、白磁の縁を撫でる。

 ——あの頃は、茶会は“安らぎ”だと思っていた。
 妻が微笑むから、安らいでいるのだと勘違いしていた。

 安らいでいたのは、自分だけだ。

 扉の向こうに、リディアはいない。
 それが今の“償い”の形だった。

 彼は何度も思い出す。
 情けない一言。
 あの夜、広間で言った「争う必要はない」。
 止めるための「そこまで」。
 ——それが、ミレーユを図に乗らせた。

 善意の顔をした無責任。
 空気の味方をした結果、妻を一人にした。

 彼は茶器を置き、深く息を吐いた。
 息の吐き方が、少しだけ変わった。
 逃げるための溜息ではなく、背負うための息になった。

 彼は、手紙を書くこともやめた。
 紙の謝罪は、また“言葉”で逃げるからだ。

 代わりに、日々の場で選ぶ。
 小さな選択。
 小さな切り捨て。
 小さな守り。

 それが、取り返しのつかないものに対する唯一の態度だと知ったから。


 リディアは夜、窓辺に立った。

 夜の庭園には霜が降り、月光が白く淡い。
 風に揺れる木々の音が、遠い海のように聞こえる。

 ミナが後ろで囁いた。

「殿下は……変わりましたね」

 リディアは、すぐには答えなかった。
 変わったと認めれば、心が動く。
 動けば期待になる。
 期待はまた痛みになる。

 彼女はゆっくり言った。

「変わったのは、殿下ではなく——殿下の選択です」

 ミナが静かに頷く。

「……妃殿下。では、茶会は……」

 リディアは窓の外を見たまま答えた。

「再開しません」

 きっぱりと。
 残酷ではない。
 現実として。

「茶会は、私の唯一の安らぎでした。
 だから壊れたのなら——二度と同じ形には戻りません」

 ミナは言葉を失った。
 それでも、リディアは続ける。

「けれど、私はここにいます。
 妃として。逃げずに」

 その言葉は、自分に言い聞かせるための言葉でもあった。

 リディアは、ふと気づく。

 胸の痛みが、少しだけ軽い。
 消えてはいない。
 でも、呼吸ができる。

 “待つ日常”は、今日も続く。
 けれど以前の待ちは——希望の待ちだった。
 今の待ちは違う。

 期待しない待ち。
 折れないための待ち。
 そして、いつでも立って去れる待ち。

 その違いが、彼女を救っていた。

 

 翌朝。
 大広間の廊下で、リディアとアーヴィンがすれ違った。

 近いのに、触れない。
 王宮の誰もが息を止める距離。

 アーヴィンは立ち止まり、礼をした。
 妻に。
 妃に。

「おはようございます、妃殿下」

 “リディア”ではない。
 呼び方を変えたのではない。
 ——彼は、まず秩序を守るところから始めている。

 リディアは微笑んだ。
 深くはない。
 けれど、昨日よりは硬くない。

「おはようございます、殿下」

 二人の言葉は、礼節でできている。
 礼節だけでできている。

 だからこそ、王宮は物語にしづらい。
 泣きも、抱擁も、劇的な和解もないから。

 けれど、劇的でないものほど、強い。

 アーヴィンが一瞬だけ言葉を探す。

「……今日も、選ぶ」

 小さな声だった。
 誰に聞かせるでもない。
 自分に課す声。

 リディアは答えない。
 答えないことが、彼への許しではない。
 ただ、彼女の境界だ。

 それでも——

 すれ違いざま、彼女はほんの少しだけ足を止め、振り向かずに言った。

「選ぶなら、続けてくださいませ。
 王宮は忘れます。——私は、忘れません」

 声は穏やか。
 丁寧。
 逃げ道なし。

 アーヴィンの息が詰まる気配がした。
 それでも彼は、頷いた。

「……承知した」

 リディアは歩き出す。
 背筋は完璧。
 歩みも完璧。

 完璧の中に、ほんの僅かな余韻だけを残して。

 茶会は再開しない。
 でも、終わりでもない。

 壊れたものは戻らない。
 戻らないまま、選び直す日々が始まる。

 それがこの物語の結末だった。





支えてくださった皆さまへ。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

温かい応援に、何度も背中を押していただきました。
リディアの静かな強さも、アーヴィンの遅すぎた選択も、ここまで辿り着けたのは皆さまのおかげです。

この物語が、読み終えたあとも少しだけ胸に残りますように。
心からの感謝を込めて。

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