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序章 「名ばかりの王妃」
しおりを挟む白い回廊に、春の陽が差し込んでいた。
花々の香りが混じる風が吹き抜け、薄いカーテンが揺れる。
その光の中を、王妃リディアはひとり歩いていた。
裾を引く白金のドレス。髪に挿した小さな真珠の飾りが、風に揺れて小さく音を立てる。
けれど、その瞳はどこか遠くを見ていた。
この王宮で、彼女が笑うことはもう、ほとんどなくなっていた。
――夫、アレクシス王は、今日も戻らない。
結婚して三年。
政略のために結ばれた婚姻だったが、幼い頃から一緒に育った二人にとって、それは運命のようでもあった。
彼が王位を継いだ日、リディアは誰よりも誇らしく、誰よりも幸せだった。
どれほど忙しくても、夜には必ず微笑みながら「ただいま」と言ってくれた。
彼の声を聞くだけで、心が満たされるようだった。
――それが、いつからだろう。
笑顔が減り、帰る時間が遅くなり、やがて姿を見せない日が増えていったのは。
王の執務は確かに多い。隣国との条約交渉、使節団の対応。
だが、どこかに違和感を感じていた。
秘書官が「陛下は外でご宿泊です」と答えるたび、胸の奥に冷たい痛みが広がっていった。
食卓には、彼の好きだったスープが冷めたまま残る。
花瓶の花は、もう三日も取り替えられていない。
“優しすぎる人”――。
リディアはそう思っていた。誰にでも穏やかで、弱き者を助ける人。
だからこそ、自分がその優しさの中に含まれているのか、わからなくなるときがある。
心を許し合うはずの夫婦なのに、最近では他人のような距離があった。
「……リディア様、今日の午後のご予定はいかがなさいますか?」
侍女のマリアがそっと問いかける。
リディアは手元のティーカップを見つめたまま、静かに首を振った。
「特には……。王の執務に、支障がないようにと伝えておいて」
「はい。ですが……王が今夜も外泊とのことで……」
マリアが言いかけて、唇を噛む。
リディアの睫毛が震えた。
「どちらに?」
「王宮記録では、“隣国レーヴェル公爵家の招宴”と……。けれど、侍従たちの話では、同盟国の姫殿下――イザベル様とご同行だったとか」
――また、その名。
リディアの胸が、音もなく締めつけられる。
イザベル。
金の髪と翡翠の瞳をもつ隣国の姫君。外交のために一時滞在している女性。
優雅で聡明、そして、王の傍に並ぶ姿があまりに“絵になる”と評判だった。
最初は気にも留めなかった。
けれど、日ごとに増える噂。
「夜会で陛下が姫をエスコートなさっていた」「二人きりで馬車に乗られていた」――。
そんな話を耳にするたび、胸の奥に暗い影が積もっていった。
信じたい。
けれど、信じるための言葉を、彼はくれない。
午後の陽が傾き、王宮の門が開いた。
外の通りから、馬車が二台並んで帰ってくるのが見える。
リディアは何気なくバルコニーに出た。風が頬を撫でる。
……その瞬間、胸が止まった。
先頭の馬車から降りたアレクシスが、誰かを自ら支えている。
金糸のドレス、金髪――イザベル姫。
彼女の微笑みに、王が穏やかに頷いた。
距離があるのに、笑顔の温度が伝わってしまうほどだった。
侍女の声も、風の音も、何も聞こえなくなった。
ただ、ゆっくりと二人が並んで宮殿へ入っていく背中を見つめる。
(……ああ、そうなのね)
その夜、リディアは寝室で膝を抱えた。
白い寝台の上、夫の枕だけが冷たいままだった。
時計の針が十二を回っても、扉が開くことはない。
月明かりがカーテンの隙間から差し込み、床に白い影を落とす。
その光の中で、彼女は静かに指輪を撫でた。
「あなたを信じる」と誓った指輪。
けれど今は、その約束が――痛い。
涙は、流さない。
王妃として、感情を乱すことは許されない。
ただ、静かに目を閉じ、心の奥に沈める。
――沈黙こそが、彼女に残された唯一の誇りだった。
翌朝、アレクシスが宮殿に戻ったのは夜明け前。
リディアはすでに、玉座の間に向かう身支度を整えていた。
すれ違いざま、王が声をかけようとしたが、彼女は振り返らなかった。
ドレスの裾が床をすべる音だけが、静かな廊下に響く。
「……リディア」
背中に届いたその声は、昔と同じ優しさを帯びていた。
けれど今は、もう――信じられなかった。
彼女は微笑みを作り、ただ一言だけ残した。
「おはようございます、陛下」
それが、三年目の夫婦の朝。
沈黙から始まる、終わりの予感だった。
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