『話さない王妃と冷たい王 ―すれ違いの宮廷愛

柴田はつみ

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第1章 春の晩餐

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 春の晩餐会は、王国でもっとも華やかな夜だった。
 百本の燭台が光を放ち、花々の香りが大広間を満たす。
 音楽家たちの奏でるヴァイオリンの音が、まるで夢のように響いていた。

 王妃リディアは、静かに笑みを浮かべながら列席していた。
 胸元まで流れる白金のドレスに、王妃の証である青いサファイアのティアラ。
 完璧な装い。完璧な微笑。
 ――けれど、心は少しも穏やかではなかった。

 (今日は……きっと、隣に座ってくれるはず)
 そう思っていた。
 三ヶ月ぶりに、陛下と並んで出席する晩餐会。
 周囲の視線にさらされても構わない。ただ、隣にいられるだけで十分だった。

 けれど、扉が開いて現れた彼の隣には、別の女性がいた。

 淡い金のドレス、繊細な刺繍のヴェール。
 誰もが息を呑むほど美しい隣国の姫――イザベル。
 そして、王の手が彼女の腰を支えていた。

 会場がざわめく。
 「まあ……」「まさか、イザベル殿下と……?」
 そんな小声が波のように広がった。

 リディアはゆっくりと立ち上がり、慣れた微笑で一礼した。
 「お疲れさまでございます、陛下。ようこそお戻りくださいました」
 声は震えなかった。王妃としての誇りが、ぎりぎりのところで彼女を支えていた。

 アレクシス王は一瞬だけ視線を向け、穏やかに頷いた。
 「久しいな、リディア。イザベル殿下が我が国を訪れてくださった。歓迎の宴を開こう」

 リディアは小さく頭を下げる。
 「もちろんです。どうぞ、楽しい夜を」

 それだけ言って、胸の奥で何かがひび割れた。

 

 晩餐のあいだ、彼女の席は王の隣から二つ離れていた。
 間に置かれた花瓶の向こう、アレクシスとイザベルが穏やかに言葉を交わしている。

 ――彼のそんな笑顔を、いつぶりに見ただろう。

 外交の話だと、頭ではわかっている。
 王として必要な笑みだと、理性は理解している。
 けれど、心だけが拒絶していた。
 彼が他の女性に見せる微笑みを、どうしても受け入れられなかった。

 「王妃様、お顔色がすぐれませんが……」
 隣席の公爵夫人がそっと声をかけてくる。
 リディアは微笑みでそれを遮った。
 「ええ、大丈夫。少し……花の香りが強いだけです」

 視線を落とすと、ワイングラスの中で赤い光が揺れている。
 それがまるで、胸の奥の嫉妬の色のようで、目をそらした。

 やがて、舞踏の時が来る。
 王が立ち上がり、イザベルに手を差し出した。
 彼女が微笑んで、その手を取る。

 会場が静まり返る。
 音楽が流れ、二人が踊り出す。
 彼の掌が彼女の背に触れ、ゆっくりと旋回する。

 その光景は、あまりにも美しかった。
 まるで絵画のように、完璧な“王と姫”。

 リディアは笑顔を保ちながら、指先が震えるのを隠すように膝の上で手を組んだ。
 心臓の鼓動が苦しいほど速い。
 周囲が祝福の拍手を送る中、彼女だけが声を出せなかった。

 (どうして、こんなにも……遠いの)

 

 舞踏が終わると、アレクシスがイザベルをエスコートし、席に戻った。
 彼の視線が一瞬、リディアを捉えた。
 けれど、その瞳には感情の色がなかった。
 ただの形式のように、軽く頷くだけ。

 胸の奥で何かが、静かに壊れた気がした。

 その瞬間、リディアの耳にひそひそとした声が届く。
 「イザベル殿下、今宵は王宮にお泊まりだそうですわ」「まぁ、王のお部屋の隣に……」
 誰かの言葉に、手が止まる。
 冷たい水の中に落ちたように、呼吸が浅くなった。

 「リディア様?」
 マリアが心配そうに駆け寄る。
 「……ごめんなさい。少し、空気を吸ってきます」

 そう言って、リディアは静かに会場を抜けた。

 

 外の回廊は冷たかった。
 春の夜風が頬を刺す。
 月が高く、白い光が石畳を照らしている。

 庭園の奥で、鳥の声が遠くに聞こえた。
 リディアは手すりに指をかけ、そっと息を吐く。

 笑い声が、まだホールから響いてくる。
 あの中に、彼がいる。
 そして隣には――イザベル。

 (私の立場は、いったい何……?)

 思わず手にしていた手袋を外した。
 指輪が月光を受けて、鈍く光る。

 「……愛している」と言ってくれた夜が、あった。
 その言葉を信じて、王妃になった。
 けれど今では、その記憶さえ幻のように遠い。

 風が強く吹き、裾が揺れた。
 花壇の薔薇が一輪、散る。
 その花びらが彼女の肩に落ち、冷たく消えた。

 「リディア」

 振り向くと、そこにアレクシスが立っていた。
 夜会の喧騒の中から抜け出してきたのだろう。
 彼の表情は、少しだけ困ったように見えた。

 「こんな場所で何をしている」

 「少し、風に当たりたくて」
 彼女は笑顔を作った。
 「陛下こそ……イザベル殿下をお待たせしてしまわれませんか?」

 「……君は、いつもそうだな」
 低い声が夜に溶ける。
 「何かあっても、怒らない。泣かない。黙って微笑む」

 「王妃ですから」
 そう答えると、彼の瞳が少しだけ揺れた。

 沈黙が流れた。
 遠くで音楽が再び鳴り始める。

 「……もう戻りなさい、リディア。寒いだろう」

 「はい。――おやすみなさいませ、陛下」

 丁寧に礼をして、彼の前を通り過ぎた。
 ほんの一瞬、袖が触れた。
 その温もりだけが、胸の奥に残った。

 背中に彼の視線を感じながら、リディアは歩き出す。
 涙はこぼれなかった。
 ただ、心のどこかが静かに冷えていくのを感じた。

 夜会の光が遠ざかる。
 そして、静かな闇の中で彼女は思った。

 ――この沈黙が、永遠にならなければいい。
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