『話さない王妃と冷たい王 ―すれ違いの宮廷愛

柴田はつみ

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第2章 噂という影

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 朝の王宮は、静まり返っていた。
 春の陽が差し込む回廊に、淡い影が落ちる。
 リディアは侍女に紅茶を淹れてもらいながら、何度もカップの縁を指でなぞっていた。

 眠れなかった。
 昨夜の晩餐会で見た光景が、瞼の裏に焼きついて離れない。
 ――アレクシスが、他の女性と踊る姿。
 あの柔らかな笑みは、もう自分に向けられることはないのだろうか。

 (私は、何を恐れているのかしら)
 そう自分に問う。
 答えは出ない。
 けれど、胸の奥でずっと“何かが終わり始めている”という確信があった。

 

 「リディア様、よろしいですか?」
 扉の外から、侍女マリアの声がした。

 「どうぞ」

 静かに入ってきたマリアが、少し困ったような顔をしている。
 その手には銀の盆があり、上には朝刊が一枚。

 「何かあったの?」

 「……王都の新聞に、陛下の記事が」

 マリアが紙面を差し出す。
 リディアが目を落とすと、見出しが目に飛び込んできた。

 “国王、隣国レーヴェル姫との親交を深める 外交関係さらに緊密に”

 その下には、夜会で笑顔を交わす二人の絵が添えられていた。
 イザベルの金髪が、光を受けてまぶしいほどに輝いている。
 その隣で、アレクシスが穏やかに微笑んでいた。

 “親交を深める”。
 ただそれだけの言葉。
 だがその一文が、鋭い刃のように胸に突き刺さる。

 マリアが心配そうに口を開いた。
 「王妃様、きっと外交的な意味でございます。お二人のご関係など――」

 「ええ、わかっているわ」
 リディアは微笑んだ。
 けれど、その笑顔が自分のものではないような気がした。

 

 昼下がり。
 王妃の控室には、近隣の令嬢たちが訪れていた。
 季節の花を持ち寄り、談笑する――はずだった。

 けれど、話題は自然と同じ方向へと向かっていく。

 「陛下とイザベル姫、本当にお似合いですわね」
 「昨夜のお二人の舞踏、まるで絵本のようでした」

 リディアは笑顔を保った。
 「ええ、とても素敵でしたわ」

 けれど、胸の奥で小さな音がした。
 それは“誇り”がひび割れる音だった。

 「……でも噂ですのよ?」
 ひとりの令嬢が扇子を口元に寄せ、声を潜めた。
 「イザベル姫は、昨夜のあと陛下のお部屋を訪れたとか」

 「まぁ!」
 隣の夫人が目を見開く。
 「それは――」

 「違います」
 リディアの声が、思わず低く響いた。
 室内が静まり返る。

 「……陛下はそのような方ではありません。外交上の打ち合わせでしょう」

 言い切ったその声が震えていた。
 彼女自身が、それを信じきれていなかったから。

 気まずい空気が流れ、令嬢たちは慌てて話題を変える。
 だが、リディアの耳にはもう何も入らなかった。

 

 その日の夕刻。
 王の執務室の扉の前で、リディアは立ち止まった。
 中からは、低く穏やかな声が聞こえる。

 「――明日の午餐は、イザベル殿下とお取りになるのですね?」
 秘書官の声に、王の声が答える。
 「そうだ。彼女は明後日には隣国に戻る。今のうちに話しておくべきだ」

 扉越しに聞くその声は、淡々としていた。
 けれど、どこか優しさを含んでいるように思えて、胸が痛んだ。

 (……私と話すときより、柔らかい)

 そんな考えが浮かび、すぐに首を振った。
 信じたい。疑いたくない。
 それでも、疑念は静かに彼女を蝕んでいく。

 マリアが廊下の向こうから歩み寄ってきた。
 「王妃様、今宵はお部屋にお戻りを」
 「ええ」

 扉の前から離れるとき、微かな笑い声が聞こえた。
 アレクシスと、誰かの笑い声。
 その響きが、遠ざかるほどに胸が締めつけられる。

 

 夜。
 リディアは鏡の前に座っていた。
 化粧を落とす手が止まる。
 鏡の中の自分の顔が、誰かのように見えた。

 頬がこけ、瞳の輝きが失われている。
 「王妃」――その肩書きだけが、自分を保たせている。

 窓の外には、王の執務室の灯りがまだ見えていた。
 その灯りが、自分の部屋より長く燃え続けていることが、もう当たり前になっていた。

 けれど今夜は、違って見えた。
 その光の向こうに、別の誰かがいるような気がしてならなかった。

 (私は、陛下の何なの……?)

 唇を噛む。
 涙は出なかった。
 涙を流すことは、立場を壊すことだから。

 でも――心はもう、崩れかけていた。

 

 翌朝。
 庭園で一人、リディアは花々を剪定していた。
 春の光がまぶしい。
 それなのに、胸の中は曇ったままだ。

 マリアが静かに近づいてくる。
 「王妃様……。今朝、侍従たちが話しておりました。陛下は昨夜、宮殿にはお戻りにならなかったと」

 リディアの手が止まった。
 ハサミの音が消える。
 「どこに?」

 「……詳しくは。ですが、城下の高級宿に、王の馬車が止まっていたと」

 リディアはゆっくりと顔を上げた。
 陽光がまぶしくて、涙のように滲んだ。

 「……そう」

 風が吹き、花びらが舞う。
 その白い花びらが、彼女の肩に落ちた。
 手で払い落とすこともできなかった。

 沈黙だけが、彼女のまわりを包み込む。
 信じたかった。
 けれど、心のどこかで――もう知っていた。

 その夜。
 リディアは寝室の窓を開け放った。
 月が、静かに昇っている。
 夜風が髪を揺らし、遠くから鐘の音が響いた。

 「ねぇ、アレクシス……」
 誰もいない部屋で、彼の名を呼ぶ。
 その声は風に溶け、消えていった。

 「どこにいるの……」

 返事は、なかった。
 ただ、夜だけが深まっていく。

 ――そして、噂は現実に変わる準備を始めていた。
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