『話さない王妃と冷たい王 ―すれ違いの宮廷愛

柴田はつみ

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第3章 冷たい朝

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 朝の光が、やけに冷たかった。
 王宮の大理石の床は白く光り、窓の外の庭園には淡い霧が立ちこめている。
 小鳥たちのさえずりが遠くで響くのに、胸の奥だけが静まり返っていた。

 リディアは、寝台の上で目を覚ました。
 隣の枕は、昨夜も冷たいままだった。
 アレクシスが最後にこの寝室で夜を過ごしたのは――いつだったろう。
 もう数えられないほどの夜を、ひとりで迎えている。

 カーテンを開けると、風が薄いレースを揺らした。
 光が差し込んでも、部屋の空気はどこか重たい。
 侍女のマリアが静かに入ってきて、温かな紅茶を盆にのせて運んでくる。

 「おはようございます、王妃様。……お加減はいかがでしょうか」
 「ええ、大丈夫。よく眠れたわ」

 嘘だった。
 眠れぬ夜を幾度越えても、もう心は慣れることを知らなかった。
 マリアはしばし迷ったあと、小さな声で言った。

 「陛下は……今朝も、王都の邸宅にお泊まりだったようです」

 リディアの手が止まる。
 ティーカップの中の琥珀色の液体が、わずかに揺れた。

 「……そう」
 それ以上、何も言えなかった。
 その一言に、どれほどの痛みが含まれていたか、マリアは知っている。

 「陛下はお忙しいのです。きっと――」
 「ええ、わかっているわ」

 穏やかな声で遮ったけれど、その穏やかさ自体がもう悲しかった。

 

 朝食の間は、広すぎるほど静かだった。
 長いテーブルの端に座り、白い皿に置かれた焼きたてのパンを見つめる。
 侍女が次々と料理を運んできても、手をつける気にはなれなかった。

 スープの湯気の向こうに、彼の姿を思い出す。
 以前はいつも、この席で向かい合って笑っていた。
 「少し熱いぞ」と、優しく言ってくれた声。
 何でもない会話さえ、今では宝石のように遠い記憶だった。

 「王妃様……」
 マリアの声に、我に返る。
 「陛下は今日、午前中に隣国の使者と会談の予定だそうです」
 「そう。……忙しいのね」

 ふと視線を上げると、窓の外に王の馬車が見えた。
 庭を横切り、正門へと向かっていく。
 その馬車の中に、淡い金色の髪がちらりと見えた。

 (……イザベル)

 心臓が跳ねた。
 そして、痛みが走る。
 彼女はもう言葉を発せず、静かに立ち上がった。

 

 昼前、王の寝室の扉の前に立った。
 この部屋に足を踏み入れるのは久しぶりだった。
 扉を開けると、わずかに残る香り――彼の香。
 その下に、知らない香水の残り香が混じっていた。

 甘く、花のような香り。
 イザベル姫がまとっていた香と、同じ。

 リディアの胸が凍る。
 指先が震え、思わず扉の取っ手にすがる。

 (まさか、そんな……)

 けれど、理性が“まさか”を否定しきれなかった。
 枕元には、見慣れない金糸のリボンが落ちている。
 王の執務用の羽織の裾に、それが絡まっていた。

 そっと拾い上げると、微かに香水の匂いがした。

 「……っ」

 喉の奥から何かがこみ上げた。
 けれど、声にはならなかった。
 それでも涙は出なかった。

 涙を流すには、まだ“確信”が足りなかった。
 だからこそ、余計に苦しかった。

 そのとき――。
 部屋の外から、近侍の低い声が聞こえた。

 「陛下、昨夜のご宿泊先の件ですが、外部には漏れておりません」
 「そうか。……誰にも知られぬようにしてくれ」

 王の声。
 その声音は、まぎれもなく彼のものだった。

 (隠している……? 私に、ではなく……国に? それとも――)

 問いは喉の奥で溶けた。
 リディアは扉の影に身を潜め、息を潜めたまま動けなかった。

 「イザベル殿下は明日、再びこちらに。……例の件、王妃には?」
 「まだだ。話す必要はない」

 その一言が、胸の奥を刺した。

 “王妃には話す必要はない”――。
 それが、今の彼の本心なのだろうか。

 

 午後。
 王は宮殿を離れ、また外出した。
 行き先を誰も知らない。
 王妃のもとに報告もない。

 リディアは書斎に籠り、机の上に広げた古い本を見つめていた。
 けれど、文字は一つも頭に入らなかった。

 静かな部屋の中で、時計の音だけが響く。
 一秒ごとに、愛が遠ざかっていくように思えた。

 「……もう、終わってしまったの?」
 小さく呟いた声は、自分でも聞き取れないほど微かなものだった。

 (それでも、嫌いになんて……なれないのね)

 胸の奥で、まだ愛が生きている。
 それが、いちばん痛かった。

 

 夜。
 リディアは寝室の明かりを落とし、窓を開け放った。
 遠くの塔の上、王の部屋の灯りが今夜もともっている。

 その光を見上げながら、指輪を外した。
 銀の指輪が月光を受けて、わずかに輝く。

 掌の上で、それが冷たくなっていく。

 「――おやすみなさい、アレクシス」

 声に出した瞬間、涙が零れた。
 もう止められなかった。
 静かに、頬を伝い、ドレスの上に落ちていく。

 涙が音を立てて、沈黙を破った。

 朝が来ても、あの光が消えなかったら――。
 きっともう、戻れない。

 リディアはそう思いながら、閉じた瞼の裏で、遠い昔の彼の笑顔を思い出していた。
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