『話さない王妃と冷たい王 ―すれ違いの宮廷愛

柴田はつみ

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第5章 偶然の喫茶室

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 春の風が、王都の通りを撫でていた。
 街路樹の間を小鳥が飛び、石畳の上を馬車がゆっくりと走る。
 昼下がりの陽光は穏やかで、花売りの少女たちの笑い声が響いている。

 その穏やかな景色の中で、リディアは小さな馬車に揺られていた。
 外出は“慈善院の寄付視察”という名目。
 けれど、誰よりもわかっていた――今日は、心を落ち着けるための“逃避”だった。

 窓の外を眺めながら、そっと胸元のサファイアのペンダントを握る。
 “あなたが王である前に、私の幼なじみだった頃”の記憶だけが、唯一の支えだった。

 あの頃、彼はいつも言ってくれた。
 ――「泣くときは、俺の前でだけ泣け」
 その言葉を、今も信じていた。
 ……本当は、信じたいだけだった。

 「王妃様、もう少しで目的の通りに着きます」
 マリアの声に頷く。
 馬車が止まると、風の香りが流れ込んだ。

 王都の一角、小さな喫茶店。
 白い壁と木の扉、花の鉢が並ぶ庶民的な店。
 昔、二人でこっそり訪れたことがある。
 「身分のない場所で、普通の夫婦のように過ごせたら」と笑ってくれた、あの日の記憶が蘇る。

 リディアは静かに扉を押した。
 鈴の音が鳴り、甘い香りが漂う。
 店主が驚いたように立ち上がったが、リディアは控えめに会釈して二階の隅の席に座った。

 「しばらく……一人にしてちょうだい」
 マリアにそう告げ、カーテン越しの街を見つめる。
 陽の光が柔らかく差し込み、外の通りが見えた。

 そのとき――。

 通りの角に停まった黒い馬車。
 扉が開き、一人の男性が降り立つ。
 金の刺繍の外套、整った横顔。
 ――アレクシス。

 呼吸が止まった。
 ほんの一瞬で、体の中のすべての音が消えた。

 彼の後ろから降りてきたのは、見覚えのある金髪の女性。
 イザベル。

 彼女が笑い、アレクシスがその手を軽く取る。
 まるで、恋人のような自然な仕草。
 そのまま二人は、並んで――この店の向かいの喫茶室へ入っていった。

 (……どうして)

 胸が軋む。
 視線を逸らしたいのに、目が離せない。
 扉の向こうに消えていく二人の背中を、指先が震えながら追ってしまう。

 窓の外の景色が、滲んで揺れた。

 

 どれほどの時間が過ぎたのか、わからなかった。
 向かいの店の窓際、二人の姿が見える。
 アレクシスが穏やかに話し、イザベルが笑ってうなずく。

 その光景は、幸福そのものだった。
 彼女の知らない“夫の表情”。
 あんな柔らかな眼差しを、いつから自分に向けてくれなくなったのだろう。

 (ねぇ、アレクシス。どうして私じゃないの)

 唇が震える。
 でも、声にはならない。
 ただ、指輪の上に涙が一滴落ちた。

 「王妃様……もう帰りましょう。ここにいては――」
 マリアの声が掠れる。
 リディアは、ゆっくりと首を振った。

 「……もう少しだけ」

 その言葉は祈りのようだった。
 せめて、もう一度だけ彼の笑顔を見ていたかった。
 それが、“最後の記憶”になってしまうような気がして。



 やがて、二人が立ち上がる。
 イザベルが軽く会釈し、アレクシスがコートを手に取る。
 彼女が階段を降りるとき、彼はそっとその手を支えた。

 何の迷いもない仕草。
 “公務”ではない、優しさの温度。

 リディアの胸に、静かな音が響く。
 ――ああ、もう戻れない。

 外に出た二人は、馬車へと向かう。
 通りの人々が頭を下げ、笑顔を向ける。
 まるで、王と妃のように。

 その姿を、カーテンの影から見届ける。
 手が、テーブルの上で強く握られた。

 (もう、私の知らない場所で生きているのね)

 馬車の扉が閉まり、二人の姿が消える。
 喫茶店の中に、再び静寂が戻った。

 マリアがそっと肩に手を置く。
 「王妃様……」

 「……帰りましょう」
 リディアは微笑んだ。
 けれど、その笑みはどこか透けていた。

 外に出ると、春風が頬を撫でた。
 涙を乾かすような優しい風。
 けれど、心の中は凍ったままだった。

 馬車に乗り込み、窓の外を見つめる。
 さっきまで二人がいた通り。
 光が残っているのに、まるで世界の色が消えてしまったようだった。

 「マリア……」
 「はい」
 「人は……愛しているのに、信じられなくなるものなのね」

 マリアは言葉を失い、ただ静かにうなずいた。
 馬車が動き出す。
 石畳の音が、まるで涙のように響いた。

 リディアは窓に額を寄せ、目を閉じた。
 「……さようなら、あの頃の私」

 呟いたその声は、春の風にかき消された。
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