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第9章 涙の書簡
しおりを挟む修道院の鐘が、夕暮れの空に響いていた。
灰色の石壁の上を、薄紫の光が流れていく。
春の終わりを告げる風はまだ冷たく、リディアの頬を撫でていった。
白いヴェールをかぶった彼女の姿は、王妃というよりひとりの女性だった。
護衛も連れず、最低限の侍女だけを伴ってここに来た。
王宮から離れてわずか半日の距離なのに、もう別の世界のように静かだった。
修道女が温かなミルクを差し出し、静かに微笑む。
「王妃様、どうかお休みくださいませ」
「ありがとう。でも、もう少しだけ……」
机の上に、真っ白な便箋と羽根ペンが置かれている。
リディアはそれを見つめ、胸の奥にたまった思いをゆっくりと呼吸に変えた。
(このまま沈黙を続けるだけでは、彼にも自分にも嘘になる)
心の奥底にしまいこんだ言葉を、今度こそ文字にしよう。
そう思いながら、震える手でペンを取る。
インクが紙に触れた瞬間、涙が一粒、落ちた。
その跡が小さく滲んで、最初の一文字をにじませた。
「アレクシスへ」
その名を書くのは、どれほど久しぶりだろう。
名前だけで胸が熱くなる。
けれど、次の瞬間には痛みに変わる。
リディアはゆっくりと書き続けた。
あなたは覚えていますか。
あの日、春の庭園で、私に指輪を嵌めてくださった朝を。
「どんな日も、これが絆の証だ」と笑ってくださったあなたを。
私はその言葉を信じ、夜ごとその光を見ては、あなたを想っていました。
けれど、いつしかその指輪が冷たくなり、
あなたの笑顔が、私の知らない誰かのものになっていました。
噂を信じたくなかった。
けれど、信じるための言葉を、あなたはもうくださらなかった。
王としての責務があることは、わかっています。
私はそれを誇りに思っていました。
でも、妻としての私が必要とされたことは、一度でもあったのでしょうか。
あなたを責めたいわけではありません。
ただ、私という存在が、あなたの重荷でしかなかったのなら――
せめて、沈黙のまま去りたいと思いました。
どうか、心を痛めないでください。
あなたは立派な王であり、民にとっての光です。
私は、あなたの影であれたことを誇りに思います。
最後にひとつだけ。
どうか、幸せでいてください。
私の愛は、あなたの歩む未来を、遠くから見守る光になれると信じています。
――リディア
書き終えたとき、ペン先が震えた。
涙が止まらなかった。
それでも便箋を丁寧に折り、封蝋を押す。
封を閉じた瞬間、胸の奥にぽっかりと空洞ができたようだった。
窓の外で鐘が鳴る。
沈黙の鐘――修道院の夜を告げる音。
リディアはそっと立ち上がり、書簡を枕元に置いた。
灯を消す前に、もう一度だけ呟く。
「……愛しています。今でも」
その声は、蝋燭の灯と共に消えていった。
翌朝、王宮。
アレクシスは、執務を終えた後に届けられた封筒を手にしていた。
封蝋に刻まれた、リディアの紋章。
その瞬間、息が止まった。
震える指で封を切る。
中から、淡い香りが広がる。
彼女の香。
文面を目で追うにつれ、胸の奥が焼けるように熱くなった。
文字のひとつひとつが、彼女の涙の跡でにじんでいる。
まるで彼女の心そのものを読んでいるようだった。
(俺は、彼女を“守った”つもりで――傷つけていた)
こみ上げるものを抑えきれず、目を閉じた。
どんな言葉よりも、その沈黙が彼の心を締めつける。
「……愚か者だ、俺は」
呟きとともに、手紙を胸に抱く。
涙が一滴、封蝋に落ちた。
蝋の跡が、わずかに溶けて形を変える。
「リディア……君はまだ、ここにいるのか」
風がカーテンを揺らし、朝の光が差し込む。
その光の中で、手紙の紙面がわずかに透けた。
涙の跡が、光を受けて輝いている。
それはまるで、彼女が残した“最後の愛の証”のようだった。
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