婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない

柴田はつみ

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第20章|裏の火消し

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 王宮の噂は、火と同じだ。

 最初は小さな火種。
 誰かの囁き、誰かの視線、誰かの“善意の忠告”。
 それが乾いた薪に触れれば、あっという間に燃え広がる。

 そして一度燃えた火は、正義の顔をして人を焼く。

 レイヴンは、その火がセシリアを焼く前に潰さなければならなかった。

 ――自分の手で。

 夜。執務室。

 机の上には報告書が山のように積まれている。
 慈善行事での一件。侍女区画の噂。近衛の配置。教会の動き。
 そのどれもが“彼女”の周囲へじわじわと輪を狭めていた。

 レイヴンは外套を脱がずに座っていた。
 脱げば、王太子の仮面も一緒に落ちてしまいそうだったから。

 扉が静かにノックされる。

「殿下。近衛隊長ガイルです」

「入れ」

 ガイルが入ると同時に、もう一人、影のような男が続いた。
 足音がほとんどしない。視線が淡い。存在感が薄い。
 ――密偵騎士シュナイダー。

「噂の火は、今夜が山です」ガイルが言う。「放置すれば“確定”になります」

 レイヴンは椅子の背に体重を預け、低く答えた。

「確定させるな」

 その三音は命令だった。
 そして祈りでもあった。

 シュナイダーが一歩進み、無表情のまま報告する。

「噂の発火点は三つ。
 一つ、同期侍女イヴ。
 二つ、聖女候補リディアの取り巻き。
 三つ、教会の下働きが流した“脚色”です」

 レイヴンの瞳が冷える。

(教会)

 バルドの笑みが脳裏を過った。
 慈善の場での言葉。悔い改め。浄化。
 あれは“火を育てる言葉”だ。

 ガイルが続ける。

「侍女長マルタは“過去詮索禁止”を徹底しています。しかし、噂は命令では止まりません。――見世物になれば、侍女は勝手に燃料を運ぶ」

 レイヴンは右鎖骨に指を当てた。
 古傷を押さえる癖。心を押さえる癖。

「……火を消す」

 ガイルは頷き、シュナイダーが淡々と提案を並べた。

「噂を消す方法は二つ。
 一、噂の“根”を抜く。
 二、噂の“興味”を他へ移す」

 レイヴンは短く言った。

「両方やれ」

 ガイルがすぐ動く。

「イヴは侍女長マルタの権限で“配置換え”できます。王族区域から遠ざけ、口の回る控室から切り離す。問題は――」

「問題は?」

「リディア側の耳に入れば、“口封じ”として逆に燃えます」

 レイヴンは即答した。

「なら理由を与える。『私語が多く、勤務態度に難がある』。――王宮の規律違反として処理しろ」

 規律。
 それは王宮が最も扱いやすい刃だ。
 正義の顔をした処分は、火ではなく“整理”になる。

 シュナイダーが頷く。

「取り巻きは二名。慈善行事の場で“罪人侍女が聖女の慈悲を拒んだ”と吹聴しました。裏取り済み。小金を握らせていた者がいます」

 レイヴンの指が止まる。

「誰だ」

「教会側の下働き。枢機卿バルドの周辺です」

 やはり。
 レイヴンは目を伏せずに言う。

「枢機卿に“王宮の規律”で圧をかける」

 ガイルが言葉を選ぶ。

「……殿下。教会は王宮の正面からは殴れません。殴れば“王宮が聖女を迫害した”になる」

 レイヴンは笑わなかった。

「正面では殴らない。――扉を閉める」

 机の引き出しを開け、封書を一つ取り出す。
 王宮の印。国王へ上げるための書式。

「支援金の監査だ。慈善の名で動く金は、必ず裏がある。
 監査を示せば、派手な演出はできなくなる」

 シュナイダーが静かに頷く。

「……枢機卿は嫌がるでしょう」

「嫌がらせる」

 冷たい声。
 だがそれは私怨ではない。

 ――火を止めるためだ。

 ガイルがひと呼吸置いて言う。

「殿下。もう一つ。噂の“種”は、護衛騎士アデルにも向かいます。『王太子が禁じたのに接近した』と」

 レイヴンの胸が、鈍く鳴った。

(アデル)

 灯りの下の二人を思い出す。
 セシリアの笑み。
 アデルの優しい眼差し。

 胸が焼ける。
 だが今は、焼けても動くな。動けば火が増える。

 レイヴンは低く言った。

「アデルには処罰は与えない」

 ガイルが少し驚く。

「殿下、噂を切るなら“見せしめ”も――」

「不要だ」

 見せしめは火を育てる。
 そして何より、セシリアの心を壊す。

 レイヴンは椅子から立ち上がり、窓の外を見た。
 夜の中庭。噴水の音だけが遠い。

「護衛の“業務記録”を残せ。
 あの時間、あの場所でアデルが何をしていたか、正式な巡回として処理する。
 噂は“規律”で切る。感情で切るな」

 ガイルが深く頭を下げた。

「承知しました」

 シュナイダーが言った。

「もう一つ。『セシリアが聖女候補に礼を拒んだ』という話は、映像のように語られています。実際は、彼女は礼をして退いた。――証言を確保できます」

「確保しろ」

「侍女長マルタ、先輩侍女フローラ、王女ミレイユの側近。三方向で固めれば、噂は“ただの脚色”に落ちます」

 レイヴンは一拍置いた。

(王女ミレイユ)

 あの鋭い目。
 慈善の場で、枢機卿に刃を落とした声。

 味方でも敵でもない。
 だが“王宮の利益”のためには動く。

「王女殿下の名前は出すな」レイヴンは言った。
「巻き込めば別の火が起きる。侍女長とフローラの証言で十分だ」

 シュナイダーが頷く。

「はい」

 ガイルが静かに言った。

「殿下。火は消せます。ですが……殿下の胸の中の火は」

「言うな」

 レイヴンは即座に遮った。
 自分が壊れかけていることなど、言われなくても分かっている。

 守るために捨てた。
 守るために冷たくした。
 守るために忘れさせた。

 それなのに――彼女が他の男に笑うのを見て、胸が焼ける。

 醜い。
 王太子として最も醜い。

 扉の外から、別のノックが入った。

「殿下。陛下が、お呼びです」

 国王。
 ここからが本番だった。



 国王の執務室は、王太子の執務室よりさらに静かだった。
 静かさが重い。王冠の重さが空気の密度を変える。

 国王オルディスは、書類を置き、レイヴンを見た。

「……噂が動いているな」

 問いではない。確認だ。

 レイヴンは膝を折り、頭を下げる。

「はい。火消しの手配を進めています」

「聖女候補の周りか」

「はい」

 国王の指先が机を一度だけ叩いた。
 その音は小さいのに、部屋の空気を決めてしまう。

「教会を敵に回すな」

 レイヴンは顔を上げ、琥珀の瞳をまっすぐ向けた。

「敵に回しません。――ただ、監査を入れます」

 国王の眉がわずかに動く。

「監査?」

「慈善の名で動く金は、裏が出ます。裏が出れば、派手な演出はできなくなる。噂の火も弱まります」

 国王は数秒沈黙した。
 その沈黙は、王の計算だ。

「……良い。だが正面からはやるな。王宮が聖女を迫害したという旗を立てるな」

「承知しました」

 国王は一度だけ息を吐き、低く言った。

「レイヴン。お前は“彼女”を守っているのだな」

 胸がぎくりと鳴った。

 父であり、王である男は、息子の嘘の匂いを嗅ぎ分ける。

 レイヴンは即答しない。
 即答すれば、全てが露呈する。

「……王宮の安全のためです」

 半分は真実。
 半分は嘘。

 国王は笑わなかった。
 ただ、王の目で言う。

「守るなら、守り切れ。中途半端は一番人を殺す」

 その言葉が、レイヴンの胸を深く抉った。

 中途半端。
 自分が最も恐れている言葉。

 レイヴンは深く頭を下げた。

「……はい」



 執務室に戻る廊下で、レイヴンは一度だけ足を止めた。

 遠く、侍女区画の扉が閉まる音がした。
 あの向こうに、セシリアがいる。

 彼女は知らない。
 自分が今夜、噂を握り潰したことも。
 イヴが配置換えされ、口が封じられたことも。
 教会に監査が入ることも。
 王女の名前を伏せて守ったことも。

 知らないままでいい。
 知らない方が安全だ。

 ――そう分かっているのに。

 ふと、胸の奥で小さな声がした。

(知ってほしい)

 自分が守っていることを。
 自分が捨てたのではなく、守るために手を離したことを。
 自分が今も彼女の周りの火を消していることを。

 その“知ってほしい”が、最も危険だと分かっている。

 レイヴンは右鎖骨に指を当て、息を吐いた。

「……忘れたままでいろ」

 命令ではない。
 祈りでもない。

 それは、自分の心臓に向けた刃だった。

 王太子の仕事として火を消す。
 一人の男として燃える。

 矛盾を抱えたまま、レイヴンは歩き出した。

 王宮の夜は静かだ。
 けれどその静けさの下で、火は消えたふりをして――
 次の燃え方を選んでいる。
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