婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない

柴田はつみ

文字の大きさ
21 / 50

第21章|仕掛け①“不敬”の罠

しおりを挟む
 王宮の朝は、昨日の火を覚えていない顔をして始まる。

 磨かれた床。整った花。整列する近衛。
 ――火は消えた。噂も落ち着いた。そう見える。

 けれど、王宮の火は消えない。
 灰の下で呼吸をして、次の燃え方を待つ。

 セシリアは、胸元の名札を指先で押さえながら、王族区域の小広間へ向かっていた。

 今日は“香の交換”と“布の張り替え”。
 王女ミレイユの区域の準備に入るようになってから、仕事は増え、視線も増えた。
 それでも、働ける。働いていれば、立っていられる。

(……大丈夫。噂は、落ち着いた)

 そう思い込むことでしか、自分を保てない。
 胸の奥の痛みは相変わらずある。
 けれど痛みは、仕事の音で薄められる。

 回廊を曲がった時、香の匂いがふっと濃くなった。

 祈祷室の方向からだ。
 思わず足が一瞬止まり、こめかみが疼いた。

(……見ない。考えない)

 セシリアは視線を前へ戻し、歩幅を保った。

 そこに、柔らかな声が落ちる。

「セシリアさん」

 振り向くと、アデルがいた。
 護衛騎士の軽装。剣。革の装具。
 そして――いつも通りの穏やかな目。

 セシリアの胸が小さく跳ねた。
 嬉しい、ではない。
 安心と、怖さが混ざった跳ね方。

 噂の種を思い出す。
 近づけば迷惑になる。
 距離を取ると決めたはずなのに――

「おはようございます、アデル様」

 礼をして、必要以上に近づかないように意識する。
 声の温度を落とす。仕事の顔に戻す。

 アデルはその変化に気づいたのか、眉を僅かに寄せた。
 けれど、問い詰めない。

「今日の持ち場は王族区域ですか」

「はい」

 短く答える。
 それだけで十分なはずなのに、アデルは視線をセシリアの手元へ落とした。

「……指、赤い」

 セシリアは反射的に手を引っ込める。
 銀器磨きで荒れた指先。
 その小さな傷を見られるのが、なぜだか恥ずかしい。

「大丈夫です。仕事ですから」

 言った瞬間、アデルの目が少しだけ痛そうに細くなった。

「仕事でも、痛いものは痛い」

 その一言で、セシリアの胸がぎゅっとなる。
 優しさは、今のセシリアにとって毒にもなる。

(……噂が増える)

 セシリアは一歩だけ後ろへ下がった。

「……失礼します。急ぎますので」

 その場から離れようとした。

 けれど――その時。

 高い声が、わざとらしく響いた。

「まあ。ここにいらしたのね、セシリア様」

 甘い。柔らかい。可憐。
 そして、冷たい。

 リディアだった。

 白い外套を纏い、短めの茶色の髪が風に揺れる。
 瞳は潤んでいるようで、潤んでいない。
 彼女の背後には、取り巻きの侍女イヴがぴたりとついている。

 セシリアの胃が冷えた。

(……来た)

 リディアは一歩近づき、笑う。

「今日は王女殿下の区域のお仕事? 大変ね。……私、あなたにお礼を言いたくて」

 お礼。
 その言葉だけで、罠の匂いがする。

 セシリアは礼儀として膝を折った。

「聖女候補様。私は――」

「いいの。そんなふうに改まらなくて」

 リディアは手を伸ばし、セシリアを“起こそう”とする。

 触れられたくない。
 理由は分からない。
 でも、触れられた瞬間に何かが壊れる気がする。

 セシリアは反射的に一歩、引いた。

 ――その一歩が、罠の歯車を回した。

 リディアの目が、ほんの一瞬だけ笑う。
 次の瞬間、彼女は儚く眉を寄せ、震える声を作った。

「……そんなに、私が怖いのですか?」

 空気が凍る。

 周囲にいた侍女が足を止め、視線が集まる。
 近衛の一人が眉をひそめた。
 回廊の風が止まったように感じた。

 セシリアの胸が痛む。
 違う。
 怖いのは彼女ではなく、この“物語”だ。

「違います。私は――」

「……ごめんなさい」

 リディアは涙を滲ませた。
 その涙は、落ちる前に光を拾う。
 落ちる前から、人の心を掴む。

「私、あなたに酷いことをされたのに……それでも、あなたが立ち直れるように祈っていたの。……でも、まだ私を見ると怒りが溢れてしまうのね」

 怒り。
 怒っているのは誰だ。

 セシリアの喉が熱くなる。
 否定の言葉が喉元で暴れる。
 でも、否定すればするほど“悪役”が完成する。

 そこへ、イヴが一歩前に出た。

「リディア様……大丈夫ですか?」

 甘い声。
 心配の形。
 でもその目は、セシリアを刺していた。

「セシリア。聖女候補様に、そんな態度……不敬よ」

 不敬。
 その単語が落ちた瞬間、周囲の空気が“正しさ”の方向へ傾く。

 王宮では、不敬は罪だ。
 罪は処罰される。
 処罰は正義になる。

 セシリアは息を呑んだ。

(……これだ)

 噂ではなく、罪で縛る。
 逃げ道のない形にする。

 セシリアは必死に言葉を選んだ。

「私は、不敬のつもりは……。ただ、仕事の途中で――」

 リディアが、ふっと笑った。
 涙の仮面の下で、勝者の笑みをほんの一瞬だけ。

「……仕事なら、尚更です」

 リディアの声が柔らかくなる。

「王宮で働くなら、礼儀を学ばないと。……私、教えて差し上げたい」

 教える。
 その言葉は、上から押し潰すためにある。

 リディアはゆっくりと、わざと目立つ所作でセシリアに近づいた。
 セシリアの名札を見て、首を傾げる。

「セシリア……姓は、ないの?」

 周囲の侍女がざわつく。
 姓。
 過去。
 触れてはいけない部分に、わざと指を差し込む。

 セシリアの胸が冷たくなる。

「……業務上、必要ありません」

「でも、王宮の記録は必要よ」

 リディアは微笑む。
 優しい微笑。
 でも言葉が、鎖の音を立てる。

「ねえ、あなたの“本当の身分”を、皆さん知りたがっているの。隠すのは卑怯だわ」

 卑怯。
 その言葉が、セシリアの心を削る。

 隠したのは、自分のためじゃない。
 生きるためだ。
 燃やされないためだ。

 でも、そんな事情は噂の前では弱い。

 セシリアが何も言えずにいると、アデルが一歩前に出た。

「聖女候補殿。侍女の身分を問いただすのは、この場では不適切です」

 声は穏やかなのに、芯がある。
 護衛騎士としての正義の声。

 リディアが、驚いたように目を見開く。

「……まあ。騎士様が、侍女の肩を持つのですか」

 その一言で、空気が別の色に変わる。

 噂の色。
 “護衛騎士と侍女”の色。

 イヴがわざとらしく息を呑んだ。

「……やっぱり……」

 言いかけて、口元を押さえる。
 言い切らなくても、周囲が続きを補う。

 セシリアの背中に冷汗が滲む。

(……アデル様を巻き込みたくない)

 セシリアは咄嗟に言った。

「アデル様、私のことは……」

 助けないで、とは言えない。
 でも、巻き込まないで、と言いたい。

 アデルはセシリアを見て、微かに首を振った。

「あなたが悪くないなら、悪くないと言うべきです」

 その一言が、セシリアの胸を打つ。
 優しさが、正義が、今の彼女には眩しい。

 リディアはゆっくりと息を吸い、涙を落とした。

「……やっぱり。私は、怖い」

 涙が落ちる。
 それが合図だった。

 周囲が動く。
 侍女がざわめく。
 誰かが近衛を呼びに走る気配。

 “聖女候補が泣いた”。
 それだけで、正義が決まる。

 セシリアの喉が、きゅっと締まった。

(……また、公開処刑)

 舞踏会の記憶が蘇る。
 床の冷たさ。指輪の音。
 断罪の空気。

 セシリアは膝が震えるのを必死で堪えた。

 その時、回廊の奥から重い足音が響いた。

 近衛の整列。
 空気がさらに固まる。

 侍女長マルタが現れた。

 冷たい目。無駄のない歩幅。
 彼女が来るだけで、王宮の規律が回廊に落ちる。

「何をしている」

 マルタの声は低い。
 怒鳴らない。
 だから怖い。

 イヴがすぐに声を上げた。

「侍女長! セシリアが……聖女候補様に不敬を――!」

 リディアが涙を拭うふりをして、首を振る。

「違うの……私が勝手に話しかけただけ……でも……」

 言いかけて、言葉を詰まらせる。
 詰まらせることで、周囲に想像させる。

 マルタはリディアを見た。
 その目は、誰にも媚びない。

「聖女候補殿。ここは侍女の導線です。話し合いの場ではない」

 リディアが一瞬だけ怯んだ。
 王女ミレイユの時と同じだ。
 規律の刃は、演出の涙より硬い。

 マルタはセシリアへ視線を移す。

「セシリア。状況を言え」

 セシリアは息を吸った。
 言えば燃える。
 言わなければ罪になる。

 喉が熱い。
 それでも、言わなければならない。

「……私は、仕事の途中でした。聖女候補様に話しかけられ、礼を――」

「礼をしたのに、拒んだのです」

 イヴが被せる。
 上手い。
 言葉の主導権を奪う。

 マルタの目が一瞬だけ細くなる。

「イヴ。黙れ。状況は私が聞く」

 イヴが口を閉じる。
 でも顔は勝っている。
 火はもう点いた、という顔。

 その時、リディアがふっと言った。

「……侍女長。私は責めたいわけではないの。ただ……王宮の規律のために。私が泣いたのは、私が弱いから……」

 自分を下げて、相手を悪者にする。
 完璧なやり方。

 マルタは一拍置いて言った。

「規律の話なら、後で王宮の規程に従って処理する。今は業務を優先しろ」

 その言葉は公平に聞こえる。
 けれど、セシリアには分かった。

(……“処理”になる)

 ここから先は、記録になる。
 記録は、噂より強い。
 記録に“不敬”と書かれたら、もう戻れない。

 アデルが一歩前へ出た。

「侍女長。セシリアは不敬ではありません。私が見ていました。彼女は礼を――」

「アデル」

 マルタが彼の名を呼ぶ。
 それだけで空気が鋭くなる。

「お前は護衛。証言するなら、正式な手順で提出しろ。今ここで口を挟めば、余計な火種になる」

 アデルが唇を噛む。
 正論だ。
 王宮の正しさは、いつも手順にある。

 セシリアは、胸が痛むのを堪えながら頭を下げた。

(……私のせいで、アデル様が……)

 守ってくれたのに、巻き込んだ。
 その罪悪感が、痛みより重い。

 マルタは冷静に告げた。

「セシリア。業務を終えたら、私の執務室へ来い。――記録を取る」

 記録。
 その言葉が、セシリアの膝を震わせた。

「……はい」

 声がかすれた。

 リディアは涙を拭いながら、微かに笑った。
 短い茶色の髪の陰で、口元だけが勝者の形を作る。

 イヴもまた、満足そうに息を吐く。

 火は点いた。
 今度は噂ではなく、罪の火だ。

 セシリアは仕事に戻るために、台車の取っ手を握った。
 手が冷たい。
 でも、仕事の音だけが彼女を支える。

 アデルが横を歩き、低い声で言った。

「……大丈夫。俺が、正式に証言する」

 その言葉が救いになるはずなのに、セシリアの胸はさらに痛んだ。

 守られるたびに、誰かを巻き込む。
 それが怖い。

 回廊の先――王宮の高い場所で。

 誰かがこの光景を知った時、どう動くか。
 その答えを、セシリアはまだ知らない。

 ただひとつだけ確かなのは、王宮の罠が、次の段階へ進んだということだった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

一年だけの夫婦でも私は幸せでした。

クロユキ
恋愛
騎士のブライドと結婚をしたフローズンは夫がまだ婚約者だった姉を今でも想っている事を知っていた。 フローズンとブライドは政略結婚で結婚式当日にブライドの婚約者だった姉が姿を消してしまった。 フローズンは姉が戻るまでの一年の夫婦の生活が始まった。 更新が不定期です。誤字脱字がありますが宜しくお願いします。

記憶喪失の婚約者は私を侍女だと思ってる

きまま
恋愛
王家に仕える名門ラングフォード家の令嬢セレナは王太子サフィルと婚約を結んだばかりだった。 穏やかで優しい彼との未来を疑いもしなかった。 ——あの日までは。 突如として王都を揺るがした 「王太子サフィル、重傷」の報せ。 駆けつけた医務室でセレナを待っていたのは、彼女を“知らない”婚約者の姿だった。

婚約破棄された公爵令嬢ですが、戻らなかっただけです

鷹 綾
恋愛
王太子カイル殿下から、社交界の場で婚約破棄を言い渡された公爵令嬢リュシエンヌ。 理由は―― 「王太子妃には華が必要だから」。 新たに選ばれたのは、愛らしく無邪気な義妹セシリア。 誰もが思った。 傷ついた令嬢は泣き、縋り、やがて戻るのだと。 けれどリュシエンヌは、ただ一言だけ告げる。 「戻りません」 彼女は怒らない。 争わない。 復讐もしない。 ただ――王家を支えるのをやめただけ。 流通は滞り、商会は様子を見始め、焦った王太子は失点を重ねる。 さらに義妹の軽率な一言が決定打となり、王太子妃候補の座は静かに消えた。 強いざまあとは、叫ぶことではない。 自らの選択で、自らの立場を削らせること。 そして彼女は最後まで戻らない。 支えない。 奪わない。 ――選ばれなかったのではない。 彼女が、選ばなかったのだ。 これは、沈黙で勝つ公爵令嬢の物語。

素敵な人が私の婚約者ですか?すみません、他に好きな人がいる婚約者様とは将来を約束出来ませんので婚約破棄をお願いします。

クロユキ
恋愛
「あの…貴方は誰ですか?」 森の中で倒れていた私は婚約者のアレン様を私は覚えていません、記憶喪失だそうです。彼には別に好きな人がいたようなのです。私、マリーナ・クレールは婚約破棄をしました。 彼の事は覚えていませんので私の事は気にしないで下さい。 誤字脱字があります。更新が不定期ですがよろしくお願いします。

忘れ去られた婚約者

かべうち右近
恋愛
『僕はレベッカしか選ばない』 甘い声音でそう話したはずの王太子サイラスは、レベッカを忘れてしまった。 レベッカは、王太子サイラスと付き合っていることを、ある事情により隠していた。舞踏会で関係を公表し、婚約者に指名される予定だったのに、舞踊会の夜にサイラスは薬を盛られて倒れ、記憶喪失になってしまう。 恋人が誰なのかわからないのをいいことに、偽の恋人が次々と名乗りをあげ王太子の婚約者の座を狙ってくる。おかげで不信に陥ったサイラスに、レベッカは自分が恋人だと名乗り出せなくなってしまった。 サイラスの記憶喪失を解消するため、薬師兼魔女であるレベッカは恋人であることを隠しながら、事件調査を協力することになった。そうして記憶が戻らないまま二人の距離は再び近づいていく。だが、そんなおりにサイラスの偽の恋人を名乗りでた令嬢たちが、次々と襲われる事件も起き始めて……!? ※他のサイトにも掲載しています。 毎日更新です。

七年目の裏切り 〜赴任先の夫から届く愛の手紙は、愛人の代筆でした〜

恋せよ恋
恋愛
「君は僕の最愛だ。もう二度と、君を危険に晒したくない」 命懸けの出産後、涙を流して私を抱きしめた夫ジュリアン。 その言葉通り、彼は「私を大切にするため」に夜の営みを断った。 私は、女としての寂しさを「愛されている誇り」に変え、 隣国へ赴任した夫を信じて二人の子供と家を守り続けていた。 毎週届く、情熱的な愛の手紙。タイプライターで綴られた その愛の言葉を、私は宝物のように抱きしめていた。 ……しかし、その手紙は「裏切り」だった。 夫が異国の地で、愛人と肌を重ねながら綴らせていた「偽りの愛」。 身分を隠して夫の赴任先の隣国へと向かった私が見たのは……。 果たして、貞淑な妻・メラニアが選んだ結論は……。 子供たちのため結婚生活の継続か、それとも……。 🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。 🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。 🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。 🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。 🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!

記憶を失くした悪役令嬢~私に婚約者なんておりましたでしょうか~

Blue
恋愛
マッツォレーラ侯爵の娘、エレオノーラ・マッツォレーラは、第一王子の婚約者。しかし、その婚約者を奪った男爵令嬢を助けようとして今正に、階段から二人まとめて落ちようとしていた。 走馬灯のように、第一王子との思い出を思い出す彼女は、強い衝撃と共に意識を失ったのだった。

「君は完璧だから、放っておいても大丈夫」と笑った夫。~王宮から私が去ったあと「愛していた」と泣きついても、もう手遅れです~

水上
恋愛
「君は完璧だから、放っておいても大丈夫だ」 夫である王太子はそう笑い、泣き真似が得意な見習い令嬢ばかりを優先した。 王太子妃セシリアは、怒り狂うこともなく、静かに心を閉ざす。 「左様でございますか」 彼女は夫への期待というノイズを遮断し、離縁の準備を始めた。

処理中です...