婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない

柴田はつみ

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第24章|侍女失格の噂が爆発

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 噂は、夜に育つ。

 昼は仕事の音が噂を薄めてくれる。
 けれど夜は、灯りの下で言葉が発酵する。人は眠る前に、誰かの不幸を噛んで安心したくなるからだ。

 セシリアが“密会”を見た翌日――王宮の裏側の空気は、はっきりと変わっていた。

 控室に入った瞬間、会話が止まる。
 笑い声が消える。
 目だけが動く。

(……もう、知ってる)

 何を?
 分かっている。
 昨夜の光景は、誰にも話していないのに――噂は勝手に形を作る。

 “王太子は聖女候補と密会していた。”
 “罪人侍女は、それを見て取り乱した。”
 “だからまた問題を起こす。”

 誰かが見たわけじゃない。
 でも王宮は、見なくても物語を作れる。

 セシリアは盆を台に置き、黙って布を手に取った。
 手を動かす。
 仕事の音を作る。
 その音だけが、自分の存在を正当化する。

 しかし背中に刺さる視線が、今日はいつもより重かった。

 リネットが、入口近くで立ち尽くしていた。
 いつもなら話しかけてくる彼女が、今日は近づけない顔をしている。

 ――揺れている。

 怖いのだ。
 セシリアに近づけば、自分も燃えると思っている。

 セシリアはそれを責められない。
 自分だって、伯爵家で同じように黙っていた。

 だからこそ――胸が痛い。

 控室の奥で、イヴがわざと大きめの声で言った。

「ねえ、聞いた? やっぱり、あの子……」

 誰かが「しっ」と止めるふりをする。
 止めるふりは、火種を投げる合図だ。

 イヴは小さく笑って続ける。

「昨夜、殿下と聖女候補様が“お話し”しているところを見たんだって。――そして、今日の顔。ほら」

 視線がセシリアに集中する。
 セシリアの指先が冷える。

(……見た、って誰が)

 見たのは自分だ。
 でも自分は言っていない。
 なのに、噂は“見たこと”になっている。

 ――これは、仕掛けられている。

 セシリアは布を握りしめ、静かに言った。

「……私は、仕事をしに来ただけです」

 声は低い。
 震えないように腹で支える。
 けれど言った瞬間、空気がさらに冷えた。

 イヴは肩をすくめた。

「ほら、そうやって。反抗的なのよ。聖女候補様が怖がるのも無理ない」

 反抗的。
 その言葉は、罪人のキャラ付けだ。

 セシリアは唇を噛んだ。
 血の味。
 痛みで現実を繋ぎとめる。

 リネットが小さく言った。

「……イヴ、やめよう……」

 弱い声。
 止めたいのに止められない声。

 イヴは笑った。

「やめる? やめない方がいいよ、リネット。巻き込まれたら大変だもの」

 脅し。
 柔らかい声で言う脅しが、一番効く。

 リネットの顔色が変わった。
 セシリアから一歩、距離を取る。

 その動きが、セシリアの胸を刺した。

(……やっぱり、私は一人)

 頭の中で、昨夜の光景が蘇る。
 灯りの中の王太子。
 聖女候補の影。
 自分の“居場所のなさ”。

 セシリアは息を吐いた。

(大丈夫。私は、働ける)

 働ける限り、生きられる。
 そう思って手を動かそうとした時、扉が開いた。

 先輩侍女フローラが入ってくる。

 いつも柔らかい彼女の顔が、今日は硬かった。
 それでも、まっすぐセシリアの方へ来る。

「セシリア、こっち」

 フローラは周囲を見ず、セシリアの腕を取った。
 強くはない。けれど、確かな意志のある手。

 控室の空気がざわりと揺れる。

「フローラ、やめた方が……」

 誰かが言う。
 フローラは止まらない。

 セシリアは咄嗟に言った。

「フローラさん、私のせいで――」

「黙って」

 フローラの声が、珍しく強い。

「あなたは今、ここにいるだけで燃やされる。だから私が“燃やされない形”を作る」

 セシリアの喉が詰まった。

(燃やされない形……?)

 フローラはセシリアを連れて控室を出た。
 廊下の空気が少し冷たい。
 冷たい方が、まだ息ができる。

 フローラは小さな物置の前で足を止め、鍵を開けた。
 中は狭い。布と掃除道具の匂い。
 でも、外の視線は遮れる。

 フローラは扉を閉め、やっと息を吐いた。

「……聞いたでしょう。噂が爆発してる」

 セシリアは頷いた。
 頷いた瞬間、涙が出そうになった。

「私、何も言ってないのに……」

 声が震える。
 悔しい震え。怖い震え。

 フローラは首を振った。

「言ってなくても、作られるの。王宮はそういう場所。……そしてね」

 フローラの目が、少しだけ潤んだ。

「あなたが昨日、誰かを見たのは本当でしょう?」

 セシリアの心臓が跳ねた。

 フローラは続ける。

「あなたの顔を見たら分かる。……でも、あなたは言わない方がいい」

 セシリアは息を呑んだ。

「どうして……? 言えば、皆わかって――」

「わからない。逆に燃える」

 フローラの言葉は、優しさではなく現実だった。

「殿下が誰と会おうと、あなたが口を開けば“嫉妬した罪人”になる。正義は聖女候補様にある。あなたにはない」

 セシリアの胸が冷える。

(正義は、私にはない)

 舞踏会の時と同じ。
 泣いた者が正しい。
 守られる者が正しい。

 フローラは小さく息を吸い、言った。

「だからね、セシリア。今は……あなたが生きるために、孤立を受け入れるしかない」

 孤立。
 その単語が、重い。

 セシリアは唇を噛んだ。
 泣きたくない。
 でも、胸が痛い。

「……私、侍女失格ですか」

 思わず出た言葉。
 自分でも驚くほど弱い声。

 フローラは即座に首を振った。

「違う。あなたは、仕事ができる。今日の王女殿下の区域だって完璧だった。……失格なのは、あなたを燃やす空気の方」

 その言葉が、セシリアの胸を少しだけ温めた。
 温めた分だけ、痛みが際立つ。

 フローラは扉に耳を当て、外の気配を確認した。
 そして、低い声で言う。

「侍女長マルタは、あなたを守るために動いてる。でも、守り方が冷たいの。……それが王宮の守り方だから」

 守り方が冷たい。
 その言葉に、セシリアの脳裏に琥珀の瞳が浮かんだ。

(……守り方が冷たい人)

 思い出せないのに、痛い人。

 フローラは続けた。

「あなたに今できるのは、仕事をして、余計な接触を避けて、息を潜めること。……辛いけど」

 辛い。
 その言葉が、ようやく胸に落ちた。

 辛いのに、辛いと言ってはいけない場所。
 辛いのに、泣いたら終わる場所。

 セシリアは小さく頷いた。

「……分かりました」

 声はまだ震えている。
 でも、言えた。

 フローラはセシリアの手をぎゅっと握った。

「大丈夫。私はあなたの味方。……少なくとも、あなたが倒れそうになったら支える」

 その温度が救いだった。
 でも同時に、その温度さえも火種になり得ることが怖い。

 扉の外から、足音が近づいた。

 誰かが物置の前で立ち止まり、囁く声がした。

「……フローラ、どこ?」

 リネットの声。
 揺れている声。
 近づきたいのに怖い声。

 フローラが扉を少しだけ開けた。

「どうしたの」

 リネットが扉の隙間から顔を覗かせ、セシリアを見て目を泳がせた。

「……ごめん。私……」

 言いかけて、言葉を飲み込む。

 セシリアは微笑もうとした。
 微笑めなかった。

「大丈夫」

 それだけ言うのが精一杯だった。

 リネットは唇を震わせ、結局何も言えずに去っていく。
 その背中が、セシリアの孤立を確定させた。

 フローラが扉を閉め、セシリアの肩に手を置く。

「……噂は、今日がピーク。あなたが折れなければ、明日は少し静かになる」

 セシリアは頷いた。
 折れない。
 折れないために、息をする。

 狭い物置の中で、セシリアは胸元の名札を握りしめた。

 金属の冷たさが、現実だ。
 現実は冷たい。
 それでも、冷たさの中で生きるしかない。

 そしてセシリアは知らない。

 噂が爆発したその裏側で、王太子がまた一つ火を握り潰していることを。
 それでも消せない火が、彼の胸の中で育っていることを。
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