婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない

柴田はつみ

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第34章|偽聖女の焦り

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 光の中にいる者ほど、影を恐れる。

 崇められる者ほど、崩れる瞬間が怖い。
 手を伸ばされるほど、手を引かれる瞬間が怖い。

 ――聖女候補リディア・ルミナスは、今まさにそれを恐れていた。

 王宮の礼拝堂の控え室。
 白い石壁。薄い香。柔らかな光。
 聖女候補のために用意された部屋は、清らかで静かで、完璧に整っている。

 なのにリディアの胸の中だけが、ざらざらと不快に擦れていた。

 短めの茶色の髪を指先で押さえ、鏡を覗く。
 涙の跡は残っていない。
 頬の血色も整っている。
 いつも通りの“可憐な聖女候補”の顔。

(……なのに)

 噂が、変わり始めている。

 今までは、こうだった。

 婚約破棄された令嬢は悪い。
 聖女候補は可哀想。
 王太子は正しい。

 誰も疑わない。
 誰も逆らわない。

 それが――ここ数日で、微妙に揺れた。

 慈善行事で王女ミレイユが刃を落とした。
 写し絵の件で“規律”が動き始めた。
 そして何より、王太子レイヴンの視線が――自分に向かなくなった。

 向かなくなった、ではない。
 最初から向いていなかった。
 なのに今になって、リディアはそれを“失った”気がしている。

 扉がノックされた。

「リディア様」

 イヴが入ってくる。
 媚びる目。忠誠の目。出世の目。

「枢機卿バルド様がお呼びです。……急ぎのようで」

 リディアの喉が鳴った。

(枢機卿)

 頼れるはずの味方。
 けれど今は、味方にすがるほど自分が追い詰められている証になる。

 リディアは笑顔を作った。

「……分かったわ」

 笑顔を作るのは簡単だ。
 ここで生きるための基本だ。



 枢機卿バルドの部屋は、礼拝堂の奥にあった。

 香は濃い。
 壁には豪奢な聖画。
 金の器。
 信仰の顔をした権力が並んでいる。

 バルドは窓際に立っていた。
 背中は大きい。
 振り返った時の笑みは柔らかい。
 でも目は冷たい。

「リディア殿。顔色が良い。――良い聖女は、常に美しくあるべきだ」

 褒め言葉の形をした命令。

 リディアは深く礼をした。

「枢機卿様のお導きのおかげです」

 バルドが椅子へ座り、指で机を叩いた。

「さて。問題だ」

 その一言で、空気が硬くなる。

 リディアは背筋を伸ばした。
 怖い。
 でも怖さを見せたら負ける。

「……何でしょう」

 バルドは声を落とす。

「セシリアが、まだ生きている」

 その言葉は、祈りではなく不満だった。

 リディアの指先が僅かに震えた。
 震えを隠すために、胸元の十字飾りを指で押さえる。

「生きているのは当然です。王宮が謹慎に――」

「違う」

 バルドの声が冷える。

「“生きている”という意味が違う。
 彼女は、まだ“鍵”のままだ」

 鍵。
 その単語が、胸の奥をぞわりと撫でた。

(鍵……封印)

 リディアは知っている。
 知らないふりをしているだけだ。

 バルドは続ける。

「写し絵で縛った。謹慎にした。
 だが王太子は、あの娘を完全に手放していない。
 王妃も動き始めている。
 王女ミレイユも、鼻が利く」

 リディアの喉が渇く。

「……どうすれば」

 その問いは、助けを求める声だった。
 出してしまったことに、自分で苛立つ。

 バルドは微笑んだ。

「焦るな、と言いたいところだが……焦るべきだ」

 リディアの心臓が跳ねる。

「王太子が崩れ始めている。
 崩れれば、守りは強くなる。
 守りが強くなれば、こちらの手は届きにくい」

 バルドは机の引き出しから封蝋のついた書類を出した。
 封蝋の印は、教会の紋。

「オスカーが言っている。
 封印は“記憶”で揺れる、と」

 リディアは息を呑む。

「……ええ」

 知っている、と言わない。
 それを言えば、自分も共犯だと露呈する。

 バルドは言葉を続けた。

「つまり、彼女が思い出す前に、処理する。
 思い出せば狼が来る。狼が来れば、我々は噛まれる」

 処理。
 その単語が、冷たい。

 リディアは微笑んだ。

 微笑んでしまう自分に、内心で吐き気がした。

「……枢機卿様は、彼女を……」

「抹消する」

 バルドは淡々と言った。
 祈りの部屋で、殺しの言葉を淡々と。

 リディアの喉が震えた。

 怖い。
 でも同時に――安心してしまう自分がいる。

(消えれば、私の勝ち)

 勝ち。
 聖女候補が考えてはいけない言葉。
 でも現実の言葉。

 バルドが低く言った。

「彼女を消せば、王太子はよりこちらに縛られる。
 罪の記憶は、鎖になる。
 ……王太子は“守れなかった”罪に弱い」

 リディアの胸がざらつく。

(罪に弱い……だから、私が慰めればいい)

 そう考える自分が浅ましい。
でも、その浅ましさこそが王宮での生存術だ。

 バルドは続ける。

「今日から段階を上げる。
 写し絵や噂では足りない。
“事故”で消す」

 事故。
 訓練場の矢。
 あれが事故ではないと、リディアは知っている。

 バルドは言った。

「オスカーの配下が動く。
 お前は涙を用意しろ。
 彼女が消えた後、悲劇の聖女として泣け」

 泣け。
 命令。

 リディアは頷いた。

「……はい」

 その返事が、喉を焼く。



 控え室へ戻る廊下で、リディアは壁の影に立ち止まった。

 窓の外に、王宮の中庭が見える。
 花が揺れている。
 民の声が遠い。

 世界は平和な顔をしているのに、今自分の胸の中では、人を消す段取りが組まれた。

(……私は、聖女なのに)

 一瞬だけそう思う。
 そしてすぐに思い直す。

(私は“聖女候補”よ。聖女になるために、邪魔者を消すのは当然)

 当然。
 その言葉で自分を塗り固める。

 イヴが後ろから小声で言った。

「リディア様……大丈夫ですか。お顔が少し……」

 リディアは微笑んだ。
 完璧な微笑。

「大丈夫。少し、祈っていただけ」

 イヴは安心したように頷く。

 リディアは歩き出した。
 歩きながら、心の中で繰り返す。

(消す。消す。消す)

 その言葉のたびに胸がざらつく。
 ざらつくのに、止められない。

 ――なぜなら、自分の立場が崩れる方が怖いから。
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