婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない

柴田はつみ

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第45章|救出

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 禁域の扉は、開けた瞬間に空気が変わった。

 香が薄い。湿り気が重い。
 灯りが点々と浮かび、影が地面から伸びてくる。
 ここは王宮の中なのに、王宮の外側みたいな匂いがする。

 レイヴンは剣を抜いたまま、先頭に立っていた。

 ガイルが後ろで囁く。

「殿下、足元に刻印があります。踏むな。封印刻です」

 レイヴンは頷かない。
 頷けば迷いになる。迷えば遅れる。

 セドリックが低く言った。

「左。風が通ってる。奥に空洞がある」

 現場主義の声。
 役に立つ情報だけを落とす声。

 レイヴンは、ただ進む。

 心臓がうるさい。
 耳の奥で、自分の血が鳴る。
 剣を握る手が熱い。

(……遅れるな)

 遅れたら、彼女は“器”になる。
 器になれば、戻らない。

 回廊の奥から、かすかな旋律が聞こえた。

 短い音。
 言葉のない音。
 胸の奥の鍵穴を正確に叩く音。

 レイヴンの呼吸が止まった。

(……歌っている)

 あの音を、彼女が口ずさんでいる。
 怖くて、祈りたくて、助けを呼びたくて。
 ――それでも、思い出そうとしている。

 レイヴンの喉が焼けた。

「……急げ」

 声が割れる。
 王太子の声ではない。
 ただの男の声。

 ガイルが一瞬だけ目を伏せ、セドリックが無言で頷く。

 灯りの奥、石の円形の刻印の中心に、扉があった。
 扉というより、石の蓋。
 封蝋の跡。花と星の刻印。

 オスカーの箱と同じ印。

 レイヴンは躊躇わず剣を振り下ろした。

 ガイルが叫ぶ。

「殿下!」

 だが止められない。

 剣が石に当たり、火花が散る。
 刃が欠けるほどの硬さ。
 それでもレイヴンは二度、三度と叩く。

 石が割れる音がした。

 ――轟くようで、静かな音。

 中から冷たい空気が溢れ出し、旋律が鮮明になった。

 レイヴンは割れた隙間へ腕を突っ込み、石を押し開けた。
 手袋が裂け、掌が切れ、血が滲む。
 そんなものはどうでもいい。

 ガイルが後ろから支える。

「殿下、危険です!」

「うるさい」

 吐き捨てるように言って、レイヴンは中へ飛び込んだ。



 そこは、小さな儀式室だった。

 床に描かれた円。
 壁に刻まれた紋章。
 天井から垂れる鎖。
 香の匂いと薬の匂いと、金属の匂い。

 そして――中央に、セシリアがいた。

 金髪の長い髪が乱れ、頬に涙が乾いて張りついている。
 手首には細い鎖。
 膝は床につき、でも背筋は折れていない。

 唇が震えながら、あの旋律を口ずさんでいる。

 レイヴンの胸が、割れた。

「……セシリア」

 名前が零れた瞬間、セシリアの顔が上がる。

 灰青の瞳が、こちらを捉えた。

 怯えているのに、どこかで“安心”してしまう目。
 知らないはずなのに、泣きそうになる目。

 セシリアの声が掠れた。

「……だれ……」

 言いかけて、言葉が止まる。

 知らないはずなのに、身体が知っている。
 その矛盾が、彼女の涙を呼ぶ。

 レイヴンは一歩で距離を詰め、鎖へ剣を振り下ろした。

 鎖が切れる。
 金属音が床を打つ。
 その音だけで、儀式室の空気が少し緩んだ。

 しかし次の瞬間、影が動いた。

 オスカーの配下――実働。
 黒衣。手袋。短刀。

 レイヴンの剣が閃く。

 斬撃は早い。容赦がない。
 影が二つ倒れ、残りが後退する。

 セドリックが背後から飛び込み、壁際の影を押さえ込む。

「逃がすな!」

 ガイルが近衛を呼び、入口を封じる。

 儀式室は一瞬で戦場になった。

 その戦場の中心で、セシリアはただ、座り込んでいた。
 怖いのに、目が離せない。

 レイヴンの背中が近い。
 剣を振るう肩が近い。
 血が床に落ちる音が近い。

 ――知らないはずなのに、安心する。

 その矛盾が、セシリアの喉を震わせた。

 涙が溢れた。

 止めたくない涙。
 怖いのに、救われた涙。

「……どうして……」

 セシリアの声が震える。

 レイヴンは振り返らない。
 振り返れば、彼女を見るだけで壊れるから。

 最後の実働が短刀を投げた。
 レイヴンが腕で弾き、刃が外套を裂く。
 裂けた布の下、古傷がちらりと見える。

 セシリアの胸が、ぎゅっと痛む。

(……あの傷……)

 思い出せないのに、知っている気がする。
 知っている気がするから、痛い。

 ガイルが叫ぶ。

「殿下! 外へ! ここは刻が――!」

 床の刻印が淡く光り始めていた。
 封印刻が反応する。
 “器”の固定が始まる合図。

 レイヴンは剣を鞘に叩き込むように収め、セシリアへ振り返った。

 琥珀の瞳が、彼女を貫く。

「……行くぞ」

 命令の形。
 でも声が、震えている。

 セシリアは立ち上がろうとして、膝が崩れた。
 薬の痺れが残っている。
 恐怖で足が言うことを聞かない。

 レイヴンは迷わずセシリアを抱き上げた。

 背と膝裏。
 あの腕の形。

 セシリアの胸がまた、矛盾で痛む。

(怖いのに、安心する)

 涙が落ち、レイヴンの外套に染みる。

「……泣くな」

 言いながら、抱える腕が痛いほど強い。

 レイヴンは走った。

 ガイルとセドリックが後ろを固め、近衛が退路を作る。
 儀式室の灯りが遠ざかり、封印刻の光が足元で追いかけてくる。

 出口が見えた瞬間、空気が変わった。
 王宮の空気。
 生きている空気。

 レイヴンはようやく息を吐いた。

 吐いた息が、ひどく痛い。

 セシリアは腕の中で、涙を拭うこともできずに呟いた。

「……知らないのに……どうして、こんなに……」

 安心する。
 その言葉の続きを、言えない。

 レイヴンは答えない。
 答えたら、思い出させてしまう。
 思い出させたら、封印が揺れる。

 それでも、彼は一度だけ低く言った。

「……生きていてよかった」

 その言葉が、セシリアの胸を強く叩いた。

 知らないのに。
 忘れているのに。
 それでも、この人は――自分を取り戻しに来た。

 救出は成功した。

 だが同時に、代償の影がすぐ背後まで迫っていることを、誰もまだ口にしない。

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