44 / 50
第44章|王太子、王権を投げる覚悟
しおりを挟む
大広間の空気は、裁定の匂いがした。
椅子が並び、槍の柄が床を打ち、証拠箱が壇上に置かれる。
王宮は今日、“噂では裁かない”と宣言する準備を整えていた。
――その中心に立つはずのセシリアが、いない。
ミレイユ王女が扇を閉じ、近衛隊長ガイルを見た。
「……まだ?」
ガイルの顔色が一段悪い。
「北棟の部屋は空でした。扉の鍵は外から開けられた形跡。
侍女長マルタが倒れております。針の痕。毒――軽い麻痺系」
ミレイユの喉が鳴った。
(やられた)
“土台”ができた瞬間に、黒幕が時間を奪った。
本人がいなければ、裁定は物語にならない。
そして物語にならない裁定は、ただの混乱になる。
王妃エリシアが青ざめた。
「……セシリアは」
「禁域の可能性が高い」ガイルが答える。「開けられた扉の向きと、実働の足跡。香の残り。
あの匂いは――前回の拉致未遂と同じです」
その時、扉が開いた。
重い足音。
大広間の空気が一斉に張る。
王太子レイヴンが入ってきた。
漆黒の髪。軍装。琥珀の瞳。
だが今日の瞳は、王太子の“冷たい完成品”ではなかった。
――焦りが、露骨に混ざっている。
「父上」
レイヴンの声が低く響いた。
壇上の国王オルディスが視線を上げる。
「裁定の最中だ」
王の声は冷たい。
その冷たさは、国の体面の冷たさだ。
レイヴンは一歩も引かなかった。
「セシリアが消えた」
大広間がざわめいた。
“消えた”。
その言葉だけで、民も貴族も物語を作り始める。
ミレイユは扇の陰で空気の揺れを読む。
国王の眉が僅かに動く。
「……証拠は」
「禁域だ」
レイヴンは言い切った。
言い切ることで、場の選択肢を削る。
「今から入る」
その一言で、大広間の空気が割れた。
国王が低く叱る。
「王太子。禁域は王権の封庫だ。許可なく踏み込めば、王家の規律をお前が壊す」
規律。
今日の裁定の柱。
その柱を、王太子自身が折ろうとしている。
ミレイユは息を呑んだ。
(殿下は、もう“正しさ”だけでは動けない)
守りたいものが“国”ではなく“ひとり”になった瞬間、人は王にも逆らう。
レイヴンは、国王を見上げた。
琥珀の瞳が、痛みで濁っている。
でも、その濁りの奥に強い光があった。
「規律を守って、彼女が死ぬなら――その規律は王家を守らない」
国王の表情が硬くなる。
「口を慎め」
「慎めない」
レイヴンの声が割れた。
怒鳴ったわけではない。
耐えていたものが、裂けた音。
「……彼女は“鍵”だ。器だ。狙われている。
今この瞬間、禁域で固定されている。
遅れれば――二度と戻らない」
大広間の誰もが息を止める。
“鍵”“器”“禁域”。
王太子が口にしてはいけない言葉が、次々落ちる。
それは王家の秘密のはずだ。
国王の目が鋭くなる。
「……誰から聞いた」
レイヴンは答えなかった。
答えたら、もっと多くの者が危険になる。
エマも、ロザも、医官も、密偵も。
代わりに、レイヴンは言った。
「許可はいらない。俺が行く」
それは王太子の宣言ではなく、男の宣言だった。
国王が立ち上がった。
「王太子!」
王の声が広間を圧する。
これ以上進めば、反逆に近い。
ミレイユが一歩前に出た。
「陛下」
国王が視線を向ける。
王女は扇を閉じ、低く言った。
「禁域が動いたなら、裁定は中止です。
今日の“公開”より、王宮の安全が先。
そして――セシリアがここにいなければ、そもそも裁定は成立しません」
王女の言葉は冷静だ。
冷静だからこそ、王は聞かざるを得ない。
国王が歯を食いしばる。
「……ガイル」
「は」
「少数で行け。禁域の外周を封鎖し、痕跡を残すな。
王宮が“禁域で何かをした”と知られれば火は国を焼く」
ガイルが深く頭を下げた。
「承知しました」
レイヴンが一歩前に出る。
「父上、感謝する」
国王の目が冷たいまま答える。
「感謝ではない。これは王の判断だ。
――戻れなければ、お前は王太子を降りることになる」
脅しではない。現実だ。
王太子が規律を破るということは、王家の柱が揺れるということ。
レイヴンは、頷かなかった。
頷けば迷いになる。
迷えば遅れる。
「……構わない」
その一言で、大広間が息を呑んだ。
王権を投げる覚悟。
王太子が、“王太子”よりも“彼女”を選んだ瞬間だった。
セドリックが前に出た。
「殿下。私も同行します。禁域の外周、現場の判断が必要です」
現場主義の副隊長。
彼の目は迷っていない。
レイヴンは短く言った。
「来い」
ガイルが近衛の数名を呼び、すぐに動線を作る。
大広間の準備の音が、戦の準備の音に変わる。
ミレイユは扇を握りしめ、王妃を見た。
王妃エリシアは、声にならない息を吐き、ただ祈るように手を組んだ。
――間に合って。
その祈りは、母としての祈りであり、王妃としての祈りでもある。
レイヴンは大広間を出る直前、一度だけ振り返った。
ここにいるのは国の柱たち。
でも今、彼の胸にあるのは国ではない。
金に近い琥珀の瞳が、闇を見る。
(……セシリア)
名前を口にせずに呼ぶ。
呼ぶだけで胸が痛む。
痛むからこそ、走れる。
レイヴンは踵を返し、禁域へ向かった。
王権を投げる覚悟のまま。
――ただ一人を取り戻すため
椅子が並び、槍の柄が床を打ち、証拠箱が壇上に置かれる。
王宮は今日、“噂では裁かない”と宣言する準備を整えていた。
――その中心に立つはずのセシリアが、いない。
ミレイユ王女が扇を閉じ、近衛隊長ガイルを見た。
「……まだ?」
ガイルの顔色が一段悪い。
「北棟の部屋は空でした。扉の鍵は外から開けられた形跡。
侍女長マルタが倒れております。針の痕。毒――軽い麻痺系」
ミレイユの喉が鳴った。
(やられた)
“土台”ができた瞬間に、黒幕が時間を奪った。
本人がいなければ、裁定は物語にならない。
そして物語にならない裁定は、ただの混乱になる。
王妃エリシアが青ざめた。
「……セシリアは」
「禁域の可能性が高い」ガイルが答える。「開けられた扉の向きと、実働の足跡。香の残り。
あの匂いは――前回の拉致未遂と同じです」
その時、扉が開いた。
重い足音。
大広間の空気が一斉に張る。
王太子レイヴンが入ってきた。
漆黒の髪。軍装。琥珀の瞳。
だが今日の瞳は、王太子の“冷たい完成品”ではなかった。
――焦りが、露骨に混ざっている。
「父上」
レイヴンの声が低く響いた。
壇上の国王オルディスが視線を上げる。
「裁定の最中だ」
王の声は冷たい。
その冷たさは、国の体面の冷たさだ。
レイヴンは一歩も引かなかった。
「セシリアが消えた」
大広間がざわめいた。
“消えた”。
その言葉だけで、民も貴族も物語を作り始める。
ミレイユは扇の陰で空気の揺れを読む。
国王の眉が僅かに動く。
「……証拠は」
「禁域だ」
レイヴンは言い切った。
言い切ることで、場の選択肢を削る。
「今から入る」
その一言で、大広間の空気が割れた。
国王が低く叱る。
「王太子。禁域は王権の封庫だ。許可なく踏み込めば、王家の規律をお前が壊す」
規律。
今日の裁定の柱。
その柱を、王太子自身が折ろうとしている。
ミレイユは息を呑んだ。
(殿下は、もう“正しさ”だけでは動けない)
守りたいものが“国”ではなく“ひとり”になった瞬間、人は王にも逆らう。
レイヴンは、国王を見上げた。
琥珀の瞳が、痛みで濁っている。
でも、その濁りの奥に強い光があった。
「規律を守って、彼女が死ぬなら――その規律は王家を守らない」
国王の表情が硬くなる。
「口を慎め」
「慎めない」
レイヴンの声が割れた。
怒鳴ったわけではない。
耐えていたものが、裂けた音。
「……彼女は“鍵”だ。器だ。狙われている。
今この瞬間、禁域で固定されている。
遅れれば――二度と戻らない」
大広間の誰もが息を止める。
“鍵”“器”“禁域”。
王太子が口にしてはいけない言葉が、次々落ちる。
それは王家の秘密のはずだ。
国王の目が鋭くなる。
「……誰から聞いた」
レイヴンは答えなかった。
答えたら、もっと多くの者が危険になる。
エマも、ロザも、医官も、密偵も。
代わりに、レイヴンは言った。
「許可はいらない。俺が行く」
それは王太子の宣言ではなく、男の宣言だった。
国王が立ち上がった。
「王太子!」
王の声が広間を圧する。
これ以上進めば、反逆に近い。
ミレイユが一歩前に出た。
「陛下」
国王が視線を向ける。
王女は扇を閉じ、低く言った。
「禁域が動いたなら、裁定は中止です。
今日の“公開”より、王宮の安全が先。
そして――セシリアがここにいなければ、そもそも裁定は成立しません」
王女の言葉は冷静だ。
冷静だからこそ、王は聞かざるを得ない。
国王が歯を食いしばる。
「……ガイル」
「は」
「少数で行け。禁域の外周を封鎖し、痕跡を残すな。
王宮が“禁域で何かをした”と知られれば火は国を焼く」
ガイルが深く頭を下げた。
「承知しました」
レイヴンが一歩前に出る。
「父上、感謝する」
国王の目が冷たいまま答える。
「感謝ではない。これは王の判断だ。
――戻れなければ、お前は王太子を降りることになる」
脅しではない。現実だ。
王太子が規律を破るということは、王家の柱が揺れるということ。
レイヴンは、頷かなかった。
頷けば迷いになる。
迷えば遅れる。
「……構わない」
その一言で、大広間が息を呑んだ。
王権を投げる覚悟。
王太子が、“王太子”よりも“彼女”を選んだ瞬間だった。
セドリックが前に出た。
「殿下。私も同行します。禁域の外周、現場の判断が必要です」
現場主義の副隊長。
彼の目は迷っていない。
レイヴンは短く言った。
「来い」
ガイルが近衛の数名を呼び、すぐに動線を作る。
大広間の準備の音が、戦の準備の音に変わる。
ミレイユは扇を握りしめ、王妃を見た。
王妃エリシアは、声にならない息を吐き、ただ祈るように手を組んだ。
――間に合って。
その祈りは、母としての祈りであり、王妃としての祈りでもある。
レイヴンは大広間を出る直前、一度だけ振り返った。
ここにいるのは国の柱たち。
でも今、彼の胸にあるのは国ではない。
金に近い琥珀の瞳が、闇を見る。
(……セシリア)
名前を口にせずに呼ぶ。
呼ぶだけで胸が痛む。
痛むからこそ、走れる。
レイヴンは踵を返し、禁域へ向かった。
王権を投げる覚悟のまま。
――ただ一人を取り戻すため
91
あなたにおすすめの小説
一年だけの夫婦でも私は幸せでした。
クロユキ
恋愛
騎士のブライドと結婚をしたフローズンは夫がまだ婚約者だった姉を今でも想っている事を知っていた。
フローズンとブライドは政略結婚で結婚式当日にブライドの婚約者だった姉が姿を消してしまった。
フローズンは姉が戻るまでの一年の夫婦の生活が始まった。
更新が不定期です。誤字脱字がありますが宜しくお願いします。
記憶喪失の婚約者は私を侍女だと思ってる
きまま
恋愛
王家に仕える名門ラングフォード家の令嬢セレナは王太子サフィルと婚約を結んだばかりだった。
穏やかで優しい彼との未来を疑いもしなかった。
——あの日までは。
突如として王都を揺るがした
「王太子サフィル、重傷」の報せ。
駆けつけた医務室でセレナを待っていたのは、彼女を“知らない”婚約者の姿だった。
素敵な人が私の婚約者ですか?すみません、他に好きな人がいる婚約者様とは将来を約束出来ませんので婚約破棄をお願いします。
クロユキ
恋愛
「あの…貴方は誰ですか?」
森の中で倒れていた私は婚約者のアレン様を私は覚えていません、記憶喪失だそうです。彼には別に好きな人がいたようなのです。私、マリーナ・クレールは婚約破棄をしました。
彼の事は覚えていませんので私の事は気にしないで下さい。
誤字脱字があります。更新が不定期ですがよろしくお願いします。
『「君は飾りだ」と言われた公爵令嬢、契約通りに王太子を廃嫡へ導きました』
ふわふわ
恋愛
「君は優秀だが、王妃としては冷たい。正直に言えば――飾りとしては十分だった」
そう言って婚約者である王太子に公然と切り捨てられた、公爵令嬢アデルフィーナ。
さらに王太子は宣言する。
「王家は外部信用に頼らない」「王家が条文だ」と。
履行履歴も整えず、契約も軽視し、
新たな婚約者と共に“強い王家”を演出する王太子。
――ですが。
契約は宣言では動きません。
信用は履歴の上にしか立ちません。
王命が止まり、出荷が止まり、資材が止まり、
やがて止まったのは王太子の未来でした。
自ら押した承認印が、
自らの継承権を奪うことになるとも知らずに。
公然侮辱から始まる、徹底的な強ザマァ。
救済なし。
やり直しなし。
契約通りに処理しただけですのに――
なぜか王太子が廃嫡されました。
〈完結〉【書籍化&コミカライズ・取り下げ予定】記憶を失ったらあなたへの恋心も消えました。
ごろごろみかん。
恋愛
婚約者には、何よりも大切にしている義妹がいる、らしい。
ある日、私は階段から転がり落ち、目が覚めた時には全てを忘れていた。
対面した婚約者は、
「お前がどうしても、というからこの婚約を結んだ。そんなことも覚えていないのか」
……とても偉そう。日記を見るに、以前の私は彼を慕っていたらしいけれど。
「階段から転げ落ちた衝撃であなたへの恋心もなくなったみたいです。ですから婚約は解消していただいて構いません。今まで無理を言って申し訳ありませんでした」
今の私はあなたを愛していません。
気弱令嬢(だった)シャーロットの逆襲が始まる。
☆タイトルコロコロ変えてすみません、これで決定、のはず。
☆商業化が決定したため取り下げ予定です(完結まで更新します)
百日紅の咲く場所で、あの日私達は死んだ
ミカン♬
恋愛
十八歳を迎えた双子の姉妹が、裏切りによる絶望と復讐への決意を交錯させる物語です。
かつて、婚約者が庶子の妹を選んだことで、誇りを踏みにじられた姉のアナイスは、思い出の詰まった温室を心を閉ざすための美しい牢獄として引きこもる道を選びました。
一方で妹のラリッサは、姉の幸福を奪った者たちを破滅させるための苛烈な報復を誓い、二人の運命は静止と激動という対照的な方向へと動き出します。
誰も幸福にならない復讐劇です。
かるーく、暇つぶしに読んで頂ければ嬉しいです。
誤字報告ありがとうございました!
訂正しました。
なろう様にも投稿。
身代わりの恋だと思っていました〜記憶を失った私に、元婚約者が泣いて縋る理由〜
恋せよ恋
恋愛
「君を愛している。一目惚れだったんだ」
18歳の伯爵令嬢エリカは、9歳年上のリヒャルト伯爵から
情熱的な求婚を受け、幸せの絶頂にいた。
しかし、親族顔合わせの席で運命が狂い出す。
彼の視線の先にいたのは、エリカの伯母であり、
彼の学生時代の恋人で「初めての女性」だった……ミレイユ。
「あの子は私の身代わりでしょう」「私はあなただけなの」
伯母ミレイユの甘い誘惑と、裏切りの密会。
衝撃の事実を目撃したエリカは、階段から転落し、
彼と過ごした愛しくも残酷な二年間の記憶だけを失ってしまう。
「……あの、どちら様でしょうか?」
無垢な瞳で問いかけるエリカに、絶望し泣き崩れるリヒャルト。
裏切った男と、略奪を企てた伯母。
二人に待ち受けるのは、甘い報復と取り返しのつかない後悔だった。
🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。
🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!
七年目の裏切り 〜赴任先の夫から届く愛の手紙は、愛人の代筆でした〜
恋せよ恋
恋愛
「君は僕の最愛だ。もう二度と、君を危険に晒したくない」
命懸けの出産後、涙を流して私を抱きしめた夫ジュリアン。
その言葉通り、彼は「私を大切にするため」に夜の営みを断った。
私は、女としての寂しさを「愛されている誇り」に変え、
隣国へ赴任した夫を信じて二人の子供と家を守り続けていた。
毎週届く、情熱的な愛の手紙。タイプライターで綴られた
その愛の言葉を、私は宝物のように抱きしめていた。
……しかし、その手紙は「裏切り」だった。
夫が異国の地で、愛人と肌を重ねながら綴らせていた「偽りの愛」。
身分を隠して夫の赴任先の隣国へと向かった私が見たのは……。
果たして、貞淑な妻・メラニアが選んだ結論は……。
子供たちのため結婚生活の継続か、それとも……。
🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。
🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる