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第43章|拉致成功
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王宮裁定の当日――空はやけに青かった。
窓の外に広がる青は、何も知らない顔をしている。
これから誰かの名誉が戻され、誰かの仮面が剥がれ、そして誰かが“消える”ことなど、空は気にしない。
セシリアは北棟の部屋で、与えられた侍女服の襟元を整えていた。
名札は胸元にある。
金属の冷たさは、もう怖さよりも“自分の印”に近い。
――働けない日々が続いても、それだけは捨てたくなかった。
マルタが言った。
「今日は大広間へ出る。
王女殿下の指示だ。あなたの名誉回復の土台ができた。……だから、立て」
立て。
その言葉が、胸を熱くした。
(私の名誉が……戻る?)
戻っていいのか分からない。
でも、戻らなければ生きられない。
セシリアは頷き、息を整えた。
扉が開く。
廊下の光が入る。
王宮の音が入る。
久しぶりに、世界へ戻る感覚。
廊下へ出た瞬間、セシリアは一度だけ足を止めた。
――匂いがした。
香木ではない。
薬草でもない。
金属でもない。
少し甘く、少し冷たく、鼻の奥に残る匂い。
(……前に、嗅いだ)
拉致未遂の時の匂い。
口元を塞がれた布の匂い。
セシリアの背筋が冷えた。
「……マルタ様」
声が震える。
マルタが振り返る。
「どうした」
「匂いが……」
言い終える前に、廊下の角から二人の侍女が現れた。
見慣れない顔。
侍女服は整っている。手袋も白い。
だが歩き方が、侍女の歩き方ではない。
音がない。
重心が低い。
(……違う)
直感が叫ぶ。
マルタが一歩前へ出た。
「……誰の許可でここへ」
侍女の一人が微笑んだ。
柔らかな微笑。
でも目が笑っていない。
「医務室からの連絡です。セシリア様の体調確認を――」
嘘だ。
嘘があまりにも滑らかで、恐ろしい。
セシリアが一歩後ろへ下がった瞬間――
白い手袋が伸びた。
口元を布で塞がれる。
甘い匂い。冷たい痺れ。
(……っ!)
声が出ない。
喉が詰まる。
身体が重くなる。
マルタが叫んだ。
「――誰だ!」
次の瞬間、もう一人がマルタの首筋へ細い針を刺した。
マルタの身体が強張り、膝が崩れる。
「……っ」
倒れる音はしない。
床に沈むように倒れた。
セシリアの視界が揺れる。
(やめて……!)
助けを呼びたい。
でも声が出ない。
身体が言うことを聞かない。
侍女服の影がセシリアの腕を掴み、引きずるように歩き出す。
足がもつれる。
床が遠い。
どこへ――
回廊の先には、いつも閉ざされた扉があった。
禁域。
王宮の中で、誰も近づかない扉。
祈祷室よりさらに奥。
“封印の近く”。
(……ここに、連れて行く)
扉の前で、別の影が待っていた。
黒衣。
手袋。
花と星の刻印の封蝋。
オスカーの配下――実働。
彼らは手際が良すぎた。
扉の鍵を開ける音が、まるで日常の動作みたいに軽い。
扉が開いた瞬間、冷たい空気が流れ出た。
石の匂い。
湿った土の匂い。
そして、薄い香の匂い。
セシリアの頭の奥が、ずん、と重くなった。
(……祈祷室の時と同じ)
視界が白く滲む。
胸の奥が痛む。
でも、今は発作よりも恐怖が勝った。
セシリアは必死に抵抗しようとした。
指先を動かす。
だが力が入らない。
薬が回っている。
禁域の中は暗く、灯りが点々とあるだけだった。
壁には古い紋章。
床には薄い円形の刻印。
空気が冷たく、湿っている。
連れてきた者の一人が、低い声で言った。
「……器を回収する」
器。
その言葉が、セシリアの心臓を冷やした。
(私は、人なのに)
でも彼らの目には、人ではなく“道具”として映っている。
セシリアは唇を震わせた。
声は出ない。
涙が滲む。
怖い。
――このまま消える。
王宮裁定の場に立てない。
名誉回復の土台があっても、本人がいなければ物語は崩れる。
そして崩れた物語の中で、セシリアは“消えた”ことになる。
(……嫌だ)
嫌だ。
生きたい。
立ちたい。
その願いが喉元で詰まった時――
セシリアの口から、音が漏れた。
旋律。
短い音。
言葉のない音。
胸の奥の鍵穴に触れる音。
震える唇が、無意識にそれをなぞった。
――トン、トン。
心の中で机を叩く音まで聞こえた気がした。
合図。
来て。
ここにいる。
生きている。
声にならない祈りが、旋律に乗る。
連れ去った者が眉をひそめる。
「……何だ、その音」
だがセシリアは止められなかった。
怖い。
でも、この音だけが自分を自分に繋ぎ止める。
禁域の奥で、誰かが祈っていた。
修道院のロザ。
遠い場所で、老シスターが小さな鈴を握りしめ、祈りの言葉を落とす。
「……どうか、間に合いますように。
あの子が、あの音を失いませんように」
祈りは届くか分からない。
でも、祈りしかない時がある。
セシリアは涙をこぼしながら、旋律を口ずさみ続けた。
扉が閉まる。
がちゃり、と鍵がかかる。
――拉致は成功した。
王宮裁定の準備が整うほど、黒幕の手は早かった。
そしてこの禁域で、セシリアは“器”として固定されようとしていた。
その時、王宮のどこかで――
レイヴンの胸が、説明のつかない痛みで強く鳴り始める。
窓の外に広がる青は、何も知らない顔をしている。
これから誰かの名誉が戻され、誰かの仮面が剥がれ、そして誰かが“消える”ことなど、空は気にしない。
セシリアは北棟の部屋で、与えられた侍女服の襟元を整えていた。
名札は胸元にある。
金属の冷たさは、もう怖さよりも“自分の印”に近い。
――働けない日々が続いても、それだけは捨てたくなかった。
マルタが言った。
「今日は大広間へ出る。
王女殿下の指示だ。あなたの名誉回復の土台ができた。……だから、立て」
立て。
その言葉が、胸を熱くした。
(私の名誉が……戻る?)
戻っていいのか分からない。
でも、戻らなければ生きられない。
セシリアは頷き、息を整えた。
扉が開く。
廊下の光が入る。
王宮の音が入る。
久しぶりに、世界へ戻る感覚。
廊下へ出た瞬間、セシリアは一度だけ足を止めた。
――匂いがした。
香木ではない。
薬草でもない。
金属でもない。
少し甘く、少し冷たく、鼻の奥に残る匂い。
(……前に、嗅いだ)
拉致未遂の時の匂い。
口元を塞がれた布の匂い。
セシリアの背筋が冷えた。
「……マルタ様」
声が震える。
マルタが振り返る。
「どうした」
「匂いが……」
言い終える前に、廊下の角から二人の侍女が現れた。
見慣れない顔。
侍女服は整っている。手袋も白い。
だが歩き方が、侍女の歩き方ではない。
音がない。
重心が低い。
(……違う)
直感が叫ぶ。
マルタが一歩前へ出た。
「……誰の許可でここへ」
侍女の一人が微笑んだ。
柔らかな微笑。
でも目が笑っていない。
「医務室からの連絡です。セシリア様の体調確認を――」
嘘だ。
嘘があまりにも滑らかで、恐ろしい。
セシリアが一歩後ろへ下がった瞬間――
白い手袋が伸びた。
口元を布で塞がれる。
甘い匂い。冷たい痺れ。
(……っ!)
声が出ない。
喉が詰まる。
身体が重くなる。
マルタが叫んだ。
「――誰だ!」
次の瞬間、もう一人がマルタの首筋へ細い針を刺した。
マルタの身体が強張り、膝が崩れる。
「……っ」
倒れる音はしない。
床に沈むように倒れた。
セシリアの視界が揺れる。
(やめて……!)
助けを呼びたい。
でも声が出ない。
身体が言うことを聞かない。
侍女服の影がセシリアの腕を掴み、引きずるように歩き出す。
足がもつれる。
床が遠い。
どこへ――
回廊の先には、いつも閉ざされた扉があった。
禁域。
王宮の中で、誰も近づかない扉。
祈祷室よりさらに奥。
“封印の近く”。
(……ここに、連れて行く)
扉の前で、別の影が待っていた。
黒衣。
手袋。
花と星の刻印の封蝋。
オスカーの配下――実働。
彼らは手際が良すぎた。
扉の鍵を開ける音が、まるで日常の動作みたいに軽い。
扉が開いた瞬間、冷たい空気が流れ出た。
石の匂い。
湿った土の匂い。
そして、薄い香の匂い。
セシリアの頭の奥が、ずん、と重くなった。
(……祈祷室の時と同じ)
視界が白く滲む。
胸の奥が痛む。
でも、今は発作よりも恐怖が勝った。
セシリアは必死に抵抗しようとした。
指先を動かす。
だが力が入らない。
薬が回っている。
禁域の中は暗く、灯りが点々とあるだけだった。
壁には古い紋章。
床には薄い円形の刻印。
空気が冷たく、湿っている。
連れてきた者の一人が、低い声で言った。
「……器を回収する」
器。
その言葉が、セシリアの心臓を冷やした。
(私は、人なのに)
でも彼らの目には、人ではなく“道具”として映っている。
セシリアは唇を震わせた。
声は出ない。
涙が滲む。
怖い。
――このまま消える。
王宮裁定の場に立てない。
名誉回復の土台があっても、本人がいなければ物語は崩れる。
そして崩れた物語の中で、セシリアは“消えた”ことになる。
(……嫌だ)
嫌だ。
生きたい。
立ちたい。
その願いが喉元で詰まった時――
セシリアの口から、音が漏れた。
旋律。
短い音。
言葉のない音。
胸の奥の鍵穴に触れる音。
震える唇が、無意識にそれをなぞった。
――トン、トン。
心の中で机を叩く音まで聞こえた気がした。
合図。
来て。
ここにいる。
生きている。
声にならない祈りが、旋律に乗る。
連れ去った者が眉をひそめる。
「……何だ、その音」
だがセシリアは止められなかった。
怖い。
でも、この音だけが自分を自分に繋ぎ止める。
禁域の奥で、誰かが祈っていた。
修道院のロザ。
遠い場所で、老シスターが小さな鈴を握りしめ、祈りの言葉を落とす。
「……どうか、間に合いますように。
あの子が、あの音を失いませんように」
祈りは届くか分からない。
でも、祈りしかない時がある。
セシリアは涙をこぼしながら、旋律を口ずさみ続けた。
扉が閉まる。
がちゃり、と鍵がかかる。
――拉致は成功した。
王宮裁定の準備が整うほど、黒幕の手は早かった。
そしてこの禁域で、セシリアは“器”として固定されようとしていた。
その時、王宮のどこかで――
レイヴンの胸が、説明のつかない痛みで強く鳴り始める。
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