婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない

柴田はつみ

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第42章|黒幕の強行策

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 追い詰められた者は、静かに動けなくなる。

 静かに動けないからこそ、派手に動く。
 証拠が揃い始めた時、黒幕は必ず“時間”を奪いに来る。

 宮廷魔術師長オスカーは、窓のない研究室でその瞬間を待っていた。

 地下。
 石壁。
 硝子瓶の並ぶ棚。
 蝋燭の火が揺れるたび、影が瓶の中の液体を青く光らせる。

 ここには祈りの匂いはない。
 あるのは薬品と金属と、焼けた羊皮紙の匂い――“成功するまでやめない匂い”。

 オスカーは机の上に置かれた報告書を指先で弾いた。

「王宮裁定……」

 口にしただけで、苛立ちが滲む。

 民の前で裁く?
 王宮の規律で裁く?
 記録で裁く?

 ――笑わせるな。

 記録は改竄できる。
 規律はねじ曲げられる。
 民の目は、演出で誘導できる。

 だが今、厄介なのは“土台”ができたことだ。

 王女ミレイユ。
 あの女は、涙ではなく段取りで空気を動かす。
 枢機卿バルドでさえ、正面から噛みつけない。

 そして、さらに厄介なのが――

「……鍵が、まだ生きている」

 オスカーは呟いた。

 セシリア。
 封印の核に触れる血。
 “器”になり得る肉体。
 その器は、思い出した瞬間に発動する。

 つまり――

(思い出させる前に、回収する)

 オスカーは椅子から立ち上がり、薄い革手袋をはめた。
 爪先まで冷えるような手袋。
 それをはめるたび、心が少しだけ落ち着く。

 扉がノックされた。

「……入れ」

 入ってきたのは枢機卿バルドだった。
 黒衣。金の聖印。柔らかな笑み。
 だが今日は、その笑みが薄い。

「オスカー」

 呼び捨て。
 苛立ちが混じっている。

「裁定の準備が進んでいる。ミレイユが動線を固めた。
 写し絵の刻印まで照合された。――このままでは、こちらが燃える」

 オスカーは肩をすくめた。

「燃えるのは、あなたの教会でしょう。私の研究室は地下です」

 バルドの目が冷える。

「余裕を見せるな。王宮が火を向ける時、地下にも煙は降りる」

 正しい。
 煙はどこにでも回る。

 オスカーは机の上の紙を一枚指で滑らせた。

「……だから言ったはずです。鍵を回収すればいい、と」

 バルドが息を吐いた。

「リディアは焦っている。涙が効かなくなってきた。
 あの娘を消すのが一番早いと言うが――消せば王太子が暴走する」

 オスカーは笑った。声のない笑い。

「暴走させればいい」

 バルドが目を細める。

「何?」

 オスカーは淡々と答える。

「王太子は“守れなかった罪”に弱い。
 なら、守らせる。守らせるふりをして、鎖を巻く。
 鍵を奪えば、王太子は自分から首を差し出す」

 バルドの目が僅かに揺れた。
 それは同意の揺れだ。
 信仰の皮を被った権力は、こういう計算に弱い。

「……具体的には」

 オスカーは、引き出しから小さな黒い箱を取り出した。
 箱の蓋には、花と星の刻印。封印の印。

「器回収の手順は三段階です」

 指を一本立てる。

「一、彼女を“禁域”へ移す。王宮の動線から消す。
 裁定の日に“欠席”させれば、物語が止まる」

 バルドの眉が動く。
 欠席は強い。欠席は空気を止める。

 指を二本立てる。

「二、禁域で封印を揺らし、器として固定する。
 記憶を刺激しなくてもいい。血と紋章と刻で揺れる」

 そして三本目。

「三、王太子を呼ぶ。
 彼は来る。剣を抜く。救おうとする。
 その瞬間に、こちらが“条件”を提示する」

 条件。
 鎖。
 交渉。

 バルドが低く言う。

「……聖女候補の立場は?」

 オスカーは答える。

「リディアは“祈り”を用意する。
 禁域は恐ろしい、王宮の闇だ、と。
 彼女が泣けば民は信じる。
 そして王宮はまた、涙を正義にする」

 扉が開き、短めの茶色の髪の少女が入ってきた。

 リディアだ。

 白い外套。可憐な目。
 だが今日は、その目に焦りが滲んでいる。

「枢機卿様……オスカー様……」

 “様”の付け方が違う。
 相手を選んでいる。立場を測っている。

 リディアは言った。

「本当に……今日で終わらせられるのですか」

 終わらせる。
 その単語を口にすること自体が、聖女候補としては汚れている。
 でもリディアはもう、綺麗な顔だけでは生きられない。

 バルドが答える。

「終わらせるのではない。王宮のために“正しく整える”」

 言い換え。
 それが教会の技術だ。

 オスカーは、もっと露骨に言った。

「終わらせる。――器を回収する」

 リディアの喉が鳴った。

「器……」

 オスカーは箱の刻印を指で叩く。

「彼女は器だ。あなたは聖女候補だ。
 器が暴れれば、聖女候補の座が揺れる。
 揺れたくないなら、器を手元に置け」

 リディアは唇を噛んだ。
 涙が溜まる。
 その涙は恐怖の涙ではない。焦りの涙だ。

「……王太子殿下が、彼女に固執しているように見えます」

 固執。
 その言葉の中に嫉妬が混じる。

 バルドが淡々と答える。

「固執ではない。罪だ。
 守れなかった罪は、王太子を縛る。
 そして我々は、その罪を“信仰”で包む」

 オスカーが続ける。

「だから、王太子が救出に来たらこう言う。
 『器が発動すれば、王宮は落ちる。止めたいなら、教会と魔術部に協力しろ』」

 協力。
 それは従属だ。

 リディアの目が一瞬だけ輝いた。

(殿下をこちらへ寄せる)

 その欲が見える。
 オスカーはそれを見て、薄く笑った。

「あなたは涙を用意すればいい。
 ……泣けますね?」

 リディアは即座に頷いた。

「はい」

 泣ける。
 それが彼女の武器だ。

 バルドが言う。

「実働は?」

 オスカーが答える。

「すでに配置済み。
 前回は“試し”だった。今回は回収。
 毒ではなく、封印刻で動けなくする」

 リディアが息を呑む。

「……血が出ますか」

 バルドが微笑んだ。

「聖女候補が怖がる必要はない。血は汚れではない。物語の色だ」

 物語の色。
 残酷に、正しい。

 オスカーは黒い箱の蓋を閉じた。

「決断は終わりです。
 王宮裁定の前に、器は消えます」

 バルドが立ち上がる。

「なら急げ。王女の段取りは早い。
 こちらも早く動かねば、裁定で首が落ちる」

 リディアも立ち上がり、外套の襟を正した。

 可憐な聖女候補の顔に戻る。
 涙を使う準備をする。

 オスカーは最後に一人、研究室に残り、黒い箱に指を置いた。

 花と星の刻印。

「……狼を呼ぶ前に、狼の餌を奪う」

 その呟きは祈りではない。
 確信だ。

 そして王宮の闇は、静かに動き始めた。

 次の章――
 セシリアは“禁域”へ連れ去られる。
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