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第27章|白い手袋、火がつく
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舞踏会の翌朝、王宮は驚くほど澄ましていた。
昨夜の熱も香も笑い声も、磨かれた石床に吸い取られて、何事もなかったように光っている。
――けれど、噂だけは磨けない。
むしろ磨かれた場所ほど、噂はよく滑る。
リーシャは鏡台の前で、白い手袋を見つめていた。
防寒のため。体調のため。
ただそれだけの理由で嵌めているのに、この城では“ただそれだけ”が許されない。
白は目立つ。
白は清らかで、だからこそ汚されやすい。
そして王宮は、汚れた白をいちばん好む。
(外せない)
外した瞬間、指先が荒れ、体調を崩す。
崩せば「弱い妃」になる。弱い妃は、あっという間に捨てられる。
(嵌めたままなら、燃える)
燃えれば「王弟の贈り物」「特別」「恋」。
それもまた、王妃を殺す言葉になる。
詰んでいる。
詰んでいるからこそ、リーシャは微笑を作った。
泣けば負ける。泣かなければ“つまらない妃”。
なら、王妃として美しく燃えるしかない。
「王妃陛下」
侍女長アグネスが低い声で言う。
「本日は午前の茶会にお顔を。欠席は……良い材料になります」
欠席は罪。
出席も罪。
この城はいつだってそうだ。
リーシャは白い手袋を嵌め、指先を揃えた。
「分かったわ」
指先を揃えるのは、崩れないための癖だ。
茶会の間は、甘い香りと扇の音で満ちていた。
薄い金の茶器、白いクロス、窓辺の花。
整いは完璧で、完璧であるほど、毒がよく混ざる。
席にはすでに貴婦人たちが並んでいた。
侯爵夫人ベアトリス――王妃を値踏みする目を隠さない女。
伯爵夫人ミレーユ――尾ひれをつけるのが上手い女。
子爵夫人カトリーヌ――笑いながら刺す女。
公爵夫人オリヴィア――中立の仮面で“正しい言葉”を落とす女。
若い令嬢エヴァと、侯爵令嬢リリアナ――噂を“可愛い”で正当化する若さ。
そして輪の端に、扇の陰で目だけ笑う噂屋ヴィオラ。
リーシャが入室すると、全員が揃って立ち上がり礼をする。
礼は完璧。完璧な礼ほど、心は冷たい。
「王妃陛下、ご機嫌麗しゅう」
ベアトリスが最初に声をかけた。
その声は甘い。甘いほど危険だ。
リーシャは微笑を崩さず答える。
「皆さまも、ご機嫌よう」
着席。
カップの音。
一拍置いて――扇が揺れた。
「まあ……王妃陛下。今日もその手袋を?」
ベアトリスの扇が、白い手袋を指した。
指した瞬間、輪の視線が一斉に手元へ集まる。
ミレーユが嬉しそうに続ける。
「真っ白で、目を引きますわ。昨夜の舞踏会でも……」
カトリーヌがわざとらしく首を傾げる。
「寒いから、ですのよね? ねえ?」
“寒いから”
その一言が、どれほど残酷に転がるかを彼女たちは知っている。
防寒は、王宮では“言い訳”になる。
リーシャは穏やかに言った。
「冬は冷えますもの。体調を崩してはいけませんから」
正しい。
正しいほど、温度がない。
温度がないほど、“つまらない妃”に近づく。
オリヴィアが上品に笑う。
「さすが王妃陛下。ご自身の管理も完璧。
でも……白は噂を呼びますのよ。お気をつけて」
噂を呼ぶ。
呼ぶのは手袋ではない。
“呼ばせたい人間”がいる。
エヴァが無邪気に声を弾ませた。
「でも素敵です! 王弟殿下が気づいてくださるなんて……羨ましい」
その「羨ましい」が最も危険だ。
羨ましいと言った瞬間、王妃は“選ぶ側”に仕立てられる。
リリアナがすぐ噛みつくように言う。
「エヴァ、軽率よ。王妃様は王妃様。
……でも、王弟殿下はお優しい方ですものね」
優しい。
優しいは、噂の別名だ。
ヴィオラが、断定しない微笑で囁いた。
「絵になりますわね。
王の隣はセレス様、王妃の手元は白い手袋――」
絵。
王宮は絵で人を殺す。
ベアトリスが扇の陰で、最後に落とす。
「王妃陛下は……贅沢ですわね」
贅沢。
その一言で、噂の方向が決まる。
被害者が、加害者に変わる瞬間だ。
リーシャの胸の奥が冷える。
怒りは出さない。怒りは負ける。
泣かない。泣けば負ける。
だから微笑んで、同じ温度で返す。
「贅沢ではありません。寒さは誰にでも平等ですもの」
その返しは正しい。
正しいのに、彼女たちは笑う。
正しいほど、面白いからだ。
茶会は続く。
続くほど、噂は育つ。
育てられる側は、息を殺すしかない。
茶会が終わり、リーシャが回廊へ出ると空気が少しだけ冷たくなった。
冷たさが今は救いだ。
熱の中にいると、心が溶けてしまう。
護衛ロランが半歩前に立つ。
近すぎず遠すぎず。噂にならない距離。
それでも視線は追ってくる。白い手袋へ、王妃の手元へ。
角を曲がった瞬間、突風が回廊を抜けた。
カーテンが揺れ、冷気が流れ込み、リーシャの肩がほんの僅か震えた。
ロランが反射で外套に手をかける。
掛けてしまえば温かい。
掛けてしまえば噂が“形”を得る。
ロランの手が外套を持ち上げかけ――
そして止まった。
止めたのは礼儀だ。
護衛が王妃に外套を掛ければ、王宮は“守り”を“恋”に変換する。
守ったつもりで、王妃を殺す。
ロランは悔しそうに口を結び、代わりに言った。
「……暖かい回廊へ移りましょう」
優しさを距離で渡す。
それが彼の精一杯。
リーシャは微笑のまま頷いた。
「ええ。そうしましょう」
救われる。
救われたくない。
救われた顔を見せたら、ロランが噂で殺される。
だからリーシャは、救われたことを“表情にしない”。
⸻
そして――回廊の角の先で、空気が変わった。
温度が奪われるような気配。
冷たい存在感。
国王レオニスが立っていた。
黒い礼装、硬い背筋、氷の瞳。
隣に、淡い金が揺れる。
セレス。
金髪、黄金のドレス。
セレスは国王の外套の襟元を直していた。
自然すぎて、咎める言葉が最初から存在しない距離。
リーシャは礼をした。
深く、完璧に。
視線は上げない。目を合わせない。
合わせれば意味を探してしまうから。
「陛下」
国王の返事は短い頷きだけ。
言葉はない。
けれど視線だけがリーシャの手元へ落ちる。
――白い手袋。
国王の眉間がわずかに寄る。
苛立ちの奥に別の色。
焦り。奪われる恐怖。嫉妬。
リーシャは気づく。
気づいてしまう。
でも、期待はしない。期待は毒。
(図々しい)
“俺の妃なのに”と胸の中で燃やす前に、
私の名前を呼んでください。
私の手を取ってください。
できないなら――
セレスが柔らかく言った。
「王妃様……お寒いでしょう。手袋が、とてもお似合いです」
慈悲の形をした声。
だから誰も咎めない。
だからこそ、いちばん刺さる。
リーシャは微笑を崩さず、白い手袋の指先を揃えた。
ゆっくりセレスへ視線を向ける。
「ありがとうございます、セレス様」
声は穏やかだった。穏やかにするほど、言葉は刃になる。
そして同じ温度で落とす。
「セレス様も――陛下の隣が、とてもお似合いです」
空気が止まった。
セレスの微笑がほんの一瞬、途切れる。
途切れてすぐ戻るが、戻った微笑は少しだけ硬い。
国王の指先が僅かに動いた。
止めたいのか、呼び止めたいのか。
けれど言わない。言えない。
言葉にした瞬間、王が人間になってしまうから。
リーシャは最後に、祝福の形をした離別宣言を落とす。
「どうぞ、お二人末長くお幸せに」
沈黙が落ちた。
沈黙はいつも国王の勝ちだった。
けれど今の沈黙は、リーシャの勝ちでもあった。
リーシャは深く礼をした。
完璧に、美しく、王妃として最後まで崩れない角度で。
「失礼いたします」
背を向ける。
背を向けた瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。
軽くなるのが怖い。
軽くなるのは、何かが死んだ証拠だから。
ロランが半歩前で待っていた。
何も聞かない。何も詮索しない。
その沈黙が、今のリーシャには救いだった。
リーシャは微笑を貼りつけたまま歩く。
(燃えるなら、燃えればいい)
白い手袋が燃料になるなら、
この炎で、もう一度だけ自分の意思を確かめる。
――私は戻らない。
――次の隣は、私が選ぶ。
昨夜の熱も香も笑い声も、磨かれた石床に吸い取られて、何事もなかったように光っている。
――けれど、噂だけは磨けない。
むしろ磨かれた場所ほど、噂はよく滑る。
リーシャは鏡台の前で、白い手袋を見つめていた。
防寒のため。体調のため。
ただそれだけの理由で嵌めているのに、この城では“ただそれだけ”が許されない。
白は目立つ。
白は清らかで、だからこそ汚されやすい。
そして王宮は、汚れた白をいちばん好む。
(外せない)
外した瞬間、指先が荒れ、体調を崩す。
崩せば「弱い妃」になる。弱い妃は、あっという間に捨てられる。
(嵌めたままなら、燃える)
燃えれば「王弟の贈り物」「特別」「恋」。
それもまた、王妃を殺す言葉になる。
詰んでいる。
詰んでいるからこそ、リーシャは微笑を作った。
泣けば負ける。泣かなければ“つまらない妃”。
なら、王妃として美しく燃えるしかない。
「王妃陛下」
侍女長アグネスが低い声で言う。
「本日は午前の茶会にお顔を。欠席は……良い材料になります」
欠席は罪。
出席も罪。
この城はいつだってそうだ。
リーシャは白い手袋を嵌め、指先を揃えた。
「分かったわ」
指先を揃えるのは、崩れないための癖だ。
茶会の間は、甘い香りと扇の音で満ちていた。
薄い金の茶器、白いクロス、窓辺の花。
整いは完璧で、完璧であるほど、毒がよく混ざる。
席にはすでに貴婦人たちが並んでいた。
侯爵夫人ベアトリス――王妃を値踏みする目を隠さない女。
伯爵夫人ミレーユ――尾ひれをつけるのが上手い女。
子爵夫人カトリーヌ――笑いながら刺す女。
公爵夫人オリヴィア――中立の仮面で“正しい言葉”を落とす女。
若い令嬢エヴァと、侯爵令嬢リリアナ――噂を“可愛い”で正当化する若さ。
そして輪の端に、扇の陰で目だけ笑う噂屋ヴィオラ。
リーシャが入室すると、全員が揃って立ち上がり礼をする。
礼は完璧。完璧な礼ほど、心は冷たい。
「王妃陛下、ご機嫌麗しゅう」
ベアトリスが最初に声をかけた。
その声は甘い。甘いほど危険だ。
リーシャは微笑を崩さず答える。
「皆さまも、ご機嫌よう」
着席。
カップの音。
一拍置いて――扇が揺れた。
「まあ……王妃陛下。今日もその手袋を?」
ベアトリスの扇が、白い手袋を指した。
指した瞬間、輪の視線が一斉に手元へ集まる。
ミレーユが嬉しそうに続ける。
「真っ白で、目を引きますわ。昨夜の舞踏会でも……」
カトリーヌがわざとらしく首を傾げる。
「寒いから、ですのよね? ねえ?」
“寒いから”
その一言が、どれほど残酷に転がるかを彼女たちは知っている。
防寒は、王宮では“言い訳”になる。
リーシャは穏やかに言った。
「冬は冷えますもの。体調を崩してはいけませんから」
正しい。
正しいほど、温度がない。
温度がないほど、“つまらない妃”に近づく。
オリヴィアが上品に笑う。
「さすが王妃陛下。ご自身の管理も完璧。
でも……白は噂を呼びますのよ。お気をつけて」
噂を呼ぶ。
呼ぶのは手袋ではない。
“呼ばせたい人間”がいる。
エヴァが無邪気に声を弾ませた。
「でも素敵です! 王弟殿下が気づいてくださるなんて……羨ましい」
その「羨ましい」が最も危険だ。
羨ましいと言った瞬間、王妃は“選ぶ側”に仕立てられる。
リリアナがすぐ噛みつくように言う。
「エヴァ、軽率よ。王妃様は王妃様。
……でも、王弟殿下はお優しい方ですものね」
優しい。
優しいは、噂の別名だ。
ヴィオラが、断定しない微笑で囁いた。
「絵になりますわね。
王の隣はセレス様、王妃の手元は白い手袋――」
絵。
王宮は絵で人を殺す。
ベアトリスが扇の陰で、最後に落とす。
「王妃陛下は……贅沢ですわね」
贅沢。
その一言で、噂の方向が決まる。
被害者が、加害者に変わる瞬間だ。
リーシャの胸の奥が冷える。
怒りは出さない。怒りは負ける。
泣かない。泣けば負ける。
だから微笑んで、同じ温度で返す。
「贅沢ではありません。寒さは誰にでも平等ですもの」
その返しは正しい。
正しいのに、彼女たちは笑う。
正しいほど、面白いからだ。
茶会は続く。
続くほど、噂は育つ。
育てられる側は、息を殺すしかない。
茶会が終わり、リーシャが回廊へ出ると空気が少しだけ冷たくなった。
冷たさが今は救いだ。
熱の中にいると、心が溶けてしまう。
護衛ロランが半歩前に立つ。
近すぎず遠すぎず。噂にならない距離。
それでも視線は追ってくる。白い手袋へ、王妃の手元へ。
角を曲がった瞬間、突風が回廊を抜けた。
カーテンが揺れ、冷気が流れ込み、リーシャの肩がほんの僅か震えた。
ロランが反射で外套に手をかける。
掛けてしまえば温かい。
掛けてしまえば噂が“形”を得る。
ロランの手が外套を持ち上げかけ――
そして止まった。
止めたのは礼儀だ。
護衛が王妃に外套を掛ければ、王宮は“守り”を“恋”に変換する。
守ったつもりで、王妃を殺す。
ロランは悔しそうに口を結び、代わりに言った。
「……暖かい回廊へ移りましょう」
優しさを距離で渡す。
それが彼の精一杯。
リーシャは微笑のまま頷いた。
「ええ。そうしましょう」
救われる。
救われたくない。
救われた顔を見せたら、ロランが噂で殺される。
だからリーシャは、救われたことを“表情にしない”。
⸻
そして――回廊の角の先で、空気が変わった。
温度が奪われるような気配。
冷たい存在感。
国王レオニスが立っていた。
黒い礼装、硬い背筋、氷の瞳。
隣に、淡い金が揺れる。
セレス。
金髪、黄金のドレス。
セレスは国王の外套の襟元を直していた。
自然すぎて、咎める言葉が最初から存在しない距離。
リーシャは礼をした。
深く、完璧に。
視線は上げない。目を合わせない。
合わせれば意味を探してしまうから。
「陛下」
国王の返事は短い頷きだけ。
言葉はない。
けれど視線だけがリーシャの手元へ落ちる。
――白い手袋。
国王の眉間がわずかに寄る。
苛立ちの奥に別の色。
焦り。奪われる恐怖。嫉妬。
リーシャは気づく。
気づいてしまう。
でも、期待はしない。期待は毒。
(図々しい)
“俺の妃なのに”と胸の中で燃やす前に、
私の名前を呼んでください。
私の手を取ってください。
できないなら――
セレスが柔らかく言った。
「王妃様……お寒いでしょう。手袋が、とてもお似合いです」
慈悲の形をした声。
だから誰も咎めない。
だからこそ、いちばん刺さる。
リーシャは微笑を崩さず、白い手袋の指先を揃えた。
ゆっくりセレスへ視線を向ける。
「ありがとうございます、セレス様」
声は穏やかだった。穏やかにするほど、言葉は刃になる。
そして同じ温度で落とす。
「セレス様も――陛下の隣が、とてもお似合いです」
空気が止まった。
セレスの微笑がほんの一瞬、途切れる。
途切れてすぐ戻るが、戻った微笑は少しだけ硬い。
国王の指先が僅かに動いた。
止めたいのか、呼び止めたいのか。
けれど言わない。言えない。
言葉にした瞬間、王が人間になってしまうから。
リーシャは最後に、祝福の形をした離別宣言を落とす。
「どうぞ、お二人末長くお幸せに」
沈黙が落ちた。
沈黙はいつも国王の勝ちだった。
けれど今の沈黙は、リーシャの勝ちでもあった。
リーシャは深く礼をした。
完璧に、美しく、王妃として最後まで崩れない角度で。
「失礼いたします」
背を向ける。
背を向けた瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。
軽くなるのが怖い。
軽くなるのは、何かが死んだ証拠だから。
ロランが半歩前で待っていた。
何も聞かない。何も詮索しない。
その沈黙が、今のリーシャには救いだった。
リーシャは微笑を貼りつけたまま歩く。
(燃えるなら、燃えればいい)
白い手袋が燃料になるなら、
この炎で、もう一度だけ自分の意思を確かめる。
――私は戻らない。
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