つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ

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第29章|夜の回廊、笑い声

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王宮の夜は、昼より静かなはずだった。
けれどリーシャには、夜のほうがずっと騒がしく感じられた。

燭台の火が揺れる音。
遠い巡回の足音。
扉の向こうでグラスが触れる微かな音。
――そして何より、“誰かの笑い声”が、昼よりはっきり届くから。

食事は別席になった。
公式には「政務」「警護」「体面」。
けれど実際は、もっと簡単な一文に集約される。

――王妃は、同じ卓にいない。

それだけで、王宮の空気が“夫婦の終わり”を勝手に語り始める。
語られるほど、リーシャは存在が薄くなる。薄くなるほど、心が削れる。

(だから私は、回廊を歩かない)

そう決めたのに、今日は歩かなくてはいけなかった。
夜の礼拝。王妃としての形式。
「欠けた」と囁かれる材料は、少しでも減らさなければならない。

「王妃陛下」

侍女長アグネスが低い声で言う。

「今夜は、短い動線で。無駄に立ち止まらないでください」

無駄に立ち止まる――それは噂の前では“立ち聞き”に変わる。
立ち聞きは罪になる。罪は物語になる。

リーシャは微笑を作った。

「分かっているわ」

白い手袋の指先を揃える。
揃えるほど心が固まる。固まるほど、泣かずにいられる。

護衛ロランが半歩前に立つ。
近すぎない距離。噂にならない距離。
近衛としての礼儀だけが、今夜のリーシャの呼吸を守っていた。

「王妃陛下、こちらへ」

ロランの声は低く、余計な温度がない。
温度がないのに、救いになる。
救いになることが怖い。救いは噂の燃料になるからだ。

回廊を進むと、遠くから香が混じった。
甘い香。
夜会の残り香――だが今日のそれは、妙に“人の温度”を帯びていた。

その温度に、リーシャの胸がざわつく。

(……声)

声がする。
小さい声。
そして、笑い声。

リーシャは足を止めそうになり、すぐに止めた。
止めたら負ける。
止めたら、意味を探してしまう。意味は毒だ。

けれど耳は勝手に拾ってしまった。

「……覚えているか? あの雪の日」

男の声。
短く、けれど棘がない。
その棘のなさが、胸に刺さる。

(陛下……?)

確信した瞬間、喉の奥が痛んだ。
国王の声だ。
リーシャに向ける短さとは違う。
命令の短さではない。疲れを隠す短さ。

続けて、柔らかな女の声が重なる。

「はい。陛下が転んで、私が笑われて……」

セレスの声。

笑い声がまた小さく弾けた。
その笑い声は、秘密ではない。
“内側の人間だけが共有する昔話”の笑い声だった。

リーシャの胸の奥が、静かに沈んでいく。

(私は……外側)

扉の向こうには、国王とセレスがいる。
別席の食卓。
別席の夜。
そして、別席の笑い声。

ロランが微かに首を振った。
「止まらないで」という合図。
護衛として正しい判断だ。止まれば噂になる。

リーシャは微笑を固定し、歩く。
歩く。歩く。
歩きながら、心だけが勝手に扉の向こうへ戻っていく。

「陛下、無理をなさらないで」

セレスの声が、少し低くなる。
心配の温度を持った声。

国王の返答は短い。
でも棘がない。

「……問題ない」

その言葉が、リーシャに向けられたことは一度もない。
リーシャに向けられるのは「勝手にするな」「慎め」「余計な噂を増やすな」。
命令の温度だけ。

扉の向こうで、セレスが軽く笑う。

「昔から、陛下はそうですもの」

昔から。
その歴史の中に、リーシャはいない。

国王が息を吐く音が聞こえた。
そして、続いた言葉が――リーシャの胸を切り裂いた。

「……お前だけだ。こういう話ができるのは」

お前だけ。
つまり、私ではない。

リーシャの視界が一瞬滲みかける。
滲ませない。
泣けば負ける。
ここで泣いたら、王宮は「傷ついた妃」を笑う。

白い手袋の指先を強く揃えた。
痛みで涙を止める。
痛みは味方だ。痛みがあるうちは、まだ立っていられる。

「王妃陛下」

アグネスが、息だけで言った。
声を出さない。声を出せば、ここが“場面”になる。

リーシャは微笑のまま頷く。
頷くしかない。
この城では、頷きが生存の技術だ。

礼拝堂へ向かう分岐に差し掛かった瞬間、別の影が現れた。
噂屋ヴィオラだ。
夜の王宮にいるのは不自然ではない。彼女は“情報の流れ”に紛れるのが上手い。

ヴィオラは扇の陰で、にこりともせず目だけ笑った。

「王妃様、夜は冷えますわ」

ただの挨拶に見える。
でも言葉の裏には、嗅ぎ取った興奮がある。

――聞いたわね。
――見たわね。

リーシャは微笑で返す。

「ええ。夜は冷えます」

それだけ。
“聞いていないふり”を徹底する。

ヴィオラは肩をすくめた。

「食卓も冷えるのでしょうね」

その一言で、空気がまた冷えた。
悪意ではない。ただの娯楽だ。
だからこそ残酷。

ロランが一歩、ヴィオラとリーシャの間に入る。
噂にならない距離で、噂を遮断する動き。

「王妃陛下、こちらへ」

リーシャは歩いた。
歩きながら、胸の奥で結論が形を持つのを感じた。

(私は妻じゃない)

そう思うと、痛みが少し楽になる。
楽になるのが怖い。
楽になるのは、何かが死んだ証拠だからだ。



礼拝が終わり、リーシャは私室へ戻る道を急いだ。
急いでも走らない。王妃は走れない。
走れば噂になる。息が乱れれば弱さになる。

回廊の端で、給仕長オスカーが侍女ミナに小声で何か言っているのが見えた。

「……今日も別席だ。陛下はセレス様と」

ミナが目を丸くする。

「じゃあ、王妃様は……」

「言うな。聞こえる」

言うな。
その言葉が、王宮の全てだった。

リーシャは通り過ぎる。
聞こえないふりをする。
ふりをするほど、心に刺さる。

扉の前で、サシャが影のように立っていた。
王の密偵。王の護衛。
陰謀ではない。ただの“王の安全装置”。

「王妃陛下。お戻りを」

声は低い。温度がない。
温度がないのが、逆に安心になる時がある。
温度は噂を呼ぶからだ。

リーシャは頷き、扉を閉めた。

部屋に戻った瞬間、暖炉の火の音だけが聞こえる。
温かいはずの音が、今日はやけに遠い。

アグネスが低く言った。

「……泣けば負けます」

リーシャは微笑を作った。

「泣かないわ」

言い切った瞬間、自分が泣けなくなっていることに気づいて、胸が痛む。
泣けないのは強さではない。
泣く場所を奪われただけだ。

リーシャは窓辺へ行き、白薔薇を見た。
美しい花。
美しいから、罪になる花。

そして胸の奥で、静かに決める。

(もう戻らない)

国王の隣ではない。
国王の食卓ではない。
国王の“お前だけ”の内側ではない。

「私は、自分の隣を選ぶ」

その言葉を口に出さず、心の中でだけ確かめる。
確かめた瞬間、もう一つの言葉が、自然に落ちた。

(どうぞ、お二人末長くお幸せに)

祝福の形をした離別宣言。
それはもう痛みではなく、決意だった。

そしてこの夜の笑い声が、
リーシャの未来を決定的に変えていく。
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