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第30章|届かない言葉
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王宮の朝は、言葉より先に“空気”で決まる。
今日の空気は、昨日より冷たい。
冷たい理由は簡単だ。噂が一段、確定したから。
――王の隣はセレス。
――王妃の隣は王弟。
――王妃は白い手袋。
誰も断定していないのに、誰もが断定している。
それが王宮の“真実”だった。
リーシャは自室で白い手袋の指先を揃え、朝食の盆を見下ろした。
食事は別席。
もうその事実にも痛みは生まれなくなってきた。痛みが薄いのが怖い。痛みが薄いのは、何かが死んだ証拠だから。
(期待しない)
そう言い聞かせて、スープの香りを一度だけ吸う。
温かい。
温かいのに、胸は冷えたままだった。
同じ頃、大食堂。
国王の長卓にはいつも通りの光が落ちる。銀の食器が並び、パンの香が立つ。
ただ一つ、いつもと違う。
王妃の席が空。
給仕長オスカーが侍女ミナに小声で言った。
「余計な顔をするな。今日は別席だ」
ミナが目を丸くする。
「でも、陛下……」
「言うな。聞こえる」
聞こえる。
聞こえるから噂になる。
噂になるから“真実”になる。
国王レオニスが入室する。
黒い礼装。硬い背筋。氷の瞳。
宰相グレゴールが半歩後ろ。
そして――セレスが隣。
金髪と黄金のドレス。柔らかな微笑。
幼馴染の距離が、今日も自然にそこにある。
レオニスは着席する。
本来なら向かいに王妃が座る。
しかし空席。
空席があると、国王は“王”に戻るのが早い。
人間の顔を作る余地がない。余地がないほど安全だと思ってしまう。
セレスがさりげなく言う。
「陛下、今朝は少しお召し上がりください。昨夜も眠れていないでしょう」
その言葉の温度が、レオニスの胸を小さく刺す。
“眠れていない”と気づいて言える相手。
リーシャには一度も言えなかった言葉。
レオニスは短く返す。
「……問題ない」
棘のない短さ。
その短さが、王妃への言葉と違うことを、周囲の“耳”はすぐ拾う。
宰相が穏やかに口を開く。
「陛下。王妃陛下の件は、別席で落ち着くでしょう。
世論も、体面も」
体面。
またその言葉。
レオニスはそれを盾にしたい。盾がないと、嫉妬が漏れるから。
(俺の妃なのに)
胸の奥で焼ける言葉を、言わない。
言えば王が人間になってしまう。人間になれば宰相に負ける。
レオニスは短く言う。
「……余計な噂は増やすな」
誰に言ったのか自分でも分からない。
宰相にか。自分にか。
あるいは――遠い別室の王妃にか。
セレスが微笑み、柔らかく頷く。
「はい、陛下」
その頷きが、また“絵”を完成させる。
午前の控えの間。
貴婦人たちは扇を揺らし、噂を“整える”。
侯爵夫人ベアトリス。
伯爵夫人ミレーユ。
子爵夫人カトリーヌ。
公爵夫人オリヴィア。
若い令嬢エヴァとリリアナ。
老女官マルタ。
そして噂屋ヴィオラ。
ベアトリスが一言で場を支配する。
「別席ですって。ほら、答え合わせが始まったわ」
ミレーユがすぐ尾ひれをつける。
「王妃様は“関わるな”と言われたそうよ。
でも王弟殿下とは同行ですって? まあ……」
カトリーヌが笑う。
「贅沢ね。王は沈黙、王弟は温度。
女の夢みたいじゃない?」
オリヴィアが上品に言う。
「夢は、いずれ代償になりますわ」
ヴィオラが、断定しない微笑で“まとめる”。
「王の隣=セレス様。
王妃の隣=王弟殿下。
白い手袋が、その印ですわ」
“印”。
その単語が出た瞬間、噂は真実の顔をし始める。
リリアナが頷く。
「セレス様こそ国母に相応しい。民にも人気ですもの」
マルタが低く言う。
「王妃は分を弁えるべきです。外から来た方は、外側に立つのが礼儀」
礼儀。
その言葉で、人を追い詰める。
リーシャは回廊を歩く。
必要最低限。目を合わせない。礼は最小限。
それでも王宮は、出会わせる。
角を曲がった先に、国王の気配があった。
黒い礼装。冷たい空気。
隣にはセレス。いつも通り自然に近い。
リーシャは礼をした。
完璧に。視線は上げない。
「陛下」
国王は短く頷くだけ。
言葉はない。
言葉がないことが、いちばん残酷だ。
レオニスの胸の内側では、言葉が渦を巻いている。
――言え。
――呼び止めろ。
――説明しろ。
でも言えない。
言えば王が人間になる。
人間になれば“弱点”になる。弱点は国を揺らす。
だから国王は、最も安全な形で吐き出す。
「……目立つな」
「余計な噂を増やすな」
命令だけ。
それは守りの形をして、ただの恐れだ。
リーシャの胸の奥で、冷たい笑いが走る。
(贅沢な男)
本命を傷つけながら、安心も手放さない。
嫉妬だけ燃やして、言葉は出さない。
セレスが柔らかく言う。
「王妃様、お身体を大切に。手袋、お似合いです」
リーシャは微笑で返す。
「ありがとうございます。セレス様も、陛下の隣がお似合いです」
そして、最後に落とす。
「どうぞお二人、末長くお幸せに」
その言葉は、噂の火に油を注ぐ。
けれど同時に、リーシャの心を守る線引きでもある。
レオニスの瞳が僅かに揺れる。
揺れるのに、言えない。
言葉にした瞬間、王が人間になってしまうから。
リーシャは踵を返して去る。
振り向かない。
振り向けば意味を探してしまう。意味は毒だ。
夕刻、王弟アドリアンが“同行”の名目でリーシャの側に現れる。
プラチナブロンドの髪、濃紺の軍服。距離は保つが、言葉はある。
「……噂は、固定され始めています」
リーシャは微笑のまま答える。
「固定されるなら、されればいいわ」
冷たい声。
冷たいほど、戻らない決意が固い。
アドリアンは一拍置いて言う。
「兄上は、あなたを気にしている。
でも言えない。――それが一番残酷です」
リーシャは首を横に振る。
「言えないなら、同じよ。
届かない言葉は、存在しないのと同じ」
“届かない言葉”
それがこの章の結論だった。
王宮は今日も、言葉をすり替える。
陰謀ではない。
ただ、人の弱さと悪意と好奇心で勝手に歪む。
そして歪んだまま、真実の顔をして歩き回る。
リーシャは白い手袋の指先を揃えた。
温度を持たない微笑を作る。
(私は、自分で守る)
届かない言葉に殺されないために。
次の章で待つ王太后の圧にも、噂にも、もう負けないために。
今日の空気は、昨日より冷たい。
冷たい理由は簡単だ。噂が一段、確定したから。
――王の隣はセレス。
――王妃の隣は王弟。
――王妃は白い手袋。
誰も断定していないのに、誰もが断定している。
それが王宮の“真実”だった。
リーシャは自室で白い手袋の指先を揃え、朝食の盆を見下ろした。
食事は別席。
もうその事実にも痛みは生まれなくなってきた。痛みが薄いのが怖い。痛みが薄いのは、何かが死んだ証拠だから。
(期待しない)
そう言い聞かせて、スープの香りを一度だけ吸う。
温かい。
温かいのに、胸は冷えたままだった。
同じ頃、大食堂。
国王の長卓にはいつも通りの光が落ちる。銀の食器が並び、パンの香が立つ。
ただ一つ、いつもと違う。
王妃の席が空。
給仕長オスカーが侍女ミナに小声で言った。
「余計な顔をするな。今日は別席だ」
ミナが目を丸くする。
「でも、陛下……」
「言うな。聞こえる」
聞こえる。
聞こえるから噂になる。
噂になるから“真実”になる。
国王レオニスが入室する。
黒い礼装。硬い背筋。氷の瞳。
宰相グレゴールが半歩後ろ。
そして――セレスが隣。
金髪と黄金のドレス。柔らかな微笑。
幼馴染の距離が、今日も自然にそこにある。
レオニスは着席する。
本来なら向かいに王妃が座る。
しかし空席。
空席があると、国王は“王”に戻るのが早い。
人間の顔を作る余地がない。余地がないほど安全だと思ってしまう。
セレスがさりげなく言う。
「陛下、今朝は少しお召し上がりください。昨夜も眠れていないでしょう」
その言葉の温度が、レオニスの胸を小さく刺す。
“眠れていない”と気づいて言える相手。
リーシャには一度も言えなかった言葉。
レオニスは短く返す。
「……問題ない」
棘のない短さ。
その短さが、王妃への言葉と違うことを、周囲の“耳”はすぐ拾う。
宰相が穏やかに口を開く。
「陛下。王妃陛下の件は、別席で落ち着くでしょう。
世論も、体面も」
体面。
またその言葉。
レオニスはそれを盾にしたい。盾がないと、嫉妬が漏れるから。
(俺の妃なのに)
胸の奥で焼ける言葉を、言わない。
言えば王が人間になってしまう。人間になれば宰相に負ける。
レオニスは短く言う。
「……余計な噂は増やすな」
誰に言ったのか自分でも分からない。
宰相にか。自分にか。
あるいは――遠い別室の王妃にか。
セレスが微笑み、柔らかく頷く。
「はい、陛下」
その頷きが、また“絵”を完成させる。
午前の控えの間。
貴婦人たちは扇を揺らし、噂を“整える”。
侯爵夫人ベアトリス。
伯爵夫人ミレーユ。
子爵夫人カトリーヌ。
公爵夫人オリヴィア。
若い令嬢エヴァとリリアナ。
老女官マルタ。
そして噂屋ヴィオラ。
ベアトリスが一言で場を支配する。
「別席ですって。ほら、答え合わせが始まったわ」
ミレーユがすぐ尾ひれをつける。
「王妃様は“関わるな”と言われたそうよ。
でも王弟殿下とは同行ですって? まあ……」
カトリーヌが笑う。
「贅沢ね。王は沈黙、王弟は温度。
女の夢みたいじゃない?」
オリヴィアが上品に言う。
「夢は、いずれ代償になりますわ」
ヴィオラが、断定しない微笑で“まとめる”。
「王の隣=セレス様。
王妃の隣=王弟殿下。
白い手袋が、その印ですわ」
“印”。
その単語が出た瞬間、噂は真実の顔をし始める。
リリアナが頷く。
「セレス様こそ国母に相応しい。民にも人気ですもの」
マルタが低く言う。
「王妃は分を弁えるべきです。外から来た方は、外側に立つのが礼儀」
礼儀。
その言葉で、人を追い詰める。
リーシャは回廊を歩く。
必要最低限。目を合わせない。礼は最小限。
それでも王宮は、出会わせる。
角を曲がった先に、国王の気配があった。
黒い礼装。冷たい空気。
隣にはセレス。いつも通り自然に近い。
リーシャは礼をした。
完璧に。視線は上げない。
「陛下」
国王は短く頷くだけ。
言葉はない。
言葉がないことが、いちばん残酷だ。
レオニスの胸の内側では、言葉が渦を巻いている。
――言え。
――呼び止めろ。
――説明しろ。
でも言えない。
言えば王が人間になる。
人間になれば“弱点”になる。弱点は国を揺らす。
だから国王は、最も安全な形で吐き出す。
「……目立つな」
「余計な噂を増やすな」
命令だけ。
それは守りの形をして、ただの恐れだ。
リーシャの胸の奥で、冷たい笑いが走る。
(贅沢な男)
本命を傷つけながら、安心も手放さない。
嫉妬だけ燃やして、言葉は出さない。
セレスが柔らかく言う。
「王妃様、お身体を大切に。手袋、お似合いです」
リーシャは微笑で返す。
「ありがとうございます。セレス様も、陛下の隣がお似合いです」
そして、最後に落とす。
「どうぞお二人、末長くお幸せに」
その言葉は、噂の火に油を注ぐ。
けれど同時に、リーシャの心を守る線引きでもある。
レオニスの瞳が僅かに揺れる。
揺れるのに、言えない。
言葉にした瞬間、王が人間になってしまうから。
リーシャは踵を返して去る。
振り向かない。
振り向けば意味を探してしまう。意味は毒だ。
夕刻、王弟アドリアンが“同行”の名目でリーシャの側に現れる。
プラチナブロンドの髪、濃紺の軍服。距離は保つが、言葉はある。
「……噂は、固定され始めています」
リーシャは微笑のまま答える。
「固定されるなら、されればいいわ」
冷たい声。
冷たいほど、戻らない決意が固い。
アドリアンは一拍置いて言う。
「兄上は、あなたを気にしている。
でも言えない。――それが一番残酷です」
リーシャは首を横に振る。
「言えないなら、同じよ。
届かない言葉は、存在しないのと同じ」
“届かない言葉”
それがこの章の結論だった。
王宮は今日も、言葉をすり替える。
陰謀ではない。
ただ、人の弱さと悪意と好奇心で勝手に歪む。
そして歪んだまま、真実の顔をして歩き回る。
リーシャは白い手袋の指先を揃えた。
温度を持たない微笑を作る。
(私は、自分で守る)
届かない言葉に殺されないために。
次の章で待つ王太后の圧にも、噂にも、もう負けないために。
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