つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ

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第31章|王太后の圧(「家族なら私の席はどこですか」)

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王宮の朝は、昨日の噂を“常識”に変える。
一晩あれば十分だった。

――王の隣はセレス。
――王妃の隣は王弟。
――白い手袋が、その印。

誰も断定していないのに、誰もが断定している。
その“常識”を、いちばん上手に使うのが王太后だった。

「王妃陛下。王太后陛下よりお召しです」

老女官マルタの声は丁寧だった。
丁寧な声ほど、拒否を許さない。

リーシャは白い手袋の指先を揃え、微笑を作った。

「承知しました」

回廊は最短の動線。護衛は増えたまま。
先頭にロラン、半歩後ろにアグネス。
王宮は王妃を守っているふりをして、逃げ道を塞ぐ。

(逃げない)

逃げれば“やましい妃”。
逃げなければ“強い妃”。
強い妃は守られない――それでも逃げない。逃げないことが王妃の形だ。

奥宮の扉は重く、開く音も重い。
中は香が濃い。白檀と蜜と、そして薔薇。
薔薇はこの城で愛ではなく“体面”の匂いだった。

王太后は玉座に近い椅子に座っていた。
白髪は結い上げられ、宝石は冷たく光る。
美しさではなく、力の姿。

その右後ろに――セレスが立っていた。

黄金の髪、黄金のドレス。
祈るように手を組み、柔らかな微笑。
まるで最初からこの部屋の一部だったような自然さ。

(また、隣)

リーシャは礼をする。深く、完璧に。
視線は上げない。上げれば“嫉妬の妃”にされる。
嫉妬は王宮でいちばん都合のいい罪だ。

「顔を上げなさい」

王太后の声は低く、よく通った。
怒鳴らない。怒鳴らない方が怖い。怒鳴らない者ほど壊すのが上手い。

リーシャはゆっくり顔を上げた。
王太后の視線が宝石みたいに冷たく、髪から手袋の先までなぞる。

「……噂は早いのね」

その一言で、室内の温度がさらに下がる。

「王妃が王弟と並んで歩く」
「白い手袋を外さない」
「食事は別席」
「王の隣は幼馴染」

王太后は扇を開き、穏やかな口調で言った。

「あなたは王妃よ。役目を果たしなさい」

役目。
正しい言葉。正しいから反論できない。正しいから苦しい。

リーシャは微笑を崩さず答える。

「承知しております。王妃として務めます」

王太后は扇の先で机を軽く叩いた。

「では問うわ。なぜ国王の隣に立たないの」

核心をいきなり刺す。
逃げ道を与えない。

リーシャの胸の奥がきゅっと縮む。
けれど今のリーシャは、“黙って耐えるだけ”では終わらないと決めている。
役目は果たす。だが心は差し出さない。
その線引きを、王太后の前で言葉にする必要がある。

リーシャは声の温度を消した。

「陛下のご都合を最優先にしております」

王太后が薄く笑う。

「都合?」

その瞬間、セレスが音を立てずに半歩前へ出た。
前へ出ることが許される距離。
“内側の人”の動き。

「王太后陛下。王妃様はお強い方です。
今は噂が敏感ですから、王妃様が前に出るほど――」

「噂?」王太后が遮る。「噂で国母が務まるなら苦労はしない」

セレスの微笑が、ほんの一瞬だけ止まる。
止めてすぐ戻すのが、彼女の強さだ。

王太后はリーシャに視線を戻す。

「あなたが前に出なさい。
あなたが国王の隣に立ちなさい。
それが王妃の役目よ」

リーシャは微笑を崩さない。
崩さない微笑は鎧だ。

(役目は果たす)

胸の内で確認する。
その上で、決定的な問いを出す。

リーシャはゆっくりと言った。

「……セレス様は“家族”なのですね」

王太后が目を細める。

「そうよ。幼い頃からこの宮で育った。陛下の妹分。内側の者です」

内側。
その単語が、王妃を外へ押し出す。

リーシャは微笑のまま、刃を整えるように言葉を選んだ。

「では、私も家族です」

室内の空気が止まる。
扇の揺れが止まり、香の匂いだけが濃くなる。

王太后は扇を閉じ、低く言った。

「妻は家族よ。だからこそ“分”を守りなさい」

分。
正論の形をした檻。

リーシャは頷かない。頷けば負ける。
微笑のまま、さらに一歩だけ踏み込んだ。

「家族なら――私の席はどこですか」

声は静かだった。
静かなほど、刃になる。

「隣に立てない家族がいるなら、それは家族ではなく飾りです」

誰も呼吸をしない。
王太后の目が鋭く光る。
セレスの微笑が、また一瞬だけ途切れる。

マルタが喉を鳴らし、古い慣例で押し潰すように言った。

「王妃陛下……お言葉が過ぎます。嫉妬は品位を落とします」

リーシャは視線を動かさず、淡々と言った。

「嫉妬ではありません。確認です。
――私が“家族”として扱われていない現実の」

その言葉で、王太后の扇が机を叩いた。

「十分だ」

低い声。
怒鳴らない怒り。
怒鳴らない方が恐ろしい。

「今夜の晩餐会で、あなたは国王の隣に立ちなさい。
わたくしの前で、王妃の席を示しなさい」

公開。
公開で示せ。
示せばセレスが並ぶ。
並べばリーシャが嫉妬とされる。
嫉妬とされれば、王宮が笑う。

詰んでいる。
詰んでいるからこそ、リーシャは微笑んだ。

「承知いたしました」

返事が短いほど、痛みが濃い。

王太后は満足げに頷く。

「よろしい。下がりなさい」

リーシャが礼をしようとした瞬間、セレスが柔らかく付け足した。

「王妃様、お一人で背負わないでくださいね」

慈悲の形をした声。
だから誰も咎めない。
だからこそ、いちばん刺さる。

リーシャは白い手袋の指先を揃え、ゆっくりセレスへ視線を向けた。

「……優しいのですね、セレス様」

声は穏やかだった。穏やかにするほど言葉は刃になる。

「けれど――優しいお声ほど、冷たい刃になりますのよ」

空気が凍った。

セレスの微笑がほんの一瞬だけ途切れ、すぐ戻る。
戻った微笑は硬い。
王太后の目が僅かに細まる。
マルタが口を閉じる。

リーシャは深く礼をした。
完璧に、美しく、王妃として最後まで崩れない角度で。

「失礼いたします」

扉を出ると、回廊の空気が少しだけ楽になる。
けれど楽になるのが怖い。
楽になるのは、心がもう“諦め”に慣れ始めている証拠だから。

ロランが半歩前、アグネスが半歩後ろ。
その配置が、檻にも盾にも見える。

アグネスが低く言った。

「王妃陛下……今夜、陛下の隣に立たされます」

リーシャは微笑を作った。

「役目は果たすわ」

そして胸の内で、確かに線を引く。

(でも、心は差し出さない)
(家族なら席を示せと言った)
(席が示されないなら、私は飾りをやめる)
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