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第32章|ロランの距離
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王太后の部屋を出た回廊は、香りが薄くて冷たかった。
薄い冷気が肺に刺さるのに、リーシャは息を乱さない。乱した瞬間、「動揺」が証拠になるからだ。
そして、リーシャは言ってしまった。
――セレスが家族なら、私も家族。
――家族なら、私の席はどこですか。
――隣に立てない家族がいるなら、それは家族ではなく飾りです。
正論は言えた。
でも正論は、王宮では勝てない。
勝つのは空気であり、噂であり、古い慣例だ。
「王妃陛下」
侍女長アグネスが低い声で言った。
「今夜の晩餐会は……王太后陛下のご意向です。
陛下の隣に立たされます」
立たされる。
その言い方がすでに答えだった。
リーシャは微笑を作り、短く答える。
「役目は果たすわ」
心は差し出さない、と胸の内で付け足す。
役目と心は別物だと、もう決めた。
先頭に護衛ロランが半歩前に立つ。
近すぎず遠すぎず。噂にならない距離。
ロランは今日も、余計な言葉を持たない。
持たないからこそ、リーシャは呼吸ができた。
回廊を曲がると、貴婦人たちの輪が見えた。
午前の茶会の名残のように、扇が揺れ、香が漂い、目だけが笑っている。
侯爵夫人ベアトリス。
伯爵夫人ミレーユ。
子爵夫人カトリーヌ。
公爵夫人オリヴィア。
令嬢エヴァとリリアナ。
そして噂屋ヴィオラが、いつものように“聞き役”の顔で輪の端にいる。
彼女たちは礼をする。
礼儀正しい。だから残酷だ。
「王妃陛下、ご機嫌麗しゅう」
ベアトリスの声は甘い。
甘いほど刺さる。
リーシャは微笑を崩さず返す。
「皆さまも、ご機嫌よう」
その瞬間、ベアトリスの扇が、わざと白い手袋を指した。
「今日もその手袋……お似合いですわ」
ミレーユがすぐ拾う。
「寒いですものね。王弟殿下もお優しい」
“優しい”が出た瞬間、噂は形を持つ。
カトリーヌが笑う。
「王妃様は贅沢ね。王弟殿下も護衛も味方にして」
贅沢。
またその言葉。
オリヴィアが上品に釘を刺すように言った。
「でも“距離”は大切ですわね。距離が、品位ですもの」
品位。
正論の衣を着た縄。
ヴィオラが、断定しない微笑で仕上げる。
「絵になりますわ。白い手袋、王弟殿下、護衛ロラン……」
その瞬間、リーシャは悟った。
今日の章の主役は“ロランの距離”だ。
ロランがどれだけ正しく距離を守っても、彼女たちは“絵”を作る。
(守るほど燃える)
陰謀ではない。
ただの悪趣味。
だからこそ止まらない。
リーシャは微笑を深くして、短く返す。
「距離は守っております。王妃として」
その返しが正しいほど、ベアトリスの目が細くなる。
「まあ、王妃陛下はお強い。
……でも強い方ほど、誰も守りませんのよ?」
守りませんのよ。
その一言が、今日の棘だった。
リーシャは答えない。
答えれば負ける。
答えないまま通り過ぎる。
ロランが半歩前で、静かに道を作った。
守る距離。噂にならない距離。
その距離の正しさが、リーシャを少しだけ救う。
午後、回廊の窓から冷たい風が入り込んだ。
カーテンが揺れ、リーシャの肩がほんの僅か震える。
ロランの手が反射で外套にかかった。
掛けてしまえば温かい。
掛けてしまえば噂が“形”になる。
ロランの指が外套を持ち上げかけ――
止まる。
止めたのは礼儀だ。
護衛が王妃に外套を掛ければ、“恋”に変換される。
ロランは悔しそうに口を結び、代わりに言った。
「……暖かい回廊へ移りましょう」
優しさを距離で渡す。
それが彼の精一杯。
リーシャは微笑のまま頷く。
「ええ。そうしましょう」
その瞬間、背後で小さな笑い声がした。
令嬢エヴァの笑い。
無邪気な笑いほど危険だ。
「ほら……護衛様、優しい。王妃様、良かったですね」
良かった。
その一言が、噂の燃料になる。
ミレーユが囁く。
「優しいのは殿下だけじゃないのね」
カトリーヌが扇で口元を隠し、楽しげに言う。
「王妃様、選び放題じゃない」
選び放題。
被害者が、加害者にすり替えられる瞬間。
リーシャの胸の奥が冷える。
怒りは出さない。怒りは負ける。
だから微笑のまま、歩幅だけを乱さない。
ロランの背中が、少しだけ硬くなった。
彼も聞こえている。
聞こえているのに、反応できない。
反応すれば、彼自身が噂になる。
(この人は、守るほど傷つく)
リーシャはそれを悟り、胸が痛む。
痛むほど、言葉を削る。
「……ありがとう、ロラン」
小さな声。
小さすぎて、噂にできない程度の声。
ロランは一拍置いて答える。
「当然でございます」
当然。
その二文字が、リーシャの胸をさらに痛ませる。
当然なら、国王も当然守ってくれればいいのに――
でもその考えは毒だ。期待は毒だ。
夕刻、執務棟の近くで、国王レオニスが目撃する。
護衛ロランが、王妃と“噂にならない距離”で歩いているだけ。
ただそれだけ。
それなのに、国王の胸は焼ける。
(俺の妃なのに)
言葉にしない。
言葉にした瞬間、王が人間になってしまう。
人間になれば、世論が嗅ぎ取る。宰相が嗅ぎ取る。王太后が利用する。
だから国王は、最も安全な形で吐き出す。
「……ロラン」
ロランが即座に跪く。
「陛下」
国王の目が冷たい。
冷たいほど、嫉妬が混じる。
「必要以上に近づくな」
命令。
守りの顔をした嫉妬。
ロランは短く答えた。
「承知しました」
リーシャは礼をする。視線は上げない。
上げれば、また意味を探してしまうから。
「陛下」
国王はリーシャを見ない。
見ないまま続ける。
「噂を増やすな」
噂。
噂を増やしているのは誰だ。
でもリーシャは言わない。言えば燃える。
セレスが国王の袖を軽く掴む。
止める権利を持った距離。
「陛下、ここは……」
その一言で国王の足が止まる。
止まるのに、リーシャへは来ない。
来ないことが答えになる。
リーシャは胸の内でだけ言った。
(贅沢な男)
本命を傷つけながら、安心も手放さない。
嫉妬だけ燃やして、言葉は出さない。
リーシャは微笑を崩さず、深く礼をした。
「失礼いたします」
踵を返す。
振り向かない。
振り向けばまた期待が生きるから。
夜、アグネスが低く言った。
「王妃陛下。今夜の晩餐会では、陛下の隣に」
リーシャは微笑を作った。
「役目は果たすわ」
そして心の中で確かに線を引く。
(心は差し出さない)
ロランが半歩前に立つ。
噂にならない距離で、今日も守る。
守るほど燃える。
燃えるほど、リーシャの決意は硬くなる。
この章で完成したのは、ひとつの残酷な常識だった。
――ロランが守るほど噂が増える。
――国王は嫉妬するほど冷たくなる。
――セレスは止めるほど隣に固定される。
――王妃は、泣けないまま強くなる。
薄い冷気が肺に刺さるのに、リーシャは息を乱さない。乱した瞬間、「動揺」が証拠になるからだ。
そして、リーシャは言ってしまった。
――セレスが家族なら、私も家族。
――家族なら、私の席はどこですか。
――隣に立てない家族がいるなら、それは家族ではなく飾りです。
正論は言えた。
でも正論は、王宮では勝てない。
勝つのは空気であり、噂であり、古い慣例だ。
「王妃陛下」
侍女長アグネスが低い声で言った。
「今夜の晩餐会は……王太后陛下のご意向です。
陛下の隣に立たされます」
立たされる。
その言い方がすでに答えだった。
リーシャは微笑を作り、短く答える。
「役目は果たすわ」
心は差し出さない、と胸の内で付け足す。
役目と心は別物だと、もう決めた。
先頭に護衛ロランが半歩前に立つ。
近すぎず遠すぎず。噂にならない距離。
ロランは今日も、余計な言葉を持たない。
持たないからこそ、リーシャは呼吸ができた。
回廊を曲がると、貴婦人たちの輪が見えた。
午前の茶会の名残のように、扇が揺れ、香が漂い、目だけが笑っている。
侯爵夫人ベアトリス。
伯爵夫人ミレーユ。
子爵夫人カトリーヌ。
公爵夫人オリヴィア。
令嬢エヴァとリリアナ。
そして噂屋ヴィオラが、いつものように“聞き役”の顔で輪の端にいる。
彼女たちは礼をする。
礼儀正しい。だから残酷だ。
「王妃陛下、ご機嫌麗しゅう」
ベアトリスの声は甘い。
甘いほど刺さる。
リーシャは微笑を崩さず返す。
「皆さまも、ご機嫌よう」
その瞬間、ベアトリスの扇が、わざと白い手袋を指した。
「今日もその手袋……お似合いですわ」
ミレーユがすぐ拾う。
「寒いですものね。王弟殿下もお優しい」
“優しい”が出た瞬間、噂は形を持つ。
カトリーヌが笑う。
「王妃様は贅沢ね。王弟殿下も護衛も味方にして」
贅沢。
またその言葉。
オリヴィアが上品に釘を刺すように言った。
「でも“距離”は大切ですわね。距離が、品位ですもの」
品位。
正論の衣を着た縄。
ヴィオラが、断定しない微笑で仕上げる。
「絵になりますわ。白い手袋、王弟殿下、護衛ロラン……」
その瞬間、リーシャは悟った。
今日の章の主役は“ロランの距離”だ。
ロランがどれだけ正しく距離を守っても、彼女たちは“絵”を作る。
(守るほど燃える)
陰謀ではない。
ただの悪趣味。
だからこそ止まらない。
リーシャは微笑を深くして、短く返す。
「距離は守っております。王妃として」
その返しが正しいほど、ベアトリスの目が細くなる。
「まあ、王妃陛下はお強い。
……でも強い方ほど、誰も守りませんのよ?」
守りませんのよ。
その一言が、今日の棘だった。
リーシャは答えない。
答えれば負ける。
答えないまま通り過ぎる。
ロランが半歩前で、静かに道を作った。
守る距離。噂にならない距離。
その距離の正しさが、リーシャを少しだけ救う。
午後、回廊の窓から冷たい風が入り込んだ。
カーテンが揺れ、リーシャの肩がほんの僅か震える。
ロランの手が反射で外套にかかった。
掛けてしまえば温かい。
掛けてしまえば噂が“形”になる。
ロランの指が外套を持ち上げかけ――
止まる。
止めたのは礼儀だ。
護衛が王妃に外套を掛ければ、“恋”に変換される。
ロランは悔しそうに口を結び、代わりに言った。
「……暖かい回廊へ移りましょう」
優しさを距離で渡す。
それが彼の精一杯。
リーシャは微笑のまま頷く。
「ええ。そうしましょう」
その瞬間、背後で小さな笑い声がした。
令嬢エヴァの笑い。
無邪気な笑いほど危険だ。
「ほら……護衛様、優しい。王妃様、良かったですね」
良かった。
その一言が、噂の燃料になる。
ミレーユが囁く。
「優しいのは殿下だけじゃないのね」
カトリーヌが扇で口元を隠し、楽しげに言う。
「王妃様、選び放題じゃない」
選び放題。
被害者が、加害者にすり替えられる瞬間。
リーシャの胸の奥が冷える。
怒りは出さない。怒りは負ける。
だから微笑のまま、歩幅だけを乱さない。
ロランの背中が、少しだけ硬くなった。
彼も聞こえている。
聞こえているのに、反応できない。
反応すれば、彼自身が噂になる。
(この人は、守るほど傷つく)
リーシャはそれを悟り、胸が痛む。
痛むほど、言葉を削る。
「……ありがとう、ロラン」
小さな声。
小さすぎて、噂にできない程度の声。
ロランは一拍置いて答える。
「当然でございます」
当然。
その二文字が、リーシャの胸をさらに痛ませる。
当然なら、国王も当然守ってくれればいいのに――
でもその考えは毒だ。期待は毒だ。
夕刻、執務棟の近くで、国王レオニスが目撃する。
護衛ロランが、王妃と“噂にならない距離”で歩いているだけ。
ただそれだけ。
それなのに、国王の胸は焼ける。
(俺の妃なのに)
言葉にしない。
言葉にした瞬間、王が人間になってしまう。
人間になれば、世論が嗅ぎ取る。宰相が嗅ぎ取る。王太后が利用する。
だから国王は、最も安全な形で吐き出す。
「……ロラン」
ロランが即座に跪く。
「陛下」
国王の目が冷たい。
冷たいほど、嫉妬が混じる。
「必要以上に近づくな」
命令。
守りの顔をした嫉妬。
ロランは短く答えた。
「承知しました」
リーシャは礼をする。視線は上げない。
上げれば、また意味を探してしまうから。
「陛下」
国王はリーシャを見ない。
見ないまま続ける。
「噂を増やすな」
噂。
噂を増やしているのは誰だ。
でもリーシャは言わない。言えば燃える。
セレスが国王の袖を軽く掴む。
止める権利を持った距離。
「陛下、ここは……」
その一言で国王の足が止まる。
止まるのに、リーシャへは来ない。
来ないことが答えになる。
リーシャは胸の内でだけ言った。
(贅沢な男)
本命を傷つけながら、安心も手放さない。
嫉妬だけ燃やして、言葉は出さない。
リーシャは微笑を崩さず、深く礼をした。
「失礼いたします」
踵を返す。
振り向かない。
振り向けばまた期待が生きるから。
夜、アグネスが低く言った。
「王妃陛下。今夜の晩餐会では、陛下の隣に」
リーシャは微笑を作った。
「役目は果たすわ」
そして心の中で確かに線を引く。
(心は差し出さない)
ロランが半歩前に立つ。
噂にならない距離で、今日も守る。
守るほど燃える。
燃えるほど、リーシャの決意は硬くなる。
この章で完成したのは、ひとつの残酷な常識だった。
――ロランが守るほど噂が増える。
――国王は嫉妬するほど冷たくなる。
――セレスは止めるほど隣に固定される。
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