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第34章|公務の同行が“当然”になる
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王宮の朝は、噂を“慣例”に変える。
昨日まで「あり得ない」と囁かれていたことが、今日には「そういうもの」として受け入れられる。
慣れは残酷だ。慣れた瞬間、人は痛みを見なくなる。
――王妃の公務に、王弟が同行する。
その光景が、王宮で“当然”になり始めていた。
リーシャは鏡台の前でプラチナブロンドの髪をゆるく編み込み、白い手袋の指先を揃えた。
手袋はもう燃料だ。燃料でも外せない。外せば体調を崩し、崩せば「弱い妃」になる。
弱い妃は、噂に食われる。
(なら、燃えるまま歩く)
歩くのは怖い。
でも止まる方がもっと怖い。止まれば、透明にされるから。
「王妃陛下」
侍女長アグネスが低い声で告げる。
「本日は、王都外郭の孤児院への視察、続いて施し倉の確認。
午後は貴族院向けの短いご挨拶――王太后陛下の意向です」
王太后の意向。
その言葉が出ると、王妃の選択肢は消える。
リーシャは微笑を作った。
「承知しました」
扉の外に、護衛ロランが待っている。
半歩前。近すぎず遠すぎず。噂にならない距離。
その距離を守ることが、今は命だ。
ロランが礼をする。
「王妃陛下、出発の準備が整いました」
そしてもう一つ、別の影。
王弟アドリアンが、少し離れた位置に立っていた。
濃紺の軍服に金の飾り。プラチナブロンドの髪が朝の光を拾う。
近づかない。触れない。
けれど“同行する”という事実だけは、はっきりとそこにある。
「王妃陛下」
アドリアンの声は低い。
「本日は“王家としての視察”です。
私は、護衛と同じ距離で同行します」
言葉を選ぶ。
噂に形を与えないための言葉。
リーシャは頷いた。
「ええ。……共に行きましょう」
その一言が、王宮では爆薬になる。
けれどリーシャはもう、爆薬を恐れない。
王都外郭。
冬の空気は王宮より粗く、だからこそ息がしやすい。
石畳の冷たさ、薪の匂い、子どもたちの声。
“生きている音”がある。
孤児院の門の前に、迎えの修道女マリアンヌが立っていた。
背後に、町の代表ヨハン、薬師の老人ベルク、そして数人の母親たち。
彼らの目は警戒と期待が混じっている。
王妃が来る。
王弟も来る。
王ではない。王妃と王弟。
その並びが、民にさえ“物語”を作らせる。
「王妃陛下……!」
マリアンヌが膝をつき、深く礼をした。
リーシャは微笑んで手を差し伸べる。
「顔を上げて。今日は、子どもたちの様子を見に来ました」
声の温度を保つ。
保つほど、自分の心が削れる。
けれど、ここでは温度が必要だった。
子どもたちが恐る恐る顔を出す。
小さな手が、毛布の端を握っている。
その瞬間、リーシャの胸がぎゅっと締まった。
(この子たちのために、私は立つ)
王の隣ではなく。
噂の中心でもなく。
目の前の命のために。
アドリアンは少し後ろで、ただ立っている。
余計なことはしない。
けれど子どもが転びかけた瞬間だけ、反射で一歩前に出て支えた。
支え方がうまい。抱きしめない。噂にならない距離で止める。
ロランがその動きを見て、わずかに頷く。
護衛同士の無言の合図。
その光景を、町の代表ヨハンが見てしまった。
そして“解釈”してしまう。
「王弟殿下は……王妃様をお守りになっているのですね」
善意の言葉。
でも善意は噂の種になる。
ベルク老人が息を吐く。
「陛下は来ないのか」
その一言で空気が変わる。
民の口から出る「陛下は来ない」は、貴族の噂より重い。
リーシャは微笑を崩さず、短く言った。
「国王陛下はご政務です。王宮は役割で動きます」
正しい。
正しいほど寂しい。
アドリアンが、リーシャの声の温度が落ちたのに気づく。
でも何も言わない。
言えば近くなる。近くなれば燃える。
燃えて困るのはリーシャだ。
その頃、王宮。
大食堂の長卓には国王レオニスがいた。
黒い礼装、短い呼吸。
隣にセレス。
半歩後ろに宰相グレゴール。
侍従長ルーファス、給仕長オスカー、女官長マルタが控える。
空席は今日もそこにある。
王妃の席。
オスカーが無意識にその席へ視線をやり、すぐ逸らした。
見たら「なぜ空いている」と問われる。問えば噂になる。
宰相が穏やかに報告する。
「王妃陛下は本日、孤児院視察へ。王弟殿下が同行です」
国王の指先が、ほんの僅か動いた。
焼けるものを隠す動き。
「……必要か」
短い。
短いほど、嫉妬が混じる。
宰相は即答しない。
即答しないことで、王の胸に火を足す。
「体面上は“王家の慈善”として最も美しい絵です。
王妃が一人だと、世論は弱さを見ます。王弟殿下が同行すれば――安心を見ます」
安心。
その言葉が、国王には刺さる。
(俺の妃に、俺の知らない安心が届く)
セレスが柔らかく言った。
「陛下。王妃様は強い方です。
王弟殿下の同行は、民のためにも……良いことです」
良いこと。
正しいこと。
その“正しさ”が、リーシャを遠ざける。
国王は短く言った。
「……余計な噂を増やすな」
言葉が命令に変わる。
命令は鎧。鎧は、嫉妬を隠す布だ。
ルーファスが小さく言う。
「陛下、午後の貴族院挨拶には王妃陛下も戻られる予定です」
国王の喉が動いた。
何か言いたい。
でも言えない。言葉にした瞬間、王が人間になってしまうから。
だから国王は、また鎧を選ぶ。
「……儀礼だけで十分だ」
儀礼だけ。
それが王妃の居場所をさらに狭める。
午後、貴族院の前室。
貴婦人たちはもう噂を完成させていた。
侯爵夫人ベアトリス、伯爵夫人ミレーユ、子爵夫人カトリーヌ、公爵夫人オリヴィア。
令嬢エヴァとリリアナ。
噂屋ヴィオラが扇の陰で目を笑わせる。
「王妃様、今日も王弟殿下とご一緒ですって」
ベアトリスが甘く囁く。
「もう“当然”になりそうね」
ミレーユが嬉しそうに言い換える。
「“王妃は王弟派”――そういう絵」
カトリーヌが笑う。
「国王陛下はセレス様。王妃様は王弟殿下。
平和じゃない?」
平和。
その言葉が一番残酷だ。
誰かの心が死んでいるのに、平和と呼ぶ。
オリヴィアが上品に言う。
「言葉より距離。距離より絵。
王宮は絵で回りますもの」
ヴィオラが仕上げる。
「今日の孤児院視察、民が見たのは“王妃と王弟の並び”です。
民が見た絵は、貴族院より強い真実になりますわ」
陰謀ではない。
ただの観察と娯楽。
だから止まらない。
リーシャが貴族院の前室へ入ると、扇が一斉に揺れた。
微笑が並ぶ。微笑ほど残酷なものはない。
リーシャは微笑を作り、礼をする。
視線は上げない。
上げれば、目が“何か”を探してしまう。
アドリアンは少し後ろで距離を守る。
守るほど燃える。
燃えるほど距離を守る。
国王レオニスが現れる。
隣にセレス。
その“自然さ”が、まるで王妃の席が最初から無かったことの証明みたいだった。
リーシャは礼をした。
「陛下」
国王は頷くだけ。
言葉はない。
言葉はセレスにだけ残る。
セレスが国王の袖を整える。
国王は拒まない。
リーシャの胸が静かに冷える。
痛みより先に、理解が来た。
(私は、もう妻じゃない)
そして“妻じゃない”ことが、今日の公務を回す鍵になっているのが恐ろしい。
王太后が現れ、場の空気がさらに硬くなる。
老女官マルタが背後で頷き、誰もが姿勢を正す。
王太后はリーシャに言った。
「王妃。役目を果たしなさい」
リーシャは微笑で答える。
「承知しております」
役目は果たす。
心は差し出さない。
その線引きが、今日もリーシャを立たせる。
夜、リーシャは私室へ戻った。
回廊を歩く距離は最短。
食事は別室。
言葉は最小限。
それなのに、噂は増える。
むしろ減らした分だけ、“想像”が増える。
アグネスが低く言った。
「……王妃陛下。今日の公務、噂がさらに広がるでしょう」
リーシャは微笑んだ。
「広がればいいわ」
その声の冷たさに、自分で驚く。
冷たいほど、戻らない決意が硬い。
扉が控えめに叩かれた。
ロランが報告する。
「王妃陛下。護衛の配置は完了しました」
リーシャは頷く。
「ありがとう」
短い礼。
温度を混ぜない礼。
その後ろで、アドリアンが一拍置いて言った。
「今日の並びは“絵”になります。
ですが、絵にされる前に――あなたが息をしてください」
息。
息をすることが、どれほど難しいか。
国王の沈黙の中では。
リーシャは窓の外の白薔薇を見た。
美しい花。
美しいから、罪になる花。
そして胸の内で、静かに繰り返す。
昨日まで「あり得ない」と囁かれていたことが、今日には「そういうもの」として受け入れられる。
慣れは残酷だ。慣れた瞬間、人は痛みを見なくなる。
――王妃の公務に、王弟が同行する。
その光景が、王宮で“当然”になり始めていた。
リーシャは鏡台の前でプラチナブロンドの髪をゆるく編み込み、白い手袋の指先を揃えた。
手袋はもう燃料だ。燃料でも外せない。外せば体調を崩し、崩せば「弱い妃」になる。
弱い妃は、噂に食われる。
(なら、燃えるまま歩く)
歩くのは怖い。
でも止まる方がもっと怖い。止まれば、透明にされるから。
「王妃陛下」
侍女長アグネスが低い声で告げる。
「本日は、王都外郭の孤児院への視察、続いて施し倉の確認。
午後は貴族院向けの短いご挨拶――王太后陛下の意向です」
王太后の意向。
その言葉が出ると、王妃の選択肢は消える。
リーシャは微笑を作った。
「承知しました」
扉の外に、護衛ロランが待っている。
半歩前。近すぎず遠すぎず。噂にならない距離。
その距離を守ることが、今は命だ。
ロランが礼をする。
「王妃陛下、出発の準備が整いました」
そしてもう一つ、別の影。
王弟アドリアンが、少し離れた位置に立っていた。
濃紺の軍服に金の飾り。プラチナブロンドの髪が朝の光を拾う。
近づかない。触れない。
けれど“同行する”という事実だけは、はっきりとそこにある。
「王妃陛下」
アドリアンの声は低い。
「本日は“王家としての視察”です。
私は、護衛と同じ距離で同行します」
言葉を選ぶ。
噂に形を与えないための言葉。
リーシャは頷いた。
「ええ。……共に行きましょう」
その一言が、王宮では爆薬になる。
けれどリーシャはもう、爆薬を恐れない。
王都外郭。
冬の空気は王宮より粗く、だからこそ息がしやすい。
石畳の冷たさ、薪の匂い、子どもたちの声。
“生きている音”がある。
孤児院の門の前に、迎えの修道女マリアンヌが立っていた。
背後に、町の代表ヨハン、薬師の老人ベルク、そして数人の母親たち。
彼らの目は警戒と期待が混じっている。
王妃が来る。
王弟も来る。
王ではない。王妃と王弟。
その並びが、民にさえ“物語”を作らせる。
「王妃陛下……!」
マリアンヌが膝をつき、深く礼をした。
リーシャは微笑んで手を差し伸べる。
「顔を上げて。今日は、子どもたちの様子を見に来ました」
声の温度を保つ。
保つほど、自分の心が削れる。
けれど、ここでは温度が必要だった。
子どもたちが恐る恐る顔を出す。
小さな手が、毛布の端を握っている。
その瞬間、リーシャの胸がぎゅっと締まった。
(この子たちのために、私は立つ)
王の隣ではなく。
噂の中心でもなく。
目の前の命のために。
アドリアンは少し後ろで、ただ立っている。
余計なことはしない。
けれど子どもが転びかけた瞬間だけ、反射で一歩前に出て支えた。
支え方がうまい。抱きしめない。噂にならない距離で止める。
ロランがその動きを見て、わずかに頷く。
護衛同士の無言の合図。
その光景を、町の代表ヨハンが見てしまった。
そして“解釈”してしまう。
「王弟殿下は……王妃様をお守りになっているのですね」
善意の言葉。
でも善意は噂の種になる。
ベルク老人が息を吐く。
「陛下は来ないのか」
その一言で空気が変わる。
民の口から出る「陛下は来ない」は、貴族の噂より重い。
リーシャは微笑を崩さず、短く言った。
「国王陛下はご政務です。王宮は役割で動きます」
正しい。
正しいほど寂しい。
アドリアンが、リーシャの声の温度が落ちたのに気づく。
でも何も言わない。
言えば近くなる。近くなれば燃える。
燃えて困るのはリーシャだ。
その頃、王宮。
大食堂の長卓には国王レオニスがいた。
黒い礼装、短い呼吸。
隣にセレス。
半歩後ろに宰相グレゴール。
侍従長ルーファス、給仕長オスカー、女官長マルタが控える。
空席は今日もそこにある。
王妃の席。
オスカーが無意識にその席へ視線をやり、すぐ逸らした。
見たら「なぜ空いている」と問われる。問えば噂になる。
宰相が穏やかに報告する。
「王妃陛下は本日、孤児院視察へ。王弟殿下が同行です」
国王の指先が、ほんの僅か動いた。
焼けるものを隠す動き。
「……必要か」
短い。
短いほど、嫉妬が混じる。
宰相は即答しない。
即答しないことで、王の胸に火を足す。
「体面上は“王家の慈善”として最も美しい絵です。
王妃が一人だと、世論は弱さを見ます。王弟殿下が同行すれば――安心を見ます」
安心。
その言葉が、国王には刺さる。
(俺の妃に、俺の知らない安心が届く)
セレスが柔らかく言った。
「陛下。王妃様は強い方です。
王弟殿下の同行は、民のためにも……良いことです」
良いこと。
正しいこと。
その“正しさ”が、リーシャを遠ざける。
国王は短く言った。
「……余計な噂を増やすな」
言葉が命令に変わる。
命令は鎧。鎧は、嫉妬を隠す布だ。
ルーファスが小さく言う。
「陛下、午後の貴族院挨拶には王妃陛下も戻られる予定です」
国王の喉が動いた。
何か言いたい。
でも言えない。言葉にした瞬間、王が人間になってしまうから。
だから国王は、また鎧を選ぶ。
「……儀礼だけで十分だ」
儀礼だけ。
それが王妃の居場所をさらに狭める。
午後、貴族院の前室。
貴婦人たちはもう噂を完成させていた。
侯爵夫人ベアトリス、伯爵夫人ミレーユ、子爵夫人カトリーヌ、公爵夫人オリヴィア。
令嬢エヴァとリリアナ。
噂屋ヴィオラが扇の陰で目を笑わせる。
「王妃様、今日も王弟殿下とご一緒ですって」
ベアトリスが甘く囁く。
「もう“当然”になりそうね」
ミレーユが嬉しそうに言い換える。
「“王妃は王弟派”――そういう絵」
カトリーヌが笑う。
「国王陛下はセレス様。王妃様は王弟殿下。
平和じゃない?」
平和。
その言葉が一番残酷だ。
誰かの心が死んでいるのに、平和と呼ぶ。
オリヴィアが上品に言う。
「言葉より距離。距離より絵。
王宮は絵で回りますもの」
ヴィオラが仕上げる。
「今日の孤児院視察、民が見たのは“王妃と王弟の並び”です。
民が見た絵は、貴族院より強い真実になりますわ」
陰謀ではない。
ただの観察と娯楽。
だから止まらない。
リーシャが貴族院の前室へ入ると、扇が一斉に揺れた。
微笑が並ぶ。微笑ほど残酷なものはない。
リーシャは微笑を作り、礼をする。
視線は上げない。
上げれば、目が“何か”を探してしまう。
アドリアンは少し後ろで距離を守る。
守るほど燃える。
燃えるほど距離を守る。
国王レオニスが現れる。
隣にセレス。
その“自然さ”が、まるで王妃の席が最初から無かったことの証明みたいだった。
リーシャは礼をした。
「陛下」
国王は頷くだけ。
言葉はない。
言葉はセレスにだけ残る。
セレスが国王の袖を整える。
国王は拒まない。
リーシャの胸が静かに冷える。
痛みより先に、理解が来た。
(私は、もう妻じゃない)
そして“妻じゃない”ことが、今日の公務を回す鍵になっているのが恐ろしい。
王太后が現れ、場の空気がさらに硬くなる。
老女官マルタが背後で頷き、誰もが姿勢を正す。
王太后はリーシャに言った。
「王妃。役目を果たしなさい」
リーシャは微笑で答える。
「承知しております」
役目は果たす。
心は差し出さない。
その線引きが、今日もリーシャを立たせる。
夜、リーシャは私室へ戻った。
回廊を歩く距離は最短。
食事は別室。
言葉は最小限。
それなのに、噂は増える。
むしろ減らした分だけ、“想像”が増える。
アグネスが低く言った。
「……王妃陛下。今日の公務、噂がさらに広がるでしょう」
リーシャは微笑んだ。
「広がればいいわ」
その声の冷たさに、自分で驚く。
冷たいほど、戻らない決意が硬い。
扉が控えめに叩かれた。
ロランが報告する。
「王妃陛下。護衛の配置は完了しました」
リーシャは頷く。
「ありがとう」
短い礼。
温度を混ぜない礼。
その後ろで、アドリアンが一拍置いて言った。
「今日の並びは“絵”になります。
ですが、絵にされる前に――あなたが息をしてください」
息。
息をすることが、どれほど難しいか。
国王の沈黙の中では。
リーシャは窓の外の白薔薇を見た。
美しい花。
美しいから、罪になる花。
そして胸の内で、静かに繰り返す。
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