つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ

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第43章|国王の来訪(遅すぎる)

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公爵領の朝は、王都より音が多い。
鳥の声、風が木を揺らす音、厩の馬が鼻を鳴らす音。
音が多いほど、心は生き返る。
王宮の“静けさ”は、音を消して人を消す静けさだった。

リーシャは庭の白い霜を眺めながら、手袋を嵌めずに指先を動かしていた。
そして、初めて深く眠れた。
眠れたことが、まだ信じられない。
けれど指先は震えない。呼吸は浅くならない。

(ここでは、息ができる)

それだけで泣きそうになる。
でも涙はまだ出ない。
涙は王宮に置いてきた。

「姫様」

執事長ギルベルトが静かに近づいた。
“王妃陛下”ではなく“姫様”。
その呼び方が、胸の奥を温かくする。温かさが刃にならない世界。

「王都より使者が参りました。……国王陛下ご本人です」

その一言で、空気が一段冷えた。
冷えたのは外気ではない。
胸の奥で、昔の癖が息を止めようとする。

(また、あの沈黙が来る)

リーシャは息を吸い、吐いた。
ここでは息を止めない。
止めたら、また自分が小さくなる。

「……面会は、公的に」

自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。
公的に。
それは防壁だ。
心を守るための、礼儀の壁。

ギルベルトが深く礼をする。

「かしこまりました。謁見の間をご用意いたします。
公爵様も、同席なさると」

父が同席。
それでいい。
一対一は危険だ。意味を探してしまうから。



謁見の間は、王宮より小さく、暖かかった。
暖炉の火がはっきり鳴り、木の床が柔らかい。
この屋敷の豪奢さは、“人が暮らす”ためのものだ。
王宮の豪奢さは、“人を縛る”ためのものだった。

リーシャは正面の椅子に座り、背筋を伸ばした。
微笑は作らない。
作れば、また“王妃の仮面”が貼りつく。
ここでは仮面を必要最低限にする。

隣に父アルノー。
厳格な顔。けれど今日の厳格さは、娘を守るための硬さだ。

少し後ろにアグネス。
そして扉の近くに、アドリアン。
距離を保って立つ。触れない。
それでも“盾”としてそこにいる。

扉が開いた。

国王レオニスが入ってくる。
黒い礼装。硬い背筋。氷の瞳。
王宮の空気を、そのまま持ち込むような歩き方。

半歩後ろに宰相グレゴール。
さらに侍従長ルーファス。
王宮の“形式”が、ぞろりと入ってきた。

リーシャの胸が一度だけ痛む。
痛むのは、昔の癖が生きている証拠だ。
でも痛みは、ここでは主導権になれる。
痛みを知っているから、戻らない。

国王が礼をする。形式の礼。
公爵が形式の礼で返す。

「公爵アルノー。突然の来訪、失礼する」

声は短い。短いほど感情がない。
感情がないほど、王宮の鎧が分厚い。

公爵が静かに答える。

「国王陛下。遠路ご苦労。
――本日は、娘の静養のための場です」

静養。
その言葉が、リーシャを守る盾になる。

国王の視線がリーシャに落ちる。
冷たい目。
だがその底に、焼けた色があるのが分かってしまう。

(遅い)

遅いのに、今さら見せる焼けた色が腹立たしい。
見せるなら、王宮で見せればよかった。
言葉で見せればよかった。

リーシャは礼をした。
完璧に。
けれど視線は上げない。
目を合わせれば意味を探してしまう。意味は毒だ。

「陛下」

国王が一拍置いて言う。

「……戻れ」

たった二文字が、空気を震わせた。

戻れ。
命令。
命令の形をした願い。
願いに見えても、リーシャの胸は冷える。

国王は続ける。
言い方が、王宮の言い方だ。

「体面がある。
王妃が王都を離れたままでは、世論が荒れる」

世論。
体面。
またそれだ。
また“国のため”で、心を切る。

リーシャは静かに息を吸い、吐いた。
ここでは息を止めない。

そして、ゆっくり顔を上げた。
初めて国王の目を正面から見る。
見るのは期待のためではない。終わらせるためだ。

「陛下」

声は穏やかだった。
穏やかにするほど、刃になる。

「体面のために私を戻すのですか」

国王の喉が動いた。
言葉が出かけて出ない。
言葉にした瞬間、王が人間になってしまうから。

宰相が柔らかく割り込む。

「王妃陛下。国のために――」

父アルノーが、低く遮った。

「宰相。今日は娘の前だ。
国の話をするなら、国王の口からなさい」

その一言が、宰相を黙らせる。
公爵の“家族の盾”は、王宮の礼儀より強い。

国王は、視線を外さずに言う。

「……お前は王妃だ」

お前。
その呼び方が、リーシャを一瞬だけ古い檻に戻しかけた。

リーシャは微笑を作らず、淡々と言った。

「ええ。王妃でした」

過去形。
その一語が、国王の胸に刺さるのが見えた。

国王の眉間が僅かに寄る。
怒りではない。焦りだ。

「……まだだ」

リーシャは首を横に振る。
ゆっくり。
王妃の所作のまま、でも王妃の心ではない動き。

「私はもう戻りません」

その言葉が、部屋の中で落ちた。
落ちた瞬間、暖炉の火の音が大きく聞こえた。
王宮では聞こえなかった音。
ここでは音が、リーシャの味方だ。

国王の視線が揺れる。
揺れは嫉妬ではない。後悔だ。

「……理由を言え」

リーシャは息を吐いた。
理由は山ほどある。
でも一つで十分だ。

「言葉が、ありませんでした」

国王が微かに眉を動かす。

リーシャは続ける。
声の温度は上げない。上げたら泣く。泣けば負ける。

「命令はありました。静けさもありました。
でも、私の名前を呼ぶ声はありませんでした。
私の手を取る意志もありませんでした」

国王の喉が鳴る。
反論したい。
でも反論すれば、王宮の言い訳になる。

リーシャは最後に、刺す。

「“俺の妃なのに”と思うのなら、
そう言えるだけの扱いをしてください」

国王の指先が僅かに動く。
触れたいのか、止めたいのか。
でも動けない。

アドリアンが一歩も動かないまま、ただそこに立つ。
その存在が、リーシャを守る壁になる。

国王の視線が、アドリアンに一瞬だけ移る。
焼ける色。嫉妬。
だがもう遅い。嫉妬は救いにならない。

国王は最後に、声を落とした。

「……セレスは、家族だ」

リーシャの胸が冷える。
家族。
その言葉が、王宮の免罪符だった。

リーシャは穏やかに返した。

「なら、私も家族でしたね」

国王が言葉を失う。
失うのが遅い。

リーシャは最後に、決定打を落とす。

「家族なら、私の席はどこでしたか」

沈黙が落ちる。
沈黙はいつも国王の勝ちだった。
でも今日は、国王の負けだった。

父アルノーが立ち上がり、形式の礼で締める。

「国王陛下。
娘の静養は続けます。ここは公爵領。
娘の意思を優先します」

国王は何も言えなかった。
言えないのではない。言うべき言葉が、もう残っていない。

リーシャは礼を尽くした。
礼儀だけで十分だ。心は渡さない。

「本日は遠路ご苦労さまでした、陛下」

そして小さく、区切りの言葉を胸の内で繰り返す。

(どうぞ、お幸せに)

国王が去る。
扉が閉まる音が、王宮の扉とは違う音に聞こえた。
ここでは扉は檻ではない。
境界線だ。

リーシャは息を吸い、吐いた。
深く吸える。深く吐ける。

アドリアンが、距離を保ったまま低く言った。

「……よく言えました」

リーシャは微笑んだ。
初めて、鎧じゃない微笑が生まれた。

「言えたのは……ここが王宮じゃないから」

そう言って、リーシャは窓の外の木々を見た。
風が揺らす枝の音が、温かい。
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