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第44章|セレスの“自爆”
しおりを挟む王宮は、人が落ちるときほど静かに笑う。
大声では笑わない。
扇の陰で、目だけで笑う。
そして“正しさ”の顔をして、手のひらを返す。
リーシャが王都を離れてから、王宮の絵は一度完成した。
――王の隣はセレス。
――王妃の席は空席。
完成した絵は最初は安定をもたらす。だが安定はすぐ飽きられる。飽きられた絵は、別の絵に塗り替えられる。
その塗り替えが始まったのは、皮肉にもセレスの口からだった。
晩餐会の広間。
白薔薇ではなく、深い赤の花が飾られていた。赤は祝祭の色、熱の色。
けれど王宮の赤は血の色に近い。誰かの立場が落ちる夜に、よく似合う。
国王レオニスは中央にいた。
黒い礼装、硬い背筋、氷の瞳。
その半歩後ろに宰相グレゴール。
侍従長ルーファスが席次を確認し、老女官マルタが王太后の気配を整える。
給仕長オスカーが合図を送り、若い侍女ミナが皿を運ぶ。
王宮の夜は、沢山の手で作られる。
そして、沢山の耳で食べられる。
侯爵夫人ベアトリス。
伯爵夫人ミレーユ。
子爵夫人カトリーヌ。
公爵夫人オリヴィア。
令嬢エヴァとリリアナ。
噂屋ヴィオラが扇の陰で、今夜の“結末”を待っている。
王太后が入室した。
香が一段濃くなる。空気が硬くなる。
皆が背筋を伸ばす。背筋を伸ばすほど、心は冷たい。
王太后の視線は国王を見、次にセレスを見、そして空席――王妃の席を見た。
その視線の順番が、残酷な事実を示す。
「王妃は、戻らないのね」
王太后の声は低い。低いほど逃げ道がない。
宰相が穏やかに答える。
「静養は続いております。国の体面としては……」
体面。
またその言葉。
王宮は体面で人を殺す。
王太后が扇を閉じ、淡々と言った。
「体面は絵で守るものではない。
――王妃の席が空いたままでは、国が軽く見られる」
その一言で、広間の耳が一斉に動いた。
空席が問題になる。空席は次の椅子を呼ぶ。
ベアトリスが扇の陰で囁く。
「さあ、来るわね」
ミレーユが息を弾ませる。
「誰が座るのかしら」
カトリーヌが笑う。
「もう決まってるじゃない」
“決まってる”。
そう言われた瞬間、人は自分から落ちていく。
王太后が国王を見た。
「国王。整理を」
整理。
情ではない。政治だ。
国王は喉を動かす。
言いたい言葉があるのに出ない。
言葉にした瞬間、王が人間になってしまうから。
セレスが小さく一歩前に出た。
出てしまった。
出た瞬間、誰もが見る。
彼女は“席”に向かっている。
セレスは慈悲の聖女の声を作った。
「王太后陛下……陛下はお辛いのです。
王妃様はお強い方ですし、静養が必要でした。
だから――」
だから。
その言葉は正しい顔をしている。
正しい顔のまま、結論を運ぶ。
そしてセレスは、ついに口を滑らせた。
「王妃様が戻らないなら……陛下の隣は、私が支えます」
支えます。
美しい言葉。
美しい言葉ほど、剥がれたときに醜い。
広間が凍った。
扇の揺れが止まる。
グラスの音も止まる。
笑い声すら出ない。
次の瞬間、ヴィオラの目が笑った。
“言った”。
誰も言わせていない。
自分で言った。
ベアトリスがゆっくり扇を閉じる。
閉じる音が、手のひら返しの音だった。
「まあ……」
声は小さい。小さいほど残酷だ。
「セレス様って、そんなおつもりだったのね」
ミレーユが嬉しそうに言い換える。
「慈悲の聖女じゃなくて――席を狙う女」
カトリーヌが笑う。
笑いが軽いほど、殺す力が強い。
「“私が支えます”って。
王妃様の席が空いた瞬間に、ね」
オリヴィアが上品に、とどめを刺す。
「セレス様。支えるのは結構です。
でも“隣”は支える席ではありませんわ。――選ばれる席です」
その“選ばれる”が、セレスの喉を締めた。
今まで彼女は“当然”のように近かった。
当然は、選ばれるとは違う。
違うから、今夜の言葉は罪になった。
セレスの微笑が揺れる。
揺れて戻そうとする。戻すほど揺れが目立つ。
「違います……私はただ、陛下のために……」
陛下のため。
またその免罪符。
今夜は効かない。
王太后の扇が静かに音を立てた。
怒鳴らない。怒鳴らない方が怖い。
「セレス。黙りなさい」
短い。短いほど裁定だ。
セレスの顔が白くなる。
王太后に“内側の者”として守られてきた彼女が、初めて外へ押し出された音だった。
その時、広間の入口が開いた。
冷たい夜気と共に、リーシャが現れた。
公爵領にいるはずの王妃がなぜここに――ではない。
“体面の整理”の場には、当事者を呼ぶ。
それが王宮の残酷な礼儀だ。
リーシャはプラチナブロンドの髪をまとめ、白い手袋の指先を揃え、微笑を固定していた。
王妃として完璧に。
完璧であるほど、刃になる。
背後に、王弟アドリアン。
距離を守り、触れず、しかし同席する。
それだけで広間の空気がさらにざわめく。
リーシャは国王にも王太后にも深く礼をし、視線を上げないまま立った。
そして、セレスにだけ静かに言葉を落とした。
「セレス様……あなたは、ずっと妃の座を狙っていらしたのね。
――私も、もう少し早く気づくべきでしたわ」
声は穏やかだった。
穏やかにするほど、言葉は刃になる。
怒りではない。
裁定でもない。
ただの“確認”。
それが一番残酷だった。
セレスの唇が震える。
震えるのに、誰も支えない。
“支える”と言ったのは自分なのに。
国王レオニスが、初めてセレスを見た。
冷たい目ではない。疲れた目だ。
(俺は、何をしていた)
その目に気づいた瞬間、セレスの胸に恐怖が走る。
恐怖は正しい。恐怖は現実を嗅ぎ取る。
宰相が穏やかに言った。
「王太后陛下。ここは……沈静が必要です。世論は敏感ですから」
敏感。世論。
王宮は世論で人を殺す。
王太后は頷いた。
「ええ。だからこそ――セレスは一度、表舞台から下げます」
“下げる”。
それは政治的な体面処理。
陰謀ではない。犯罪でもない。
けれどセレスにとっては死刑に等しい。
王都の喝采。王の隣。幼馴染の特権。
それらを奪われる。
セレスが息を呑む。
「王太后陛下……私は……」
王太后は冷たく遮った。
「あなたは“支える”と言った。
なら支えなさい。――遠くから」
遠くから。
それが王宮の追放だ。
ベアトリスが、微笑のまま囁く。
声は甘い。甘いほど毒。
「まあ……残念。
でも“慈悲の聖女”は、遠くにいても祈れますものね?」
祈れますものね。
それは祝福ではない。
“王都から消えろ”の上品な言い換えだった。
ミレーユが続ける。
「安心ね。王妃様の席を奪う女が、王妃様の席の近くにいては困りますもの」
カトリーヌが笑う。
「結局、つまらない妃だとか言ってたのは誰だったのかしらね。
本当に“つまらない”のは――こういう欲よ」
その言葉が、セレスの頬を刺す。
刺されるのは痛みではない。孤独だ。
ヴィオラが最後に、扇の陰で呟く。
「絵が変わりましたわね」
噂屋の「絵が変わった」は、王宮の現実が変わったという意味だ。
セレスは立ち尽くした。
国王の隣に立っていたはずの場所が、急に遠い。
近かったはずの腕が、今は触れられない。
王太后は扇を閉じ、淡々と告げた。
「セレス。下がりなさい」
下がれ。
それは“隣から降りろ”という命令だった。
セレスは深く礼をした。
礼儀の形を保つ。
保たなければ、完全に終わる。
「……承知しました」
その声が、泣き声みたいに聞こえた。
泣き声になった時点で、慈悲の聖女の仮面は剥がれている。
セレスが去る。
扉が閉まる。
扉が閉まったあとに残ったのは、王都の冷たい光と、空席の音だった。
王妃の席は、まだ完全には埋まらない。
けれど今夜、王宮が失ったのは王妃ではない。
“隣を当然だと思っていた女”の当然だった。
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