つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ

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第45章|弟の告白

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公爵領の夜は、王都より暗い。
暗いのに怖くない。
闇が人を隠すのではなく、眠らせてくれる闇だからだ。

リーシャは暖炉の前で、白い手袋を膝に置いていた。
王宮では燃料だった手袋。
ここではただの布。
ただの布なのに、指先を守ってくれた温度の記憶だけが残っている。


セレスが“支えます”と言い、自分で自分を落としたこと。
王太后が「遠くから支えなさい」と切り捨てたこと。
王宮が手のひらを返し、喝采が冷たくなったこと。

軽い気持ちにはなれなかった。
セレスが嫌いなのではない。
ただ――自分の席を、ずっと奪われていた痛みがあっただけだ。

(私も、遅かった)

気づくのが遅く、言葉にするのも遅く、
それでも最後に“戻らない”と決めた。
決めたから今、ここにいる。

扉が控えめに叩かれた。

「姫様」

アグネスの声は、王都より少し柔らかい。
柔らかいのに、緊張が混じっている。

「王弟殿下が、廊下の向こうに。……ご許可があれば」

リーシャは一拍置いた。
温度が近づくのが怖い。
温度は刃にならないと分かっているのに、王宮の癖が身構える。

それでも、息を吸って言った。

「通して」

アドリアンが入ってくる。
プラチナブロンドの髪が暖炉の火を拾い、濃紺の軍服の金糸が微かに光る。
近づかない。触れない。
王宮で守ってきた礼儀の距離を、彼はここでも守った。

「……遅い時間に失礼します」

声は低い。
低いほど、逃げない。

リーシャは微笑を作ろうとして、やめた。
ここで微笑を固定したら、また“鎧”になる。
今夜は、鎧を少しだけ外したい。

「座って」

アドリアンは一瞬だけ迷い、静かに腰を下ろす。
椅子一つ分の距離。
触れない距離。
でもその距離が、王宮の冷たい距離とは違うことが分かる。

暖炉がぱちぱちと鳴る。
その音が会話の代わりに場を温める。

リーシャは先に、言葉を置いた。

「王宮から、セレス様の件が届いたわ」

アドリアンの瞳が僅かに揺れる。
揺れは怒りではない。
やりきれなさに近い。

「……はい」

それ以上言わない。
悪口にしない。
悪口は心を汚す。リーシャはもう、自分を汚したくなかった。

リーシャは白い手袋を見つめた。
指先を守ってくれた布。
守ってくれたのは、布ではなく――遠回りで温度を届けた人の意思。

「私は……もう戻らない」

言葉にすると、胸の奥が少しだけ軽くなる。
軽くなるのが怖い。
軽くなるのは、何かが死んだ証拠だから。

アドリアンは一拍置いて、静かに言った。

「……あなたがそう決めたのなら、私は守ります」

“守ります”
その言葉は、王宮では炎だった。
でもここでは、刃にならない。

リーシャは首を横に振った。

「守る、じゃない。私は……守られたいわけじゃない」

言い切ると、自分の喉が痛んだ。
守られたいと言えなかった日々が長すぎたから。

アドリアンは目を逸らさなかった。
逸らさない目は、王宮の誰もくれなかったものだ。

「分かっています。だから私は、言い方を変えます」

アドリアンは息を吸う。
その息が少しだけ震えているのが、リーシャには分かった。
震えは弱さではない。覚悟の前の震えだ。

「私はあなたに――戻れとは言いません」

リーシャの胸が、きゅっと縮む。
“戻れ”は命令だった。
命令で心が死んだ。
だから今、命令じゃない言葉が胸に刺さる。

アドリアンは続けた。

「国王の代わりにも、王宮の代わりにもなりません。
あなたの役目を奪うつもりも、あなたの選択を奪うつもりもない」

その一文一文が、丁寧だった。
丁寧な言葉は、王宮では嘘に聞こえた。
でも今夜は違う。
丁寧さが、誠実に聞こえる。

アドリアンは、最後に言った。

「ただ――隣にいたい」

その言葉は、奪う言葉ではない。
願いの形をしている。
願いは刃にならない。刃にならないから、リーシャは泣きそうになる。

でも涙は出ない。
涙はまだ凍っている。
それでも胸の奥が熱くなる。

アドリアンは、さらに一歩踏み込む代わりに、距離を守ったまま言葉だけを置いた。

「あなたが選ぶまで待ちます。
……けれど私は、あなたを選んでいる」

その言い方が、リーシャの胸を決定的に揺らした。
押さない。迫らない。
ただ、逃げない。

逃げない人の言葉は、こんなにも温かいのか。

リーシャは白い手袋をそっと持ち上げた。
布の冷たさ。
でもその冷たさの奥に、温度の記憶がある。

「私ね」

声が少しだけ震える。
震えるのが怖くて、手袋の縫い目を指でなぞる。

「強いって言われ続けたの。
強いから大丈夫、強いから耐えられるって」

アドリアンの表情が、痛みを含んで曇る。

リーシャは続けた。

「強いって言葉は、守らないための免罪符だった」

言葉にした瞬間、胸が少し楽になる。
楽になるのが怖い。
でも楽にならないと、次へ進めない。

アドリアンは低く言った。

「……あなたは強いのではなく、強くさせられた」

その一言で、リーシャの胸の奥がほどけた。
ほどけたのは涙じゃない。
緊張の糸だ。

リーシャはゆっくり息を吸った。
深く吸える。
深く吸える夜が、ここにある。

そして、初めて“選ぶ”側として言う。

「私も、選びたい」

アドリアンの瞳が、僅かに揺れる。
揺れは希望だ。
希望は刃にならない。

リーシャは白い手袋を膝に置き、素手を見つめた。
素手は弱い。
でも素手で触れるのは、自分の意思だ。

リーシャはゆっくり手を伸ばした。
早く伸ばさない。
急げばまた噂に追われる。
でもここには噂がいない。

アドリアンは動かない。
動けば奪いになるから。
動かないで、ただ待つ。

リーシャの指先が、アドリアンの手の甲に触れた。
一瞬だけ。
熱が伝わる。

熱が、怖くない。

リーシャは小さく言った。

「……隣にいて」

その言葉は命令ではない。
願いでもない。
選択だ。

アドリアンは深く息を吐き、短く答えた。

「はい」

それだけで十分だった。
沈黙は、今夜は刃ではない。
受け止める沈黙だ。

暖炉の火がぱちぱちと鳴る。
外の風が窓を撫でる。

リーシャは思った。

(ここなら、泣いても負けない)

まだ泣けない。
でも、いつか泣ける気がした。
泣ける場所が、隣にいるから。
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