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第1章 約束の庭園
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春の陽射しが、白薔薇の花弁に透けていた。
薄く揺れる花影の下で、ミッシェルは胸の前に両手を重ね、微笑んでいた。
——この場所が好き。
父が贈ってくれた屋敷の庭の中でも、ここは特別だった。
季節ごとに色を変える花が咲き、風が穏やかに吹き抜ける。
彼と出会って以来、彼女にとってこの庭は“思い出”を育てる場所になっていた。
「ミッシェル、ここにいたのか」
声に振り向く。
陽光を背に、黒髪を整えたカルバンが立っていた。
淡い灰の外套の裾が、風にふわりと揺れる。
公爵の肩書に相応しい威厳を湛えながらも、彼の表情は柔らかく、彼女を見るときだけは少し照れたような笑みを浮かべる。
——そんなところも、彼の好きなところだ。
「お仕事の合間に、来てくださったのですか?」
「今日は政務が早く終わった。……君に会いたくて」
穏やかに告げられたその言葉に、ミッシェルの胸が小さく跳ねた。
カルバンは不器用だ。愛の言葉を口にすることなど滅多にない。
だからこそ、ふとしたひとことが、彼女にとっては宝石のようだった。
「光栄ですわ、公爵様」
「……その呼び方はやめろ。何度言わせる」
少しだけ眉をひそめる彼の仕草に、ミッシェルはくすりと笑う。
彼はいつもそう言う。だが公の場では、彼女はどうしても敬称を崩せない。
彼の立場が、あまりに高いから。
けれど今は二人きり。
ミッシェルは花の香りを吸い込みながら、そっと唇を開いた。
「……カルバン」
呼び慣れない響きに、自分の頬が赤くなる。
カルバンは目を細めた。
「そう。そう呼べばいい。俺も——」
言いかけて、彼はわずかに視線をそらす。
言葉の代わりに、彼女の肩に手を置いた。
大きな手の温もりが、風の中でも確かに伝わる。
しばしの沈黙。鳥のさえずりだけが、春の庭に溶けていた。
「ミッシェル、覚えているか。初めてここで出会った日のことを」
「ええ。忘れるはずがありませんわ」
五年前、彼が父に付き添って屋敷を訪れた日。
少女だった彼女は、緊張してまともに目も合わせられなかった。
けれど帰り際、カルバンが花壇の前で足を止め、摘み取った一輪の白薔薇を彼女に差し出したのだ。
『君には、白が似合う』
あの言葉が、彼女の初恋の始まりだった。
「あなたはあのとき、笑っていましたわ。とても優しい顔で」
「そうだったか?」
「はい。……その笑顔が、わたしの心を奪いましたの」
言い終えた瞬間、ミッシェルは恥ずかしさに視線を逸らした。
カルバンがわずかに笑う気配を感じる。
けれど次に響いた声は、穏やかでありながら、どこか遠くのもののようだった。
「君はいつも……俺をまっすぐに見てくれるな。
その瞳に、嘘がない」
「嘘なんて、つけませんもの。あなたの前では」
「……それが怖い」
「え?」
ミッシェルは小首を傾げた。
カルバンは微笑みながらも、どこか影を宿した目で薔薇を見つめていた。
その横顔に、彼女は小さな違和感を覚える。
けれどそれを問いただす勇気は、まだなかった。
沈黙の中、風が薔薇の花びらを舞い上げた。
白い花弁がひとつ、ミッシェルの髪に落ちる。
カルバンがそれを指先で摘み取った。
「……ミッシェル」
「はい」
「君を、守ると約束する。何があっても、君を泣かせない」
その声は穏やかで、誓いのように真摯だった。
ミッシェルは胸の奥に、春風よりも温かいものが広がるのを感じた。
「わたしも、信じています。
あなたが傍にいれば、どんなことがあっても大丈夫ですわ」
カルバンは微かに笑い、手を伸ばして彼女の頬を包んだ。
その掌に宿るぬくもりが、永遠のように思えた。
けれど——この約束が、最も痛い嘘になるとは、まだ誰も知らない。
翌朝、ミッシェルは父の執務室に呼ばれた。
窓から差す光はまだやわらかく、机の上には封蝋で閉じられた書状が置かれている。
「ミッシェル、王都に新たな“聖女”が到着された。陛下の命で、我が家も挨拶に伺うことになった」
「聖女……ですか?」
「ああ。奇跡を起こす娘だそうだ。神殿も王宮も、彼女の出現に沸いておる。
……カルバン公爵も、彼女の護衛を任されたらしい」
その名を聞いた瞬間、ミッシェルの心が小さく波打った。
彼が新たな任を負うことは喜ばしい。けれど、なぜだろう。
胸の奥に、得体の知れない冷たいものが広がった。
「お父様……聖女様というのは、どんな方なのでしょう」
「詳しいことは知らん。だが、王都中が彼女を称えている。
まるで、天から降りた光のようだとな」
光——。
それはきっと、美しい人なのだろう。
ミッシェルは微笑みながらも、指先を強く握りしめた。
胸の奥で、何かが小さく軋む。
彼女はまだ知らない。
その“光”が、やがて彼女の穏やかな日々を焼き尽くすことを。
そして——
カルバンが本当の愛に気づく頃、すべてが手遅れになっていることを。
白薔薇の庭に残された約束だけが、春風の中で静かに揺れていた。
薄く揺れる花影の下で、ミッシェルは胸の前に両手を重ね、微笑んでいた。
——この場所が好き。
父が贈ってくれた屋敷の庭の中でも、ここは特別だった。
季節ごとに色を変える花が咲き、風が穏やかに吹き抜ける。
彼と出会って以来、彼女にとってこの庭は“思い出”を育てる場所になっていた。
「ミッシェル、ここにいたのか」
声に振り向く。
陽光を背に、黒髪を整えたカルバンが立っていた。
淡い灰の外套の裾が、風にふわりと揺れる。
公爵の肩書に相応しい威厳を湛えながらも、彼の表情は柔らかく、彼女を見るときだけは少し照れたような笑みを浮かべる。
——そんなところも、彼の好きなところだ。
「お仕事の合間に、来てくださったのですか?」
「今日は政務が早く終わった。……君に会いたくて」
穏やかに告げられたその言葉に、ミッシェルの胸が小さく跳ねた。
カルバンは不器用だ。愛の言葉を口にすることなど滅多にない。
だからこそ、ふとしたひとことが、彼女にとっては宝石のようだった。
「光栄ですわ、公爵様」
「……その呼び方はやめろ。何度言わせる」
少しだけ眉をひそめる彼の仕草に、ミッシェルはくすりと笑う。
彼はいつもそう言う。だが公の場では、彼女はどうしても敬称を崩せない。
彼の立場が、あまりに高いから。
けれど今は二人きり。
ミッシェルは花の香りを吸い込みながら、そっと唇を開いた。
「……カルバン」
呼び慣れない響きに、自分の頬が赤くなる。
カルバンは目を細めた。
「そう。そう呼べばいい。俺も——」
言いかけて、彼はわずかに視線をそらす。
言葉の代わりに、彼女の肩に手を置いた。
大きな手の温もりが、風の中でも確かに伝わる。
しばしの沈黙。鳥のさえずりだけが、春の庭に溶けていた。
「ミッシェル、覚えているか。初めてここで出会った日のことを」
「ええ。忘れるはずがありませんわ」
五年前、彼が父に付き添って屋敷を訪れた日。
少女だった彼女は、緊張してまともに目も合わせられなかった。
けれど帰り際、カルバンが花壇の前で足を止め、摘み取った一輪の白薔薇を彼女に差し出したのだ。
『君には、白が似合う』
あの言葉が、彼女の初恋の始まりだった。
「あなたはあのとき、笑っていましたわ。とても優しい顔で」
「そうだったか?」
「はい。……その笑顔が、わたしの心を奪いましたの」
言い終えた瞬間、ミッシェルは恥ずかしさに視線を逸らした。
カルバンがわずかに笑う気配を感じる。
けれど次に響いた声は、穏やかでありながら、どこか遠くのもののようだった。
「君はいつも……俺をまっすぐに見てくれるな。
その瞳に、嘘がない」
「嘘なんて、つけませんもの。あなたの前では」
「……それが怖い」
「え?」
ミッシェルは小首を傾げた。
カルバンは微笑みながらも、どこか影を宿した目で薔薇を見つめていた。
その横顔に、彼女は小さな違和感を覚える。
けれどそれを問いただす勇気は、まだなかった。
沈黙の中、風が薔薇の花びらを舞い上げた。
白い花弁がひとつ、ミッシェルの髪に落ちる。
カルバンがそれを指先で摘み取った。
「……ミッシェル」
「はい」
「君を、守ると約束する。何があっても、君を泣かせない」
その声は穏やかで、誓いのように真摯だった。
ミッシェルは胸の奥に、春風よりも温かいものが広がるのを感じた。
「わたしも、信じています。
あなたが傍にいれば、どんなことがあっても大丈夫ですわ」
カルバンは微かに笑い、手を伸ばして彼女の頬を包んだ。
その掌に宿るぬくもりが、永遠のように思えた。
けれど——この約束が、最も痛い嘘になるとは、まだ誰も知らない。
翌朝、ミッシェルは父の執務室に呼ばれた。
窓から差す光はまだやわらかく、机の上には封蝋で閉じられた書状が置かれている。
「ミッシェル、王都に新たな“聖女”が到着された。陛下の命で、我が家も挨拶に伺うことになった」
「聖女……ですか?」
「ああ。奇跡を起こす娘だそうだ。神殿も王宮も、彼女の出現に沸いておる。
……カルバン公爵も、彼女の護衛を任されたらしい」
その名を聞いた瞬間、ミッシェルの心が小さく波打った。
彼が新たな任を負うことは喜ばしい。けれど、なぜだろう。
胸の奥に、得体の知れない冷たいものが広がった。
「お父様……聖女様というのは、どんな方なのでしょう」
「詳しいことは知らん。だが、王都中が彼女を称えている。
まるで、天から降りた光のようだとな」
光——。
それはきっと、美しい人なのだろう。
ミッシェルは微笑みながらも、指先を強く握りしめた。
胸の奥で、何かが小さく軋む。
彼女はまだ知らない。
その“光”が、やがて彼女の穏やかな日々を焼き尽くすことを。
そして——
カルバンが本当の愛に気づく頃、すべてが手遅れになっていることを。
白薔薇の庭に残された約束だけが、春風の中で静かに揺れていた。
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