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第2章 聖女の来訪
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王都に、春の終わりを告げる鐘が鳴った。
その音とともに、聖女アリアが神殿より降り立った——と、人々は口々に囁いた。
その噂は瞬く間に広まり、どの屋敷でも朝の話題は「聖女様を見たか」だった。
光のような金の髪、空を映したような瞳。
触れられぬほどに清らかで、微笑むだけで癒されるという。
ミッシェルは、客間でその話を耳にしながらも、どこか他人事のように受け止めていた。
王都にはいつも話題がある。
ただの流行のひとつにすぎない——そう思っていたのだ。
けれど、その名が彼の名と並んで告げられた時、胸の奥がひやりとした。
「カルバン公爵が、聖女様の護衛役に任じられたそうですよ」
侍女の声が、やけに鮮やかに響いた。
「聖女様のお世話役として、毎日王宮に通われるとか」
「……そう、なのですね」
ミッシェルはカップを持つ手を静かに下ろした。
紅茶の表面がわずかに波打つ。
胸の奥で小さく、何かが崩れる音がした。
その夜、カルバンが屋敷に現れたのは遅い時刻だった。
執務を終えたのか、外套には王宮の紋章が淡く光っている。
「遅くまでご苦労様です」
「すまない。今日は陛下の命で、聖女殿の護衛任が正式に下りた」
「……おめでとうございますわ」
口ではそう言いながらも、心は静かに波立っていた。
彼は誇り高い。任務に選ばれるのは当然だとわかっている。
それでも、何かが遠くへ行ってしまうような感覚があった。
「君の屋敷にも、近く神殿からの招待状が届くだろう。王宮の晩餐に同席してほしい」
「聖女様にお会いするのは……少し緊張しますわね」
「気に病むことはない。彼女はただの少女だ」
そう言いながらも、カルバンの声には、かすかな敬意が混じっていた。
その響きが、ミッシェルの胸を鈍く締めつける。
——“ただの少女”。
けれど、彼の目の中ではもう違う何かが宿っているように感じた。
晩餐会の日。
王宮の大広間はまばゆい光に満ちていた。
金糸で縫われた天幕の下、無数の燭台が白い光を放ち、香水と花の香りが空気を満たす。
ミッシェルは淡いラベンダー色のドレスに身を包み、会場の隅で深く息をついた。
隣にはカルバン。
彼の表情はいつも通り冷静で、少しも乱れた様子を見せない。
その冷静さが、今は少しだけ遠く感じられた。
「緊張しているのか?」
「少しだけ。……きっと、素敵な方なのでしょうね」
「そうだな。聖女殿は、見目だけでなく、心も清らかだ」
ミッシェルの唇がわずかに震えた。
褒め言葉のはずなのに、胸の奥が冷たくなる。
——どうして、そんなに柔らかい声で言うの。
その時、扉の前で喧騒が起こった。
金色の髪が光を受けて揺れる。
青い瞳、白い衣。
人々が息を呑み、次々に頭を下げた。
「聖女アリア様でございます」
まるで一幅の絵のようだった。
アリアは微笑み、静かに壇上に歩み出る。
その一歩ごとに、空気が変わるように感じられた。
ミッシェルは思わず息を詰める。
目が離せないほど、彼女は“美しかった”。
けれど同時に、胸の奥で何かが疼いた。
——わたしは、勝てない。
「カルバン様」
アリアが柔らかく呼びかける。
その声に、カルバンが応じて歩み出る。
その姿を見た瞬間、ミッシェルの喉が痛くなった。
二人の間に流れる空気は、言葉にできないほど穏やかで、
まるで長く離れていた恋人が再会したかのような錯覚さえあった。
人々の視線が集まる中、カルバンがアリアの前で膝を折る。
形式的な挨拶なのに、どこか優しすぎた。
アリアはその手を取って微笑む。
「あなたのような方に護られるなら、私は安心です」
「……そのお言葉、身に余ります」
その短いやり取りの間に、ミッシェルはふと理解した。
——ああ、彼はもう“彼女”を見ている。
晩餐のあと。
ミッシェルは人々の輪を避け、テラスに出て夜風を吸い込んだ。
冷たい風が頬をなで、胸の奥の熱を奪っていく。
星が静かに瞬いている。
背後から足音が近づいた。
「ミッシェル」
振り返ると、カルバンが立っていた。
彼の手にはまだワインの杯が残っている。
「冷える。中へ戻れ」
「少しだけ……このまま夜風に当たっていたいんです」
カルバンはため息をつき、隣に立つ。
しばらく沈黙が続いた。
そして、彼の低い声が夜に溶けた。
「アリア殿は、不思議な方だ」
「ええ……そう見えました」
「目を合わせると、心の奥を見透かされるようだ。まるで——」
言いかけて、彼は口を閉ざした。
それでも、ミッシェルには続きが分かってしまった。
“まるで天使のようだ”、そう言いたかったのだろう。
「カルバン様」
ミッシェルは微笑んだ。
「あなたが彼女の護衛に選ばれて、本当によかったと思っています」
「……ミッシェル」
「お務めを果たすあなたを、誇りに思いますわ」
そう言いながら、心の奥で、何かがきしむ音がした。
強く噛み締めなければ、涙がこぼれそうだった。
「ありがとう。……君は、いつも優しいな」
その言葉に、笑って頷く。
けれど、夜空の星が滲んで見えた。
その夜。
ミッシェルは眠れぬまま、机に向かって手紙を書いた。
——彼への感謝、労い、そして小さな祈り。
「あなたの守るその光が、どうかあなたを傷つけませんように」
書き終えた手紙を封じ、燭台の灯を消した。
闇の中、白薔薇の香りが微かに漂っていた。
ミッシェルは知らなかった。
その手紙が翌朝、侍女の手違いで王宮に届かず、
カルバンの手に渡ることはなかったことを。
そして、その日から——
彼と聖女アリアの距離は、静かに、しかし確実に近づいていった。
その音とともに、聖女アリアが神殿より降り立った——と、人々は口々に囁いた。
その噂は瞬く間に広まり、どの屋敷でも朝の話題は「聖女様を見たか」だった。
光のような金の髪、空を映したような瞳。
触れられぬほどに清らかで、微笑むだけで癒されるという。
ミッシェルは、客間でその話を耳にしながらも、どこか他人事のように受け止めていた。
王都にはいつも話題がある。
ただの流行のひとつにすぎない——そう思っていたのだ。
けれど、その名が彼の名と並んで告げられた時、胸の奥がひやりとした。
「カルバン公爵が、聖女様の護衛役に任じられたそうですよ」
侍女の声が、やけに鮮やかに響いた。
「聖女様のお世話役として、毎日王宮に通われるとか」
「……そう、なのですね」
ミッシェルはカップを持つ手を静かに下ろした。
紅茶の表面がわずかに波打つ。
胸の奥で小さく、何かが崩れる音がした。
その夜、カルバンが屋敷に現れたのは遅い時刻だった。
執務を終えたのか、外套には王宮の紋章が淡く光っている。
「遅くまでご苦労様です」
「すまない。今日は陛下の命で、聖女殿の護衛任が正式に下りた」
「……おめでとうございますわ」
口ではそう言いながらも、心は静かに波立っていた。
彼は誇り高い。任務に選ばれるのは当然だとわかっている。
それでも、何かが遠くへ行ってしまうような感覚があった。
「君の屋敷にも、近く神殿からの招待状が届くだろう。王宮の晩餐に同席してほしい」
「聖女様にお会いするのは……少し緊張しますわね」
「気に病むことはない。彼女はただの少女だ」
そう言いながらも、カルバンの声には、かすかな敬意が混じっていた。
その響きが、ミッシェルの胸を鈍く締めつける。
——“ただの少女”。
けれど、彼の目の中ではもう違う何かが宿っているように感じた。
晩餐会の日。
王宮の大広間はまばゆい光に満ちていた。
金糸で縫われた天幕の下、無数の燭台が白い光を放ち、香水と花の香りが空気を満たす。
ミッシェルは淡いラベンダー色のドレスに身を包み、会場の隅で深く息をついた。
隣にはカルバン。
彼の表情はいつも通り冷静で、少しも乱れた様子を見せない。
その冷静さが、今は少しだけ遠く感じられた。
「緊張しているのか?」
「少しだけ。……きっと、素敵な方なのでしょうね」
「そうだな。聖女殿は、見目だけでなく、心も清らかだ」
ミッシェルの唇がわずかに震えた。
褒め言葉のはずなのに、胸の奥が冷たくなる。
——どうして、そんなに柔らかい声で言うの。
その時、扉の前で喧騒が起こった。
金色の髪が光を受けて揺れる。
青い瞳、白い衣。
人々が息を呑み、次々に頭を下げた。
「聖女アリア様でございます」
まるで一幅の絵のようだった。
アリアは微笑み、静かに壇上に歩み出る。
その一歩ごとに、空気が変わるように感じられた。
ミッシェルは思わず息を詰める。
目が離せないほど、彼女は“美しかった”。
けれど同時に、胸の奥で何かが疼いた。
——わたしは、勝てない。
「カルバン様」
アリアが柔らかく呼びかける。
その声に、カルバンが応じて歩み出る。
その姿を見た瞬間、ミッシェルの喉が痛くなった。
二人の間に流れる空気は、言葉にできないほど穏やかで、
まるで長く離れていた恋人が再会したかのような錯覚さえあった。
人々の視線が集まる中、カルバンがアリアの前で膝を折る。
形式的な挨拶なのに、どこか優しすぎた。
アリアはその手を取って微笑む。
「あなたのような方に護られるなら、私は安心です」
「……そのお言葉、身に余ります」
その短いやり取りの間に、ミッシェルはふと理解した。
——ああ、彼はもう“彼女”を見ている。
晩餐のあと。
ミッシェルは人々の輪を避け、テラスに出て夜風を吸い込んだ。
冷たい風が頬をなで、胸の奥の熱を奪っていく。
星が静かに瞬いている。
背後から足音が近づいた。
「ミッシェル」
振り返ると、カルバンが立っていた。
彼の手にはまだワインの杯が残っている。
「冷える。中へ戻れ」
「少しだけ……このまま夜風に当たっていたいんです」
カルバンはため息をつき、隣に立つ。
しばらく沈黙が続いた。
そして、彼の低い声が夜に溶けた。
「アリア殿は、不思議な方だ」
「ええ……そう見えました」
「目を合わせると、心の奥を見透かされるようだ。まるで——」
言いかけて、彼は口を閉ざした。
それでも、ミッシェルには続きが分かってしまった。
“まるで天使のようだ”、そう言いたかったのだろう。
「カルバン様」
ミッシェルは微笑んだ。
「あなたが彼女の護衛に選ばれて、本当によかったと思っています」
「……ミッシェル」
「お務めを果たすあなたを、誇りに思いますわ」
そう言いながら、心の奥で、何かがきしむ音がした。
強く噛み締めなければ、涙がこぼれそうだった。
「ありがとう。……君は、いつも優しいな」
その言葉に、笑って頷く。
けれど、夜空の星が滲んで見えた。
その夜。
ミッシェルは眠れぬまま、机に向かって手紙を書いた。
——彼への感謝、労い、そして小さな祈り。
「あなたの守るその光が、どうかあなたを傷つけませんように」
書き終えた手紙を封じ、燭台の灯を消した。
闇の中、白薔薇の香りが微かに漂っていた。
ミッシェルは知らなかった。
その手紙が翌朝、侍女の手違いで王宮に届かず、
カルバンの手に渡ることはなかったことを。
そして、その日から——
彼と聖女アリアの距離は、静かに、しかし確実に近づいていった。
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