嘘の誓いは、あなたの隣で

柴田はつみ

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第3章 冷たい微笑

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 王都の空は、どこか霞んで見えた。
 春が終わりを告げ、初夏の風が吹きはじめたころ——
 カルバンの姿を見かける日が、少しずつ減っていった。

 理由はわかっている。
 聖女アリアの護衛として、王宮に詰める日が続いているのだ。
 それは誇らしいこと。
 彼が信頼されている証。
 頭ではそう理解しているのに、心の奥では別の声がささやいていた。

 ——でも、どうして。
 どうして彼の笑顔が、あの人の前の方が柔らかいの。

 ミッシェルは胸の奥の痛みを、誰にも話せなかった。
 話せば、弱い女だと見られてしまう気がして。
 彼に迷惑をかけたくなかった。
 けれど、沈黙を選ぶたびに、言葉にならない距離が広がっていく。



 その日、王宮で晩餐が開かれた。
 陛下が聖女の功績を讃えるために催した祝宴。
 貴族の令嬢としてミッシェルにも招待状が届き、
 彼女は深呼吸しながら支度を整えた。

 鏡の中の自分は、笑っているのに、目だけが笑っていなかった。
 淡い藤色のドレス。首元にはカルバンが贈ってくれた真珠の首飾り。
 “これをつけている限り、君は俺の誇りだ”
 そう言ってくれた日の声を思い出しながら、ミッシェルは指先を震わせた。

 ——誇り。
 それは今も、同じ意味なのだろうか。



 晩餐の会場は、まばゆい光に包まれていた。
 天井のシャンデリア、鏡面の床、金糸の壁布。
 人々の笑い声の奥で、楽団の演奏が静かに響く。

 そしてその中央——
 白い衣の聖女アリアと、彼女の隣に立つカルバンの姿があった。

 アリアは淡く微笑み、人々の祝福に頷いている。
 カルバンは控えめに彼女を見守り、その表情は穏やかで、柔らかくて……
 ミッシェルが知らない“優しさ”を宿していた。

 胸が締めつけられた。
 その笑顔は、かつて自分のために向けられていたもの。
 それを別の人に向ける彼を見て、
 息をするたびに喉が焼けるようだった。

 気づけば、指先が震えていた。
 持っていた扇が、床に落ちる。
 音に気づいたカルバンが顔を上げた。
 一瞬、視線が交わる。

 だが——彼の微笑みは、どこか他人行儀だった。

「……お加減が悪いのか、ミッシェル」

 近づいてくるカルバンの声。
 その優しささえも、形式的に聞こえた。

「少し、疲れただけですわ」

「聖女殿が君のことを気にかけておられた。
 少し挨拶をしてもらえないか?」

 “聖女殿が”——その一言で、ミッシェルの微笑みが固まった。
 彼の口から、そんな呼び方で誘われるとは思わなかった。
 アリアの顔が視界の端に映る。
 まるで光そのもののように美しい。
 その輝きの傍らで、自分だけが影のようだった。

「……ええ、もちろん」

 そう答えた声は、少し掠れていた。
 カルバンは気づかず、彼女をアリアのもとへと導いた。



「お噂は伺っております、ローザリンド公爵令嬢」
 アリアの声は、鈴のように澄んでいた。
「あなたのような方にお会いできて、嬉しいわ」

 ミッシェルは微笑みながら礼をとった。
「光栄です、聖女様。
 あなたの祈りが王国を支えてくださっていると、父からも伺いました」

「祈りなんて、たいしたものではありません。
 人の心を癒すのは、思いやりよ。——そうでしょう? カルバン様」

 その名を呼ぶ声が、あまりに自然で、
 まるで長く寄り添ってきた恋人のように響いた。
 カルバンが頷くのを見て、ミッシェルの胸の奥が冷たく凍る。

「ええ……思いやりは、きっと大切ですね」
 唇がわずかに震える。
 それでも、笑顔を保った。
 けれど、アリアはどこか寂しげな目でミッシェルを見た。

「あなたは、とても優しい方ですね」

 ——どうして、そんなことを。
 まるで何かを知っているような声音に、心がざわめいた。
 ミッシェルは小さく会釈し、その場を離れた。



 夜が更け、晩餐の喧騒が遠ざかるころ。
 カルバンがミッシェルのもとにやって来た。
 テラスの風は冷たく、月の光が二人の影を長く伸ばしている。

「……さっきは、聖女殿に失礼がなかっただろうか」

「いいえ。
 むしろ、あの方はわたくしに優しくしてくださいました」

「そうか。それならよかった」

 あっさりとした言葉。
 ミッシェルは思わず問いかけそうになった。
 ——“どうして、そんなに彼女のことばかり気にかけるの?”
 けれど、その問いを口にすれば、
 彼の優しい笑顔が崩れてしまう気がして、飲み込んだ。

「カルバン様。
 最近、お忙しそうですね」

「ああ。陛下も聖女殿も、お力を必要としておられる。
 王国の安寧のためなら、仕方ない」

「……そうですわね」

 彼の言葉は正しい。
 けれど、その正しさが刃のように胸を刺した。
 “仕方ない”——その一言が、
 まるで彼女との時間など、取るに足らないものだと言われたようで。

 ミッシェルはゆっくりと目を伏せた。
 その沈黙を、カルバンは気づかぬまま受け流す。
 いつもなら、彼が沈黙を破ってくれたのに。
 今夜の彼は、どこか遠い。

「……ミッシェル」

 ようやく名前を呼ばれて、心が跳ねた。
 けれど続いた言葉は、想像していたものではなかった。


「俺を信じてほしい。
 君が誰を見ていても、俺は……君だけを信じている」

 “信じて”。
 その言葉は優しいのに、どこか命令のようだった。
 ミッシェルは微笑みを保ちながら、そっと答えた。

「ええ。待っています」

 それ以上の言葉は、もう出てこなかった。
 カルバンは安心したように頷き、背を向けて去っていく。
 その背中に、手を伸ばしたい衝動が走る。
 でも——もう届かない気がした。

 夜風が吹き抜け、薔薇の香りが遠ざかる。
 ミッシェルは小さくつぶやいた。

「わたし、強くなんか……ないのに」

 その声は風にかき消され、誰にも届かない。
 白い月だけが、彼女の涙を見ていた。



 翌朝、屋敷の前に届いた新聞には、
 「聖女アリア、王の祈祷に同行。カルバン公爵も随行」と記されていた。

 ミッシェルは新聞を静かに折りたたみ、
 書斎の机の上にそっと置いた。

 そして、昨日まで輝いていた真珠の首飾りを、
 そっとジュエリーケースの奥へしまい込んだ。

 白薔薇の花が、外の光を受けて咲き誇っている。
 けれど彼女の胸の中では、もう春が終わっていた。
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