4 / 10
第4章 皇太子の瞳
しおりを挟む
朝靄の中、ミッシェルは書斎の窓辺に立っていた。
白薔薇の庭は露をまとい、淡い光の中で輝いている。
けれど、その美しさに心が動くことはなかった。
カルバンが王都の祈祷に同行してから、一週間。
届いたのは形式的な報告の手紙だけ。
“聖女殿の加護が順調である。王もお喜びだ”
その一行の下に、彼の署名がある。
けれど、名前の隣にあった“愛しい人へ”の一文は、もう消えていた。
指先で紙の端を撫でながら、ミッシェルは静かに息を吐いた。
胸の奥が、少しずつ凍えていくようだった。
その時、扉が叩かれる。
執事が姿を見せた。
「お嬢様、陛下より伝令が。
皇太子殿下が、ローザリンド家を正式にご訪問なさるそうです」
「……皇太子、殿下が?」
思わず息をのんだ。
王族がわざわざ一貴族の屋敷を訪れるなど、前例がない。
何かが、変わり始めている。
その直感に、胸の奥がざわめいた。
昼過ぎ。
陽光が最も強くなる時刻、
豪奢な馬車がローザリンド邸の門を通った。
金糸の紋章。
御者台に掲げられた旗は、皇太子の紋。
玄関ホールで迎えたミッシェルは、
心臓の鼓動を抑えきれなかった。
扉が開く。
現れたのは、落ち着いた紺の軍装に身を包んだ青年。
整った顔立ち、穏やかな眼差し。
その瞳は、静かな海を思わせた。
「初めまして。ルシアン・ヴァルターと申します」
深く頭を下げるその所作に、威圧感はなかった。
皇太子としての誇りを保ちながらも、
人としての温かさを失っていない。
その雰囲気に、ミッシェルは自然と息を整えた。
「お会いできて光栄です、殿下。
父に代わり、心よりお迎え申し上げます」
「本日は、聖女殿の件でご挨拶を——というのは名目ですが」
彼は軽く微笑む。
「実のところ、以前から一度お話してみたいと思っていたのです」
「……わたくしと?」
「カルバン殿とはご親しいようですね。
彼の評判を聞くたび、どんな女性が彼の傍にいるのかと興味を持っていました」
その穏やかな言葉に、ミッシェルは頬を染めた。
だが次の瞬間、その笑みの奥にある“静かな探るような光”に気づく。
——この方は、ただの好奇心ではない。
彼女の胸に、言葉にならない緊張が走った。
応接室に通され、二人は向かい合った。
窓の外では、白薔薇が風に揺れている。
ルシアンはその花を眺めながら、静かに言った。
「綺麗ですね。
白い花ほど、手入れに手がかかるものだと聞きます」
「ええ。……少しでも日差しが強いと、すぐに傷んでしまいます」
「そうですか」
ルシアンはふっと目を細めた。
「それでも、あなたは世話を怠らない。
守るというのは、そういうことですね」
その一言に、ミッシェルは息を呑んだ。
まるで、心を見透かされたようだった。
——“守る”。
それは、カルバンが自分に言った言葉と同じ。
けれど今、彼の口から聞くその響きは、まるで違っていた。
「……殿下は、人の心をよく見ていらっしゃるのですね」
「時に、見えすぎて困ることもあります」
彼は静かに微笑む。
「例えば、今のあなたのように。
笑っているのに、心の中は泣いている人を見ると、放っておけない」
ミッシェルの胸の奥で、何かが震えた。
どんなに取り繕っても、誰にも気づかれなかった悲しみ。
けれどこの人は、一目でそれを見抜いた。
どうして、と問いかけようとして、言葉が出ない。
代わりに、視線を落とした。
「……お恥ずかしいですわ」
「恥ずかしがることではありません。
愛する人のことで悩むのは、誰もが通る道でしょう」
その言葉に、ミッシェルは顔を上げる。
ルシアンの瞳が、真っ直ぐに彼女を捉えていた。
その深い蒼の中に、責めも同情もなく、ただ静かな理解だけがあった。
「あなたには、好きな方がいらっしゃるのですね」
——まるで告白のような声音。
ミッシェルは一瞬、呼吸を忘れた。
「え、ええ……その、はい」
「それでも、その方は、あなたを見ていない」
柔らかい言葉なのに、胸に突き刺さる。
ミッシェルは息を詰め、俯いた。
指先が膝の上で強く絡まる。
「……どうして、そんなことを」
「あなたの目が教えてくれました」
ルシアンは、少しだけ笑った。
「愛する人を見る目ではなく、思い出を見ている人の目をしている」
その言葉に、涙がこぼれそうになる。
必死に瞬きをして、笑顔を作った。
「殿下は……人を惑わせるのがお上手ですわ」
「いいえ。
あなたが、あまりにも真っ直ぐだから、放っておけないだけです」
彼の声は低く、静かだった。
それなのに、心の奥深くにまで届いてしまう。
別れ際、ルシアンは玄関先で足を止めた。
陽光が差し込み、彼の金の徽章が光る。
「ミッシェル嬢。
もしあなたが、本当に誰かに傷つけられているなら——」
彼はわずかに微笑んだ。
「その人を、代わりに責める役目を、私が引き受けましょう」
その言葉に、ミッシェルは何も言えなかった。
頬に吹き込む風が、涙の跡を乾かしていく。
馬車が遠ざかる音を聞きながら、彼女は胸に手を当てた。
——あの瞳は、どうしてあんなに優しかったのだろう。
見つめられた瞬間、自分の心が少しだけ軽くなった。
そして気づいた。
“見つめられる”ということが、こんなにも救いになるのだと。
その夜、彼女は久しぶりに手紙を綴った。
宛先はカルバン。
けれど書き出してすぐに、筆が止まった。
“あなたに会いたい”
そう書こうとして、言葉が滲む。
胸の奥で、別の声が囁いた。
——もし会っても、あなたはもう、私を見ない。
ミッシェルは震える手で便箋を閉じ、蝋で封をした。
封蝋に刻まれた家紋の上に、そっと指先を置く。
「……あなたの瞳に、もう一度映る日は来るのかしら」
答えは、夜の静寂に溶けていった。
窓の外では、月明かりに照らされた薔薇が、静かに散っていた。
白薔薇の庭は露をまとい、淡い光の中で輝いている。
けれど、その美しさに心が動くことはなかった。
カルバンが王都の祈祷に同行してから、一週間。
届いたのは形式的な報告の手紙だけ。
“聖女殿の加護が順調である。王もお喜びだ”
その一行の下に、彼の署名がある。
けれど、名前の隣にあった“愛しい人へ”の一文は、もう消えていた。
指先で紙の端を撫でながら、ミッシェルは静かに息を吐いた。
胸の奥が、少しずつ凍えていくようだった。
その時、扉が叩かれる。
執事が姿を見せた。
「お嬢様、陛下より伝令が。
皇太子殿下が、ローザリンド家を正式にご訪問なさるそうです」
「……皇太子、殿下が?」
思わず息をのんだ。
王族がわざわざ一貴族の屋敷を訪れるなど、前例がない。
何かが、変わり始めている。
その直感に、胸の奥がざわめいた。
昼過ぎ。
陽光が最も強くなる時刻、
豪奢な馬車がローザリンド邸の門を通った。
金糸の紋章。
御者台に掲げられた旗は、皇太子の紋。
玄関ホールで迎えたミッシェルは、
心臓の鼓動を抑えきれなかった。
扉が開く。
現れたのは、落ち着いた紺の軍装に身を包んだ青年。
整った顔立ち、穏やかな眼差し。
その瞳は、静かな海を思わせた。
「初めまして。ルシアン・ヴァルターと申します」
深く頭を下げるその所作に、威圧感はなかった。
皇太子としての誇りを保ちながらも、
人としての温かさを失っていない。
その雰囲気に、ミッシェルは自然と息を整えた。
「お会いできて光栄です、殿下。
父に代わり、心よりお迎え申し上げます」
「本日は、聖女殿の件でご挨拶を——というのは名目ですが」
彼は軽く微笑む。
「実のところ、以前から一度お話してみたいと思っていたのです」
「……わたくしと?」
「カルバン殿とはご親しいようですね。
彼の評判を聞くたび、どんな女性が彼の傍にいるのかと興味を持っていました」
その穏やかな言葉に、ミッシェルは頬を染めた。
だが次の瞬間、その笑みの奥にある“静かな探るような光”に気づく。
——この方は、ただの好奇心ではない。
彼女の胸に、言葉にならない緊張が走った。
応接室に通され、二人は向かい合った。
窓の外では、白薔薇が風に揺れている。
ルシアンはその花を眺めながら、静かに言った。
「綺麗ですね。
白い花ほど、手入れに手がかかるものだと聞きます」
「ええ。……少しでも日差しが強いと、すぐに傷んでしまいます」
「そうですか」
ルシアンはふっと目を細めた。
「それでも、あなたは世話を怠らない。
守るというのは、そういうことですね」
その一言に、ミッシェルは息を呑んだ。
まるで、心を見透かされたようだった。
——“守る”。
それは、カルバンが自分に言った言葉と同じ。
けれど今、彼の口から聞くその響きは、まるで違っていた。
「……殿下は、人の心をよく見ていらっしゃるのですね」
「時に、見えすぎて困ることもあります」
彼は静かに微笑む。
「例えば、今のあなたのように。
笑っているのに、心の中は泣いている人を見ると、放っておけない」
ミッシェルの胸の奥で、何かが震えた。
どんなに取り繕っても、誰にも気づかれなかった悲しみ。
けれどこの人は、一目でそれを見抜いた。
どうして、と問いかけようとして、言葉が出ない。
代わりに、視線を落とした。
「……お恥ずかしいですわ」
「恥ずかしがることではありません。
愛する人のことで悩むのは、誰もが通る道でしょう」
その言葉に、ミッシェルは顔を上げる。
ルシアンの瞳が、真っ直ぐに彼女を捉えていた。
その深い蒼の中に、責めも同情もなく、ただ静かな理解だけがあった。
「あなたには、好きな方がいらっしゃるのですね」
——まるで告白のような声音。
ミッシェルは一瞬、呼吸を忘れた。
「え、ええ……その、はい」
「それでも、その方は、あなたを見ていない」
柔らかい言葉なのに、胸に突き刺さる。
ミッシェルは息を詰め、俯いた。
指先が膝の上で強く絡まる。
「……どうして、そんなことを」
「あなたの目が教えてくれました」
ルシアンは、少しだけ笑った。
「愛する人を見る目ではなく、思い出を見ている人の目をしている」
その言葉に、涙がこぼれそうになる。
必死に瞬きをして、笑顔を作った。
「殿下は……人を惑わせるのがお上手ですわ」
「いいえ。
あなたが、あまりにも真っ直ぐだから、放っておけないだけです」
彼の声は低く、静かだった。
それなのに、心の奥深くにまで届いてしまう。
別れ際、ルシアンは玄関先で足を止めた。
陽光が差し込み、彼の金の徽章が光る。
「ミッシェル嬢。
もしあなたが、本当に誰かに傷つけられているなら——」
彼はわずかに微笑んだ。
「その人を、代わりに責める役目を、私が引き受けましょう」
その言葉に、ミッシェルは何も言えなかった。
頬に吹き込む風が、涙の跡を乾かしていく。
馬車が遠ざかる音を聞きながら、彼女は胸に手を当てた。
——あの瞳は、どうしてあんなに優しかったのだろう。
見つめられた瞬間、自分の心が少しだけ軽くなった。
そして気づいた。
“見つめられる”ということが、こんなにも救いになるのだと。
その夜、彼女は久しぶりに手紙を綴った。
宛先はカルバン。
けれど書き出してすぐに、筆が止まった。
“あなたに会いたい”
そう書こうとして、言葉が滲む。
胸の奥で、別の声が囁いた。
——もし会っても、あなたはもう、私を見ない。
ミッシェルは震える手で便箋を閉じ、蝋で封をした。
封蝋に刻まれた家紋の上に、そっと指先を置く。
「……あなたの瞳に、もう一度映る日は来るのかしら」
答えは、夜の静寂に溶けていった。
窓の外では、月明かりに照らされた薔薇が、静かに散っていた。
539
あなたにおすすめの小説
その結婚は、白紙にしましょう
香月まと
恋愛
リュミエール王国が姫、ミレナシア。
彼女はずっとずっと、王国騎士団の若き団長、カインのことを想っていた。
念願叶って結婚の話が決定した、その夕方のこと。
浮かれる姫を前にして、カインの口から出た言葉は「白い結婚にとさせて頂きたい」
身分とか立場とか何とか話しているが、姫は急速にその声が遠くなっていくのを感じる。
けれど、他でもない憧れの人からの嘆願だ。姫はにっこりと笑った。
「分かりました。その提案を、受け入れ──」
全然受け入れられませんけど!?
形だけの結婚を了承しつつも、心で号泣してる姫。
武骨で不器用な王国騎士団長。
二人を中心に巻き起こった、割と短い期間のお話。
王太子殿下との思い出は、泡雪のように消えていく
木風
恋愛
王太子殿下の生誕を祝う夜会。
侯爵令嬢にとって、それは一生に一度の夢。
震える手で差し出された御手を取り、ほんの数分だけ踊った奇跡。
二度目に誘われたとき、心は淡い期待に揺れる。
けれど、その瞳は一度も自分を映さなかった。
殿下の視線の先にいるのは誰よりも美しい、公爵令嬢。
「ご一緒いただき感謝します。この後も楽しんで」
優しくも残酷なその言葉に、胸の奥で夢が泡雪のように消えていくのを感じた。
※本作は「小説家になろう」「アルファポリス」「エブリスタ」にて同時掲載しております。
表紙イラストは、雪乃さんに描いていただきました。
※イラストは描き下ろし作品です。無断転載・無断使用・AI学習等は一切禁止しております。
©︎泡雪 / 木風 雪乃
十六歳の妹の誕生日、私はこの世を去る。
あいみ
恋愛
碌に手入れもされていない赤毛の伯爵令嬢、スカーレット。
宝石のように澄んだ青い髪をした伯爵令嬢、ルビア。
対極のような二人は姉妹。母親の違う。
お世辞にも美しいと言えない前妻の子供であるスカーレットは誰からも愛されない。
そばかすだらけで、笑顔が苦手な醜い姉。
天使のように愛らしく、誰からも好かれる可愛い妹。
生まれつき体の弱いルビアは長くは生きられないと宣告されていた。
両親の必死に看病や、“婚約者の献身的なサポート”のおかげで、日常生活が送れるようになるまで回復した。
だが……。運命とは残酷である。
ルビアの元に死神から知らせが届く。
十六歳の誕生日、ルビアの魂は天に還る、と。
美しい愛しているルビア。
失いたくない。殺されてなるものか。
それぞれのルビアを大切に思う想いが、一つの選択をさせた。
生まれてくる価値のなかった、醜いスカーレットを代わりに殺そう、と。
これは彼女が死ぬ前と死んだ後の、少しの物語。
侯爵家の婚約者に手を出す意味、わかってます?
碧井 汐桜香
恋愛
侯爵令嬢ジョセリアは地味な外見をしている少女だ。いつも婚約者のアランとその取り巻きの少女たちに罵倒されている。
しかし、今日はアランの取り巻きは一人しかおらず、いつも無視を決め込んでいたジョセリアが口を開いた。
嫌われたと思って離れたのに
ラム猫
恋愛
私は、婚約者のカイルに嫌われたと思った。冷たくそっけなく、近づくたびに避けられる日々。
距離を置くことを選び、留学の準備も進めて心を落ち着かせようとするけれど——。
愛を騙るな
篠月珪霞
恋愛
「王妃よ、そなた一体何が不満だというのだ」
「………」
「贅を尽くした食事、ドレス、宝石、アクセサリー、部屋の調度も最高品質のもの。王妃という地位も用意した。およそ世の女性が望むものすべてを手に入れているというのに、何が不満だというのだ!」
王妃は表情を変えない。何を言っても宥めてもすかしても脅しても変わらない王妃に、苛立った王は声を荒げる。
「何とか言わぬか! 不敬だぞ!」
「……でしたら、牢に入れるなり、処罰するなりお好きに」
「い、いや、それはできぬ」
「何故? 陛下の望むままなさればよろしい」
「余は、そなたを愛しているのだ。愛するものにそのような仕打ち、到底考えられぬ」
途端、王妃の嘲る笑い声が響く。
「畜生にも劣る陛下が、愛を騙るなどおこがましいですわね」
親切なミザリー
みるみる
恋愛
第一王子アポロの婚約者ミザリーは、「親切なミザリー」としてまわりから慕われていました。
ところが、子爵家令嬢のアリスと偶然出会ってしまったアポロはアリスを好きになってしまい、ミザリーを蔑ろにするようになりました。アポロだけでなく、アポロのまわりの友人達もアリスを慕うようになりました。
ミザリーはアリスに嫉妬し、様々な嫌がらせをアリスにする様になりました。
こうしてミザリーは、いつしか親切なミザリーから悪女ミザリーへと変貌したのでした。
‥ですが、ミザリーの突然の死後、何故か再びミザリーの評価は上がり、「親切なミザリー」として人々に慕われるようになり、ミザリーが死後海に投げ落とされたという崖の上には沢山の花が、毎日絶やされる事なく人々により捧げられ続けるのでした。
※不定期更新です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる