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第5章 嘘の誓い
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王都では、毎夜のように祈祷の鐘が鳴っていた。
聖女アリアの祈りが続く限り、王国は豊穣に恵まれる——
そんな噂が、街のどこを歩いても聞こえてくる。
だが、ミッシェルの耳には、その音が遠い。
胸の奥に小さく刺さった棘が、日に日に深く沈んでいくようだった。
カルバンからの手紙は、変わらず届いていた。
丁寧で、律儀で、どこまでも礼儀正しい文章。
しかし、その中にはもう、ひとかけらの“情”もなかった。
形式ばった文の終わりには、決まって同じ言葉が添えられている。
——『聖女殿はお健やかです。どうか君も穏やかに過ごされますよう』
まるで彼女が、遠い誰かになってしまったような言葉だった。
その日、神殿の広場では聖女の祈祷が公開された。
カルバンはその傍らに立ち、群衆を守るように剣を携えている。
白い衣をまとったアリアが壇上で手を掲げ、光の雨が降り注いだ。
人々が歓声をあげ、涙を流しながら膝をつく。
——まるで奇跡の舞台だった。
ミッシェルは人々の後方で、そっとその光景を見つめていた。
カルバンの横顔。
眩しいほどに真剣で、気高くて、
けれどその眼差しは、彼女の知らない優しさを湛えていた。
あの眼差しを、一度でいいから自分に向けてほしかった。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
祈祷が終わり、人々が散り始めたころ。
ミッシェルは人混みの間から離れようとした。
そのとき、不意に声がした。
「……ミッシェル?」
振り向けば、カルバンが立っていた。
人々の視線が消えた後の広場で、
風が二人の間をすり抜ける。
「まさか、来ていたとは思わなかった」
「ええ……聖女様のお祈りを拝見したくて。
とても美しい祈りでした」
「そうか。……ありがとう」
たったそれだけのやり取り。
けれど、その声が他人のように冷たく響いた。
彼は疲れているのだろうか。
それとも、もう話すべき言葉が見つからないのだろうか。
ミッシェルは微笑んだ。
「カルバン様は、お忙しそうですね」
「ああ……聖女殿はまだ体調が戻られぬ。
彼女を守ることが今は最優先だ」
そう言って、彼はほんの少し視線を逸らした。
それが“嘘”だとわかった。
アリアが病に伏しているのは本当でも、
その声には“守りたい人”への感情が混じっていた。
ただの義務ではない、もっと深い何かが。
「聖女様のご回復を、心より祈っておりますわ」
そう言う自分の声が、かすかに震えた。
カルバンは気づかない。
それとも、気づかないふりをしたのかもしれない。
「ありがとう。君は優しいな。
……だから、そんな顔をしないでくれ」
「顔?」
「悲しい時でも、君は笑おうとする。
それを見ると……胸が痛む」
その言葉に、ミッシェルの微笑みが壊れた。
涙が溢れそうになるのを必死に堪えながら、
彼の袖をつかむ。
「カルバン様……」
声が震える。
それでも言わなければと思った。
「わたし、もう少しだけ、あなたのそばにいたいんです」
「ミッシェル——」
彼が何か言いかけた瞬間、
遠くで人の声がした。
「カルバン公爵! 聖女殿がお呼びです!」
カルバンはわずかに顔を歪め、
しかしすぐに表情を整えて頷いた。
「すまない。また、後で——」
そのまま背を向けて走り去る。
白い外套が風を切り、彼女の前から消えていく。
伸ばした手は、虚空を掴むだけだった。
——“後で”なんて、もう来ない。
そう思った。
その瞬間、彼の背中に言葉を投げる代わりに、
小さく呟いた。
「どうぞ あなたが守りたい人の場所へ行って下さい……。」
涙が頬を伝っていた……。
夜。
屋敷に戻ったミッシェルは、机の上に一通の便箋を広げた。
月明かりに照らされた文字が、ゆっくりと並んでいく。
『あなたの務めが終わるその日まで、
わたしは祈り続けます。
どうか、その光があなたを包みますように。
そして、もし願いがひとつ叶うなら——
もう一度だけ、わたしを“ミッシェル”と呼んでください。』
書き終えた手紙を封じ、封蝋を押す。
その瞬間、胸の奥で何かが静かに終わった気がした。
ミッシェルは立ち上がり、鏡の前に立つ。
瞳の中の自分は、穏やかに微笑んでいた。
悲しみも、愛も、すべてを覆い隠す微笑み。
——これでいい。
彼の誇りを、汚したくはない。
カーテンを開けると、夜空に星が瞬いていた。
遠くの塔の上、祈祷の光がまた輝いている。
その下で、彼はきっと聖女の傍にいるのだろう。
「どうか、あなたの祈りが本物でありますように」
そう呟いて、彼女は胸の前で手を組んだ。
涙はもう出なかった。
ただ静かに、笑みだけが残った。
翌朝、王宮からの知らせが届いた。
——聖女アリアの病、奇跡的に快復。
その傍らには、常にカルバン公爵の姿があったと。
侍女が報告を読み上げる間、
ミッシェルはただ静かに頷いた。
「それは……良いことですわね」
声が、少しだけ遠く響いた。
——嘘でもいい。
彼が「幸せそうだ」と思えるなら、それでいい。
それが、彼女の最後の誓いだった。
そしてその誓いこそが、
最も痛い“嘘の誓い”となることを、
彼女はまだ知らない。
聖女アリアの祈りが続く限り、王国は豊穣に恵まれる——
そんな噂が、街のどこを歩いても聞こえてくる。
だが、ミッシェルの耳には、その音が遠い。
胸の奥に小さく刺さった棘が、日に日に深く沈んでいくようだった。
カルバンからの手紙は、変わらず届いていた。
丁寧で、律儀で、どこまでも礼儀正しい文章。
しかし、その中にはもう、ひとかけらの“情”もなかった。
形式ばった文の終わりには、決まって同じ言葉が添えられている。
——『聖女殿はお健やかです。どうか君も穏やかに過ごされますよう』
まるで彼女が、遠い誰かになってしまったような言葉だった。
その日、神殿の広場では聖女の祈祷が公開された。
カルバンはその傍らに立ち、群衆を守るように剣を携えている。
白い衣をまとったアリアが壇上で手を掲げ、光の雨が降り注いだ。
人々が歓声をあげ、涙を流しながら膝をつく。
——まるで奇跡の舞台だった。
ミッシェルは人々の後方で、そっとその光景を見つめていた。
カルバンの横顔。
眩しいほどに真剣で、気高くて、
けれどその眼差しは、彼女の知らない優しさを湛えていた。
あの眼差しを、一度でいいから自分に向けてほしかった。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
祈祷が終わり、人々が散り始めたころ。
ミッシェルは人混みの間から離れようとした。
そのとき、不意に声がした。
「……ミッシェル?」
振り向けば、カルバンが立っていた。
人々の視線が消えた後の広場で、
風が二人の間をすり抜ける。
「まさか、来ていたとは思わなかった」
「ええ……聖女様のお祈りを拝見したくて。
とても美しい祈りでした」
「そうか。……ありがとう」
たったそれだけのやり取り。
けれど、その声が他人のように冷たく響いた。
彼は疲れているのだろうか。
それとも、もう話すべき言葉が見つからないのだろうか。
ミッシェルは微笑んだ。
「カルバン様は、お忙しそうですね」
「ああ……聖女殿はまだ体調が戻られぬ。
彼女を守ることが今は最優先だ」
そう言って、彼はほんの少し視線を逸らした。
それが“嘘”だとわかった。
アリアが病に伏しているのは本当でも、
その声には“守りたい人”への感情が混じっていた。
ただの義務ではない、もっと深い何かが。
「聖女様のご回復を、心より祈っておりますわ」
そう言う自分の声が、かすかに震えた。
カルバンは気づかない。
それとも、気づかないふりをしたのかもしれない。
「ありがとう。君は優しいな。
……だから、そんな顔をしないでくれ」
「顔?」
「悲しい時でも、君は笑おうとする。
それを見ると……胸が痛む」
その言葉に、ミッシェルの微笑みが壊れた。
涙が溢れそうになるのを必死に堪えながら、
彼の袖をつかむ。
「カルバン様……」
声が震える。
それでも言わなければと思った。
「わたし、もう少しだけ、あなたのそばにいたいんです」
「ミッシェル——」
彼が何か言いかけた瞬間、
遠くで人の声がした。
「カルバン公爵! 聖女殿がお呼びです!」
カルバンはわずかに顔を歪め、
しかしすぐに表情を整えて頷いた。
「すまない。また、後で——」
そのまま背を向けて走り去る。
白い外套が風を切り、彼女の前から消えていく。
伸ばした手は、虚空を掴むだけだった。
——“後で”なんて、もう来ない。
そう思った。
その瞬間、彼の背中に言葉を投げる代わりに、
小さく呟いた。
「どうぞ あなたが守りたい人の場所へ行って下さい……。」
涙が頬を伝っていた……。
夜。
屋敷に戻ったミッシェルは、机の上に一通の便箋を広げた。
月明かりに照らされた文字が、ゆっくりと並んでいく。
『あなたの務めが終わるその日まで、
わたしは祈り続けます。
どうか、その光があなたを包みますように。
そして、もし願いがひとつ叶うなら——
もう一度だけ、わたしを“ミッシェル”と呼んでください。』
書き終えた手紙を封じ、封蝋を押す。
その瞬間、胸の奥で何かが静かに終わった気がした。
ミッシェルは立ち上がり、鏡の前に立つ。
瞳の中の自分は、穏やかに微笑んでいた。
悲しみも、愛も、すべてを覆い隠す微笑み。
——これでいい。
彼の誇りを、汚したくはない。
カーテンを開けると、夜空に星が瞬いていた。
遠くの塔の上、祈祷の光がまた輝いている。
その下で、彼はきっと聖女の傍にいるのだろう。
「どうか、あなたの祈りが本物でありますように」
そう呟いて、彼女は胸の前で手を組んだ。
涙はもう出なかった。
ただ静かに、笑みだけが残った。
翌朝、王宮からの知らせが届いた。
——聖女アリアの病、奇跡的に快復。
その傍らには、常にカルバン公爵の姿があったと。
侍女が報告を読み上げる間、
ミッシェルはただ静かに頷いた。
「それは……良いことですわね」
声が、少しだけ遠く響いた。
——嘘でもいい。
彼が「幸せそうだ」と思えるなら、それでいい。
それが、彼女の最後の誓いだった。
そしてその誓いこそが、
最も痛い“嘘の誓い”となることを、
彼女はまだ知らない。
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