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第1章 静かな午後の庭園
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午後の日差しが、庭園の白い石畳をやわらかく照らしていた。
花々の香りが風に混ざり、紅茶の湯気といっしょに、春の匂いが漂う。
リディア・エルフォードは、庭の中央にある丸いテーブルの前で、静かにティーポットを傾けていた。
薄い金の縁をもつ白磁のカップに、琥珀色の液体が静かに満ちていく。
指先がわずかに震える。理由は風のせいではなかった。
「……どうぞ、アーヴィン様」
向かいに座る青年が、やや照れたように頷いた。
漆黒の髪に陽が反射し、鋭く整った横顔が光を受けて一瞬だけ柔らかくなる。
彼——アーヴィン・グレイフォード公爵は、彼女の幼なじみであり、この領の主だった。
「ありがとう、リディア。君の淹れる紅茶は、どうしてこうも香りがいいんだろうな」
「……わたしの手ではなく、茶葉がいいのですわ」
「それでも、同じ茶葉を他の誰が淹れても、こうはならない気がする」
アーヴィンの声はいつも通り低く穏やかだったが、リディアにはその穏やかさの奥に、かすかな優しさが潜んでいるのを感じ取っていた。
けれど彼はそれ以上言葉を重ねず、カップを唇に運ぶ。
沈黙が、ふたりの間を包む。
けれどそれは不快な静けさではなかった。
彼のいる空気は、ただそれだけで心地よい。
その証拠に、紅茶の湯気が立ちのぼるたび、胸の奥まで温かくなる。
「……お変わりは?」
「いや、もう少しこの香りを楽しみたい。君の淹れてくれた紅茶が一番好きだ。‥‥」
不意に言われ、リディアの手が止まった。
頬がほんのりと熱を帯びる。
けれどアーヴィンは、自分が何を言ったのか気づいたように小さく咳払いをした。
「……悪い、言葉の綾だ」
「いいえ……嬉しいです」
視線を合わせられず、リディアはうつむいた。
彼と向かい合うこのお茶の時間は、週に一度だけ。
そのわずかな時間が、彼女にとって何よりの宝物だった。
だからこそ、たとえ言葉が少なくても、それで十分だったのだ。
「今日は、いつもより少し早いお時間でしたのね」
「午前の視察が思いのほか早く終わってね。少しでも君の紅茶を飲みたくて、馬を飛ばしてきた」
「そんな……お忙しいのに」
「忙しくても来るさ。これを逃したら、一週間、味気ない日々になる」
さらりと言われた言葉が、リディアの胸に静かに落ちた。
けれど、そこに恋の響きを求めるのは傲慢だと、自分に言い聞かせる。
彼にとって自分は——幼なじみのまま。
屋敷の主と、隣家の令嬢。
それ以上でも、それ以下でもない。
けれど、それでもいい。
彼の傍で、こうして穏やかに時間を過ごせるなら——。
小鳥が一羽、枝から枝へと飛び移り、やわらかくさえずる。
アーヴィンはふと顔を上げ、その音に耳を傾けた。
風に揺れる黒髪。
その瞳の奥に、遠い光が見えた。
「……なあ、リディア。子どもの頃、あの丘で一緒に鳥を追いかけたのを覚えているか?」
「ええ。あなたがわたしの髪に花冠をかけて、『王女様みたいだ』と笑った日ですね」
「……そんなこと、言ったか」
「ええ。忘れてしまわれたのですか?」
アーヴィンが顔をそらす。
わずかに耳が赤い。
リディアは小さく笑った。
彼は昔から、照れ隠しが下手だった。
優しいくせに、不器用。
だからこそ、彼女は惹かれてしまうのだろう。
「君は変わらないな。穏やかで、いつも微笑んでいて」
「それしか取り柄がありませんもの」
「……俺は、そんなところが好きだ」
リディアの指先が震えた。
けれど次の瞬間、アーヴィンはいつものようにカップを持ち上げ、冗談めかして笑う。
「……つまりだ、君のような人と結婚できる男は、幸せ者だということだよ」
「……そう、でしょうか」
思わず問い返すと、彼は少し困ったように眉を下げた。
その目は優しいのに、どこか遠い。
彼の視線の先に、自分がいないような気がして、胸の奥がひどく冷えた。
その沈黙を埋めるように、遠くで鐘の音が鳴る。
午後三時を告げる鐘。
リディアは、そっと立ち上がってカップを片づけた。
「そろそろお時間ですね。夕刻から会議があるのでしょう?」
「よく知っているな。……さすがだ」
「あなたの予定を知っていることが、わたしの密かな特技ですの」
冗談めかして言ったつもりだったが、アーヴィンは少しだけ真面目な顔になった。
カップを置き、立ち上がると、テーブルを回り込んでリディアのそばに来る。
「……リディア。無理はしていないか?」
「え?」
「君の屋敷、今は人手が少ないだろう。父上の領地に出向くことも多くなったと聞いた。だから……」
「大丈夫です。父も兄も、わたしを信頼してくれていますから」
「……そうか」
アーヴィンはしばらく何かを言いかけたが、結局飲み込むようにして口を閉じた。
代わりに、微笑みながら帽子を手に取る。
「次は、来週の同じ時間に」
「ええ……お待ちしております」
風が彼のマントを揺らし、花の香りを運んでいく。
去っていく背中を見つめながら、リディアは胸の奥で小さくつぶやいた。
(あの方の隣にいる人は、いつか——わたしではなくなるのかもしれない)
その予感は、まだかすかな痛みだった。
けれどその日、庭の奥に新しい馬車の影が止まるのを、彼女はまだ知らなかった。
――やがて、その馬車がすべてを変える。
紅茶の香りが消える午後が、もうすぐ訪れようとしていた。
花々の香りが風に混ざり、紅茶の湯気といっしょに、春の匂いが漂う。
リディア・エルフォードは、庭の中央にある丸いテーブルの前で、静かにティーポットを傾けていた。
薄い金の縁をもつ白磁のカップに、琥珀色の液体が静かに満ちていく。
指先がわずかに震える。理由は風のせいではなかった。
「……どうぞ、アーヴィン様」
向かいに座る青年が、やや照れたように頷いた。
漆黒の髪に陽が反射し、鋭く整った横顔が光を受けて一瞬だけ柔らかくなる。
彼——アーヴィン・グレイフォード公爵は、彼女の幼なじみであり、この領の主だった。
「ありがとう、リディア。君の淹れる紅茶は、どうしてこうも香りがいいんだろうな」
「……わたしの手ではなく、茶葉がいいのですわ」
「それでも、同じ茶葉を他の誰が淹れても、こうはならない気がする」
アーヴィンの声はいつも通り低く穏やかだったが、リディアにはその穏やかさの奥に、かすかな優しさが潜んでいるのを感じ取っていた。
けれど彼はそれ以上言葉を重ねず、カップを唇に運ぶ。
沈黙が、ふたりの間を包む。
けれどそれは不快な静けさではなかった。
彼のいる空気は、ただそれだけで心地よい。
その証拠に、紅茶の湯気が立ちのぼるたび、胸の奥まで温かくなる。
「……お変わりは?」
「いや、もう少しこの香りを楽しみたい。君の淹れてくれた紅茶が一番好きだ。‥‥」
不意に言われ、リディアの手が止まった。
頬がほんのりと熱を帯びる。
けれどアーヴィンは、自分が何を言ったのか気づいたように小さく咳払いをした。
「……悪い、言葉の綾だ」
「いいえ……嬉しいです」
視線を合わせられず、リディアはうつむいた。
彼と向かい合うこのお茶の時間は、週に一度だけ。
そのわずかな時間が、彼女にとって何よりの宝物だった。
だからこそ、たとえ言葉が少なくても、それで十分だったのだ。
「今日は、いつもより少し早いお時間でしたのね」
「午前の視察が思いのほか早く終わってね。少しでも君の紅茶を飲みたくて、馬を飛ばしてきた」
「そんな……お忙しいのに」
「忙しくても来るさ。これを逃したら、一週間、味気ない日々になる」
さらりと言われた言葉が、リディアの胸に静かに落ちた。
けれど、そこに恋の響きを求めるのは傲慢だと、自分に言い聞かせる。
彼にとって自分は——幼なじみのまま。
屋敷の主と、隣家の令嬢。
それ以上でも、それ以下でもない。
けれど、それでもいい。
彼の傍で、こうして穏やかに時間を過ごせるなら——。
小鳥が一羽、枝から枝へと飛び移り、やわらかくさえずる。
アーヴィンはふと顔を上げ、その音に耳を傾けた。
風に揺れる黒髪。
その瞳の奥に、遠い光が見えた。
「……なあ、リディア。子どもの頃、あの丘で一緒に鳥を追いかけたのを覚えているか?」
「ええ。あなたがわたしの髪に花冠をかけて、『王女様みたいだ』と笑った日ですね」
「……そんなこと、言ったか」
「ええ。忘れてしまわれたのですか?」
アーヴィンが顔をそらす。
わずかに耳が赤い。
リディアは小さく笑った。
彼は昔から、照れ隠しが下手だった。
優しいくせに、不器用。
だからこそ、彼女は惹かれてしまうのだろう。
「君は変わらないな。穏やかで、いつも微笑んでいて」
「それしか取り柄がありませんもの」
「……俺は、そんなところが好きだ」
リディアの指先が震えた。
けれど次の瞬間、アーヴィンはいつものようにカップを持ち上げ、冗談めかして笑う。
「……つまりだ、君のような人と結婚できる男は、幸せ者だということだよ」
「……そう、でしょうか」
思わず問い返すと、彼は少し困ったように眉を下げた。
その目は優しいのに、どこか遠い。
彼の視線の先に、自分がいないような気がして、胸の奥がひどく冷えた。
その沈黙を埋めるように、遠くで鐘の音が鳴る。
午後三時を告げる鐘。
リディアは、そっと立ち上がってカップを片づけた。
「そろそろお時間ですね。夕刻から会議があるのでしょう?」
「よく知っているな。……さすがだ」
「あなたの予定を知っていることが、わたしの密かな特技ですの」
冗談めかして言ったつもりだったが、アーヴィンは少しだけ真面目な顔になった。
カップを置き、立ち上がると、テーブルを回り込んでリディアのそばに来る。
「……リディア。無理はしていないか?」
「え?」
「君の屋敷、今は人手が少ないだろう。父上の領地に出向くことも多くなったと聞いた。だから……」
「大丈夫です。父も兄も、わたしを信頼してくれていますから」
「……そうか」
アーヴィンはしばらく何かを言いかけたが、結局飲み込むようにして口を閉じた。
代わりに、微笑みながら帽子を手に取る。
「次は、来週の同じ時間に」
「ええ……お待ちしております」
風が彼のマントを揺らし、花の香りを運んでいく。
去っていく背中を見つめながら、リディアは胸の奥で小さくつぶやいた。
(あの方の隣にいる人は、いつか——わたしではなくなるのかもしれない)
その予感は、まだかすかな痛みだった。
けれどその日、庭の奥に新しい馬車の影が止まるのを、彼女はまだ知らなかった。
――やがて、その馬車がすべてを変える。
紅茶の香りが消える午後が、もうすぐ訪れようとしていた。
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