『紅茶の香りが消えた午後に』

柴田はつみ

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第3章 奪われた午後

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 春の終わりを告げる風が、庭園の白い花びらをさらっていった。
 その日も、リディアはいつものように紅茶の準備をしていた。
 けれど、胸の奥では言いようのない不安が広がっていた。
 先週の茶会以来、アーヴィンの表情が少しだけ違って見えたからだ。

「お嬢様、こちらのポットもお持ちしますか?」
 マリアが問う。
「ええ、お願い。……今日は、少し多めに淹れましょう」

 声を整えながら言ったが、自分でもその理由がわかっていた。
 ——彼が、またあの人を連れてくる気がした。

 予感は、当たった。

「リディア! 急にすまない、少し同行者を連れてきた」

 風に乗って届いた声に、心臓が跳ねた。
 庭の門をくぐって現れたのは、アーヴィンと、その隣を歩くミレーユ。
 淡い桃色のドレスに笑顔を添えた伯爵令嬢は、陽の光をまとうように輝いていた。

「こんにちは、リディア様。あまりに素敵な庭園でしたから……また来てしまいましたわ」

「ようこそ、ミレーユ様。お会いできて光栄です」

 言葉は丁寧でも、声の奥に小さな痛みがあった。
 アーヴィンはそれに気づく様子もなく、穏やかに笑った。

「君が紅茶を楽しみにしていると話したら、ぜひ味わってみたいとおっしゃってね」

「まあ……アーヴィン様が、そんなことを?」

「ええ。あの香りが忘れられなくて」

 ミレーユが楽しそうに笑う。
 その声に重なるように、アーヴィンが頷いた。

「確かに、ここの紅茶は格別だからな」

 リディアの胸の奥で、何かが小さく砕けた。
 ——“ここの”紅茶。
 それは、いつから“リディアの紅茶”ではなくなったのだろう。

 ミレーユがテーブルにつくと、会話は自然に花開いた。
 社交界の話、王都の噂、舞踏会の趣向。
 どの話題も、リディアの知らない世界のこと。
 アーヴィンも普段より口数が多い気がした。

「王都の夜会は、今季は花のモチーフが流行ですの。ドレスも、男性の胸飾りも花尽くしで」

「……それは華やかだな。俺のような男には、少し眩しすぎるが」

「いいえ、アーヴィン様ならどんな花でも似合いますわ。きっと、皆が目を奪われるでしょう」

 彼女の言葉に、アーヴィンは照れたように微笑んだ。
 その笑みを見た瞬間、リディアの手の中でスプーンが小さく音を立てた。
 彼女は慌てて口を開く。

「アーヴィン様には、深紅の薔薇が似合いますわ。強くて、誇り高いから」

 アーヴィンが一瞬だけこちらを見た。
 けれどその視線は、すぐにミレーユの方へ向かう。
 ミレーユが楽しげに続ける。

「まあ、それなら私は白薔薇かしら? どちらが隣に飾られたら美しいかしらね?」

 冗談めかした声に、アーヴィンが苦笑した。
 そのやり取りの間、リディアの胸の中で、紅茶の香りが急に遠ざかっていく。

(わたし、ここにいる意味があるのかしら……)

 その思いが喉の奥で苦く絡まり、笑顔が崩れそうになる。
 けれど——彼の前で泣くことだけは、したくなかった。

 代わりに、静かにカップを差し出した。
「おかわりをどうぞ」

「ありがとう、リディア」
 アーヴィンは受け取りながら、ふと真面目な顔になった。
「君、顔色が悪い。大丈夫か?」

「……ええ。少し日差しが強いだけです」

 心配そうな彼の目。
 その優しさが嬉しくて、同時に痛かった。
 ミレーユがくすくすと笑う。

「まぁ、優しいのですね。アーヴィン様は本当に、どなたにも気を配られる方ですのね」

「いや、そんなつもりは……」

 彼は言葉を濁したが、リディアにはその一瞬の照れ隠しが痛いほど愛しかった。
 それなのに——今は自分に向けられるものではないように感じた。

 風が吹き、テーブルクロスの端がめくれる。
 ミレーユの金髪が陽を弾き、輝いた。
 リディアはその光に目を細めながら、そっと視線を落とす。

「アーヴィン様、来週の舞踏会にはいらっしゃるのですか?」
「予定ではな。……だが社交が苦手でね」
「まぁ! ではご一緒に行けたら心強いですわ」

 リディアの指が、ポットの取っ手を強く握る。
 熱い。
 それでも離せなかった。

(あの人と……一緒に行くの?)

 問いを口にできるはずもなく、紅茶を注ぐ音だけが響いた。
 その沈黙を破ったのは、ミレーユの明るい声。

「リディア様、あなたもいらっしゃるのでしょう? 三人でお話できたら楽しいですわ」

「……ええ、もしご都合が合えば」

 声が震えないように、ゆっくりと息を吸う。
 けれど、胸の奥ではもう何かが壊れ始めていた。

 その日の茶会が終わるころには、陽は傾き、庭の影が長く伸びていた。
 ミレーユを見送るアーヴィンの背中が、夕陽に染まっている。
 リディアはその光景を、屋敷のテラスから黙って見つめた。

「お嬢様……」
 マリアが声をかける。
「紅茶、冷めてしまいました」

「ええ。……でも、それでいいの」

 リディアは小さく微笑み、空になったカップを見つめた。
 透明な器の底に映る自分の顔が、少しだけ違って見えた。
 もう昔のように無邪気には笑えない。
 そう気づいた瞬間、風がふと頬を撫でた。
 その風の中に、遠ざかる馬車の音が混じっていた。

(アーヴィン様……わたし、どうしてこんなに苦しいのかしら)

 紅茶の香りが消えた午後。
 彼女の中に残ったのは、微かな温度と、言葉にならない痛みだけだった。
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