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第4章 近づく影
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梅雨の気配を孕んだ風が、屋敷の庭を抜けていった。
薔薇の花弁はしっとりと濡れ、香りは少し重たくなっている。
リディアはその香りを胸いっぱいに吸い込み、深呼吸をした。
けれど心は晴れなかった。
あれから、アーヴィンは頻繁にミレーユを屋敷に招くようになった。
庭園の手入れに口を出し、花の色を選び、飾り付けを楽しげに語る二人の姿を、彼女は何度も見かけた。
以前は、自分のために咲いているように見えた庭が、今はすっかり他人の色を帯びているように感じる。
(こんな気持ち……知らなければよかった)
胸の奥がじんわりと痛い。
侍女のマリアが紅茶を持ってきたが、香りを嗅ぐだけで苦しくなる。
「お嬢様。お召しになりませんか?」
「いいの……今日は、香りだけで十分よ」
そう言って微笑むが、笑みはすぐに崩れた。
窓の外には、アーヴィンの屋敷の庭が見える。
彼とミレーユが並んで花壇を見ていた。
アーヴィンの表情は穏やかで、彼女が何かを言うたび、少し笑ってうなずいている。
「……あの方、よくお笑いになりますね」
思わずこぼれた言葉に、マリアが小さく息をのむ。
「昔は、あんなに柔らかいお顔をなさらなかったのに」
「……お嬢様」
マリアが何かを言いかけたが、リディアは首を振った。
「いいの。笑っているお顔が見られるだけで、嬉しいのよ。本当は……」
けれどその声は震えていた。
紅茶の香りと涙が混ざり合って、胸の奥が苦しくなる。
翌日、リディアは思いきって庭園を訪れた。
久しぶりにアーヴィンに会えるかもしれない——そんな小さな希望があった。
だが、彼はすでに誰かと話していた。
ミレーユだ。
彼女は白いパラソルをくるくると回しながら、笑い声を上げていた。
アーヴィンの顔にも、微笑みが浮かんでいる。
いつもの冷静な表情ではない。
まるで——恋をしているような、柔らかい光。
リディアは立ち止まった。
距離を取ったまま、木陰に身を隠す。
視線の先で、ミレーユがアーヴィンの袖をつまんだ。
何かを尋ねるように、顔を近づけて。
彼は笑いながらその手をそっと離し、代わりに花の茎を指で整えた。
ほんの一瞬の仕草だった。
けれど、それだけでリディアの呼吸は止まった。
(そんな顔……私には、一度も見せてくれなかった)
胸の奥が、焼けるように痛む。
それでも、泣くわけにはいかなかった。
彼がこちらを振り向かない限り、涙はただ虚しい。
気づけば、指先が震えていた。
スカートの布を握りしめて、声にならない息を押し殺す。
そんな彼女の存在に気づかないまま、アーヴィンはミレーユに何かを囁いていた。
ミレーユが笑い、肩を揺らす。
その笑い声が、風と一緒に届く。
「……お嬢様、行きましょう」
背後でマリアの声がした。
リディアは頷くしかなかった。
花壇を背に、ゆっくりと歩き出す。
けれど足元が霞んで、世界が少し傾いたように感じた。
夜。
部屋に戻ったリディアは、机の上に置かれた花束を見つめた。
先日、アーヴィンが贈ってくれた薔薇。
けれど今はすでに色褪せ、花弁がいくつも落ちている。
「枯れてしまったのね……」
指先で花弁を拾うと、すぐに崩れて粉のようになった。
その儚さが、まるで自分の心のようで、思わず目を閉じる。
「どうして、あんなに優しいのに、残酷なのかしら……」
彼の言葉を思い出す。
——“君の紅茶が好きだ”。
——“穏やかで微笑む君が好きだ”。
そのどれもが、嘘ではないとわかっている。
けれど、彼の「好き」は、決して「愛している」ではなかった。
静かな部屋で、時計の針が音を刻む。
その音がやけに大きく響いて、涙を誘った。
唇を噛みしめても、溢れた想いは止まらない。
(こんな想いを知らないまま、過ごせたら良かったのに)
紅茶の香りは、いつの間にか涙の匂いに変わっていた。
窓の外、夜風がカーテンを揺らす。
その隙間から見える月は、まるで遠い誰かの心のように淡く滲んでいた。
翌朝。
アーヴィンからの伝言が届いた。
“今日の茶会は延期したい”——それだけの短い言葉。
「……お忙しいのね」
リディアは微笑んだ。
けれど、その笑みの裏では、ひとつの決意が静かに芽生えていた。
(もう、これ以上……彼の隣に立ってはいけない)
それが彼の幸せなら、わたしがいなくてもいい。
そう思えるように、少しずつ心を冷やしていこう。
痛みも、恋も、時間の底に沈めるように。
テーブルの上には、昨日の紅茶が残っていた。
もう湯気も立たないその液体を見つめ、リディアはそっと呟く。
「次に会うときは……笑って“おめでとう”と言えるように」
声は静かに消え、
それと同じように、彼女の中の希望もゆっくりと薄れていった。
薔薇の花弁はしっとりと濡れ、香りは少し重たくなっている。
リディアはその香りを胸いっぱいに吸い込み、深呼吸をした。
けれど心は晴れなかった。
あれから、アーヴィンは頻繁にミレーユを屋敷に招くようになった。
庭園の手入れに口を出し、花の色を選び、飾り付けを楽しげに語る二人の姿を、彼女は何度も見かけた。
以前は、自分のために咲いているように見えた庭が、今はすっかり他人の色を帯びているように感じる。
(こんな気持ち……知らなければよかった)
胸の奥がじんわりと痛い。
侍女のマリアが紅茶を持ってきたが、香りを嗅ぐだけで苦しくなる。
「お嬢様。お召しになりませんか?」
「いいの……今日は、香りだけで十分よ」
そう言って微笑むが、笑みはすぐに崩れた。
窓の外には、アーヴィンの屋敷の庭が見える。
彼とミレーユが並んで花壇を見ていた。
アーヴィンの表情は穏やかで、彼女が何かを言うたび、少し笑ってうなずいている。
「……あの方、よくお笑いになりますね」
思わずこぼれた言葉に、マリアが小さく息をのむ。
「昔は、あんなに柔らかいお顔をなさらなかったのに」
「……お嬢様」
マリアが何かを言いかけたが、リディアは首を振った。
「いいの。笑っているお顔が見られるだけで、嬉しいのよ。本当は……」
けれどその声は震えていた。
紅茶の香りと涙が混ざり合って、胸の奥が苦しくなる。
翌日、リディアは思いきって庭園を訪れた。
久しぶりにアーヴィンに会えるかもしれない——そんな小さな希望があった。
だが、彼はすでに誰かと話していた。
ミレーユだ。
彼女は白いパラソルをくるくると回しながら、笑い声を上げていた。
アーヴィンの顔にも、微笑みが浮かんでいる。
いつもの冷静な表情ではない。
まるで——恋をしているような、柔らかい光。
リディアは立ち止まった。
距離を取ったまま、木陰に身を隠す。
視線の先で、ミレーユがアーヴィンの袖をつまんだ。
何かを尋ねるように、顔を近づけて。
彼は笑いながらその手をそっと離し、代わりに花の茎を指で整えた。
ほんの一瞬の仕草だった。
けれど、それだけでリディアの呼吸は止まった。
(そんな顔……私には、一度も見せてくれなかった)
胸の奥が、焼けるように痛む。
それでも、泣くわけにはいかなかった。
彼がこちらを振り向かない限り、涙はただ虚しい。
気づけば、指先が震えていた。
スカートの布を握りしめて、声にならない息を押し殺す。
そんな彼女の存在に気づかないまま、アーヴィンはミレーユに何かを囁いていた。
ミレーユが笑い、肩を揺らす。
その笑い声が、風と一緒に届く。
「……お嬢様、行きましょう」
背後でマリアの声がした。
リディアは頷くしかなかった。
花壇を背に、ゆっくりと歩き出す。
けれど足元が霞んで、世界が少し傾いたように感じた。
夜。
部屋に戻ったリディアは、机の上に置かれた花束を見つめた。
先日、アーヴィンが贈ってくれた薔薇。
けれど今はすでに色褪せ、花弁がいくつも落ちている。
「枯れてしまったのね……」
指先で花弁を拾うと、すぐに崩れて粉のようになった。
その儚さが、まるで自分の心のようで、思わず目を閉じる。
「どうして、あんなに優しいのに、残酷なのかしら……」
彼の言葉を思い出す。
——“君の紅茶が好きだ”。
——“穏やかで微笑む君が好きだ”。
そのどれもが、嘘ではないとわかっている。
けれど、彼の「好き」は、決して「愛している」ではなかった。
静かな部屋で、時計の針が音を刻む。
その音がやけに大きく響いて、涙を誘った。
唇を噛みしめても、溢れた想いは止まらない。
(こんな想いを知らないまま、過ごせたら良かったのに)
紅茶の香りは、いつの間にか涙の匂いに変わっていた。
窓の外、夜風がカーテンを揺らす。
その隙間から見える月は、まるで遠い誰かの心のように淡く滲んでいた。
翌朝。
アーヴィンからの伝言が届いた。
“今日の茶会は延期したい”——それだけの短い言葉。
「……お忙しいのね」
リディアは微笑んだ。
けれど、その笑みの裏では、ひとつの決意が静かに芽生えていた。
(もう、これ以上……彼の隣に立ってはいけない)
それが彼の幸せなら、わたしがいなくてもいい。
そう思えるように、少しずつ心を冷やしていこう。
痛みも、恋も、時間の底に沈めるように。
テーブルの上には、昨日の紅茶が残っていた。
もう湯気も立たないその液体を見つめ、リディアはそっと呟く。
「次に会うときは……笑って“おめでとう”と言えるように」
声は静かに消え、
それと同じように、彼女の中の希望もゆっくりと薄れていった。
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