『紅茶の香りが消えた午後に』

柴田はつみ

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第5章 沈黙の夕暮れ

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 夏の気配が、少しずつ近づいていた。
 陽は長く、風は暖かいのに、リディアの胸の中だけが冷たかった。
 アーヴィンからの茶会の誘いが、久しぶりに届いたのだ。

(……どうして、今になって)

 思わず胸に手を当てる。
 嬉しさと、怖さと、少しの迷い。
 この数週間、彼とミレーユが並ぶ姿を何度も見てきた。
 笑う声、交わす視線。
 そのどれもが、もう“自分の知らない世界”のようだった。

 それでも——行かずにはいられなかった。
 彼が呼んでくれた。それだけで、心がまだ生きているように思えたから。



 午後の光が傾きかける頃、庭園は静まり返っていた。
 鳥たちも遠くへ飛び去り、紅茶の香りだけが穏やかに漂っている。
 リディアが椅子に腰を下ろして間もなく、低く澄んだ声が聞こえた。

「……待たせたか?」

 振り向くと、アーヴィンが立っていた。
 淡い灰色のシャツに、少し乱れた髪。
 いつもより疲れた顔をしているのに、その瞳は真っ直ぐで、どうしても目を逸らせなかった。

「いえ。今、ちょうど紅茶を淹れたところです」

「久しぶりだな、こうして二人で話すのは」

「ええ……お忙しそうでしたから」

 言葉を選ぶように答えると、アーヴィンはわずかに眉を寄せた。
 彼の手元には、見慣れた書類の束がある。
 いつもの穏やかな雰囲気ではなく、どこか言いにくそうに立ち尽くしていた。

「……最近、君の顔をあまり見ていなかった。体調を崩していないか?」

「ええ、大丈夫です。庭の世話で、少し日に焼けただけ」

「そうか。それなら、よかった」

 それだけで、沈黙が訪れた。
 紅茶の湯気が、風に流れて形を変えていく。
 いつもなら、その静けさが心地よかった。
 けれど今日の沈黙は、なぜか痛い。

「……あの、アーヴィン様」

「うん?」

「最近は、ミレーユ様とご一緒のことが多いようで……」

 その名を出した瞬間、胸がきゅっと縮まった。
 けれど彼は、特に驚く様子もなく頷いた。

「ああ。父上の要請で、領地の協定に関する相談をしている。彼女の家が関わっていてな。……それだけのことだ」

「そう……ですか」

 声が少し掠れた。
 アーヴィンの表情には偽りはない。
 けれど、“それだけのこと”という言葉の軽さが、どうしようもなく寂しい。
 紅茶を一口飲もうとしても、味がしない。

「君は、何か誤解しているのかもしれないな」

「誤解……?」

「最近、君の視線が……どこか遠い気がして。俺のことを避けていないか?」

 問いかけに、リディアはハッとした。
 胸が跳ね、手が震える。
 どうして彼は、そんなことを言うのだろう。
 本当は、避けたくなんてない。
 けれど、彼の隣にいるのが自分ではない現実が、怖かったのだ。

「……避けてなど、おりません」

「なら、なぜあの夜会にも姿を見せなかった?」

「……お二人が、楽しそうにしていらしたから」

 沈黙。
 アーヴィンが目を伏せる。
 リディアの言葉は、想像以上に重く響いたらしい。
 彼は何かを言いかけて、やめた。
 代わりに、静かに息を吐いた。

「……そう見えたのなら、すまない。君を悲しませるつもりはなかった」

「いいえ。謝らないでください。わたしが勝手に……期待していただけですから」

 言葉にした瞬間、胸が裂けるように痛んだ。
 アーヴィンは俯いたまま拳を握る。
 その手が震えているのを、リディアは見てしまう。

 けれど、彼は顔を上げたときにはいつもの穏やかな笑顔に戻っていた。

「……紅茶、まだ温かいか?」

「はい。すぐにお注ぎしますわ」

 彼の優しさが、今は刃のようだった。
 これ以上、優しくしないでほしい。
 その優しさの裏で、自分がどれほど壊れていくのか、彼は知らない。

 カップに紅茶を注ぐ音が、ふたりの沈黙を区切る。
 アーヴィンが一口飲み、ほっとしたように微笑んだ。

「やっぱり……君の紅茶が一番だ」

「……ありがとうございます」

 それだけで、涙がこぼれそうになった。
 喉の奥に熱いものがせり上がる。
 けれど、どうにか笑みを作る。
 その笑顔が、彼の胸を少しでも軽くするなら。

 沈む夕陽が、二人の影を長く伸ばしていた。
 カップの中で紅茶が光を映し、琥珀色に揺れる。
 まるで、それが最後の輝きのように。

「リディア」

「はい」

「俺は……」

 アーヴィンが口を開きかけたそのとき、屋敷の方から声がした。
 ——ミレーユの侍女が、彼を呼んでいる。

「公爵様、ローラン伯爵令嬢がお見えです!」

 時が止まった。
 アーヴィンの瞳に、一瞬の迷いが浮かぶ。
 そして、彼はゆっくりと立ち上がった。

「……すまない。すぐ戻る」

「ええ、どうぞ。……お忙しいでしょうし」

 笑顔のまま、リディアは頭を下げた。
 背を向けたアーヴィンのマントが夕陽を受けて揺れる。
 その姿が門の向こうへ消えるまで、彼女はただ、静かに立ち尽くした。

 残されたテーブルには、もう冷めた紅茶がひとつ。
 その香りは、ゆっくりと空気に溶けて消えていった。

 ——沈黙の夕暮れ。
 それが、ふたりの心が決定的に離れた日の名だった。



 夜。
 リディアはひとり、月明かりの下でカップを洗っていた。
 水に触れるたび、指先が冷たくなる。
 その冷たさに、涙がこぼれた。

「どうして、好きになんてなったのかしら……」

 誰に聞かせるでもなく呟く。
 けれど返ってくるのは、水音だけ。
 そして、その静けさこそが——彼女の世界のすべてだった。
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