硝子の婚約と偽りの戴冠

柴田はつみ

文字の大きさ
2 / 12

第二章:静かなる毒、あるいは揺らぐ信頼

しおりを挟む
王宮の午後は、蜜のように甘く、そしてどこか淀んでいた。
建国祭に向けた準備が加速する中、図書室には古書の匂いと静寂が満ちている。

アリアは窓際の席で、古びた儀礼書を静かに捲っていた。
隣に腰掛けるレオンは、地図にペンを走らせてはいるものの、その視線は頁の上を彷徨っている。

「……レオン様?」

そっと名を呼ぶと、レオンははっとしたように瞬きをした。

「先ほどから、同じところを見ていらっしゃいます。お疲れではありませんか?」

柔らかな気遣いに、レオンは小さく笑って首を振る。
その拍子に、袖口で真珠のカフスが鈍く光った。

「ああ……すまない。少し、考え事をしていた」

彼は一度言葉を切り、何気ない調子を装うように続ける。

「アリア。最近、カイルとは……よく話しているのか?」

思いがけない問いに、アリアはきょとんと目を瞬かせた。

「カイルと、ですか?
護衛ですもの。公務の予定や警備の報告を受けることはありますけれど……」

「そうか」

レオンは頷きながらも、ペンを握る指先に、わずかな力がこもる。

「彼が、君から贈られた“守護の飾り”を、とても大切にしていると聞いてね。
……王女が一人の騎士に、あれほど私的な品を授けるのは、少し誤解を生むのではないかと……」

責める口調ではない。
それでも、その言葉の奥に潜む不安を、アリアは感じ取った。

「誤解……?」

アリアは静かに首を振った。

「あれは、ただの恩賞です。
以前、私を庇って怪我をした時に、感謝のしるしとして贈っただけ。……他意など、ありませんわ」

そして、少しだけ声を落とす。

「誰が、そのような誤解を?」

「……いや」

レオンは視線を逸らし、微笑みで誤魔化した。

「私の考えすぎだ。忘れてくれ」

けれど、その横顔にはすでに、
――「アリアは独占欲が強い。だから、あの騎士を囲っている」
という、セシルの甘い毒が、静かに染み込んでいた。



図書室を出たアリアを待っていたのは、テラスで紅茶を嗜むセシルだった。

「お姉様。そんなに険しいお顔で……。お紅茶、冷めてしまいますよ?」

無垢な微笑み。
けれどアリアは、その奥に揺れるものを見逃さなかった。

「セシル。貴女……レオン様に、カイルのことを何か言ったでしょう?」

「あら?」

セシルは小首を傾げ、悪びれもせず答える。

「私はただ、カイルが飾りを丁寧に磨いているのを見ただけです。
お姉様に大切にされているのね、素敵だわって……それだけ」

彼女は立ち上がり、そっとアリアの耳元へ顔を寄せる。

「でも、お姉様。
レオン様の“癖”、やっぱりご存知ないのですね」

囁きは、甘く、親密で――残酷だった。

「彼、不安になると、無意識に左の袖口に触れるの。
……さっきも、何度も触っていらっしゃらなかった?」

心臓が、嫌な音を立てる。
思い返せば、確かにレオンは真珠のカフスに何度も指を滑らせていた。

「完璧な王子様に見えて、本当はとても臆病なの。
信じていたものに裏切られるのを、何よりも恐れている人なのよ」

セシルは、慈しむような声音で続けた。

「お姉様がカイルを信頼すればするほど……レオン様は、きっと壊れてしまうのに。
……可哀想、でしょう?」

「……やめて」

アリアはセシルの手を振り払い、足早に廊下を去る。

背後で、「ふふっ」と軽やかな笑い声が、冷たい石壁に残響した。



その夜。
アリアは自室で、レオンに宛てた手紙を書いていた。

今日の冷えた空気を溶かすために。
疑念ではなく、愛を――信じている想いを、言葉にして。

「カイル。この手紙を、レオン様の離宮へ。
誰にも見られぬよう、必ずご本人に」

「御意」

跪くカイルは、ふとアリアの顔を見上げる。

「……お疲れのご様子ですね。ご無理はなさらぬよう」

その瞳にあるのは、打算のない、ただの案じ。
アリアは、ほんの少しだけ心が軽くなるのを感じた。

――だが、彼女は知らなかった。

カイルの背後に、セシルが手配した「目撃者」たちが潜んでいることを。
そして、離宮へ向かう途中で、手紙がすり替えられることを。

「今夜、いつもの場所で待っています。――カイル」

アリアの筆跡を完璧に真似た、偽りの文へと。

王宮に満ちる沈黙は、
すでに破滅への秒読みへと姿を変えていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

白い結婚なので無効にします。持参金は全額回収いたします

鷹 綾
恋愛
「白い結婚」であることを理由に、夫から離縁を突きつけられた公爵夫人エリシア。 だが彼女は泣かなかった。 なぜなら――その結婚は、最初から“成立していなかった”から。 教会法に基づき婚姻無効を申請。持参金を全額回収し、彼女が選んだ新たな居場所は修道院だった。 それは逃避ではない。 男の支配から離れ、国家の外側に立つという戦略的選択。 やがて彼女は修道院長として、教育制度の整備、女性領主の育成、商業と医療の再編に関わり、王と王妃を外から支える存在となる。 王冠を欲さず、しかし王冠に影響を与える――白の領域。 一方、かつての夫は地位を失い、制度の中で静かに贖罪の道を歩む。 これは、愛を巡る物語ではない。 「選ばなかった未来」を守り続けた一人の女性の物語。 白は弱さではない。 白は、均衡を保つ力。 白い結婚から始まる、静かなリーガル・リベンジと国家再編の物語。

白い結婚は終わりました。――崩れない家を築くまで

しおしお
恋愛
「干渉しないでくださいませ。その代わり、私も干渉いたしません」 崩れかけた侯爵家に嫁いだ私は、夫と“白い結婚”を結んだ。 助けない。口を出さない。責任は当主が負う――それが条件。 焦りと慢心から無謀な契約を重ね、家を傾かせていく夫。 私は隣に立ちながら、ただ見ているだけ。 放置された結果、彼は初めて自分の判断と向き合うことになる。 そして―― 一度崩れかけた侯爵家は、「選び直す力」を手に入れた。 無理な拡張はしない。 甘い条件には飛びつかない。 不利な契約は、きっぱり拒絶する。 やがてその姿勢は王宮にも波及し、 高利契約に歪められた制度そのものを立て直すことに――。 ざまあは派手ではない。 けれど確実。 焦らせた者も、慢心した者も、 気づけば“選ばれない側”になっている。 これは、干渉しない約束から始まる静かな逆転劇。 そして、白い結婚を終え、信頼で立つ家へと変わっていく物語。 隣に立つという選択こそが、最大のざまあでした。

【完結】婚約破棄されましたが、私は【おでん屋台】で美味しい愛を手に入れたので幸せです

ともボン
恋愛
ランドルフ王国の第一王太子カーズ・ランドルフとの婚約記念の夜。 男爵令嬢カレン・バードレンは、貴族たちのパーティーでカーズから婚約破棄された。 理由は「より強い〈結界姫〉であり最愛の女性が現れたから」という理不尽なものだった。 やがてカレンは実家からも勘当され、一夜にして地位も家族も失って孤独に死を待つだけの身になる。 そんなカレンが最後の晩餐に選んだのは、早死にした最愛の叔父から何度も連れられた【おでん屋台】だった。 カレンは異国の料理に舌鼓みを打っていると、銀髪の美青年――カイトが店内にふらりと入ってきた。 そして、このカイトとの出会いがカレンの運命を変える。 一方、カレンと婚約破棄したことでランドルフ王国はとんでもない目に……。 これはすべてを失った男爵令嬢が、【おでん屋台】によって一夜にしてすべてを手に入れる美味しい恋の物語。

氷の騎士と契約結婚したのですが、愛することはないと言われたので契約通り離縁します!

柚屋志宇
恋愛
「お前を愛することはない」 『氷の騎士』侯爵令息ライナスは、伯爵令嬢セルマに白い結婚を宣言した。 セルマは家同士の政略による契約結婚と割り切ってライナスの妻となり、二年後の離縁の日を待つ。 しかし結婚すると、最初は冷たかったライナスだが次第にセルマに好意的になる。 だがセルマは離縁の日が待ち遠しい。 ※小説家になろう、カクヨムにも掲載しています。

狂おしいほど愛しています、なのでよそへと嫁ぐことに致します

ちより
恋愛
 侯爵令嬢のカレンは分別のあるレディだ。頭の中では初恋のエル様のことでいっぱいになりながらも、一切そんな素振りは見せない徹底ぶりだ。  愛するエル様、神々しくも真面目で思いやりあふれるエル様、その残り香だけで胸いっぱいですわ。  頭の中は常にエル様一筋のカレンだが、家同士が決めた結婚で、公爵家に嫁ぐことになる。愛のない形だけの結婚と思っているのは自分だけで、実は誰よりも公爵様から愛されていることに気づかない。  公爵様からの溺愛に、不器用な恋心が反応したら大変で……両思いに慣れません。

将来の嫁ぎ先は確保済みです……が?!

翠月 瑠々奈
恋愛
ある日階段から落ちて、とある物語を思い出した。 侯爵令息と男爵令嬢の秘密の恋…みたいな。 そしてここが、その話を基にした世界に酷似していることに気づく。 私は主人公の婚約者。話の流れからすれば破棄されることになる。 この歳で婚約破棄なんてされたら、名に傷が付く。 それでは次の結婚は望めない。 その前に、同じ前世の記憶がある男性との婚姻話を水面下で進めましょうか。

「君は完璧だから、放っておいても大丈夫」と笑った夫。~王宮から私が去ったあと「愛していた」と泣きついても、もう手遅れです~

水上
恋愛
「君は完璧だから、放っておいても大丈夫だ」 夫である王太子はそう笑い、泣き真似が得意な見習い令嬢ばかりを優先した。 王太子妃セシリアは、怒り狂うこともなく、静かに心を閉ざす。 「左様でございますか」 彼女は夫への期待というノイズを遮断し、離縁の準備を始めた。

嫌われたと思って離れたのに

ラム猫
恋愛
 私は、婚約者のカイルに嫌われたと思った。冷たくそっけなく、近づくたびに避けられる日々。  距離を置くことを選び、留学の準備も進めて心を落ち着かせようとするけれど——。

処理中です...