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第二章:静かなる毒、あるいは揺らぐ信頼
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王宮の午後は、蜜のように甘く、そしてどこか淀んでいた。
建国祭に向けた準備が加速する中、図書室には古書の匂いと静寂が満ちている。
アリアは窓際の席で、古びた儀礼書を静かに捲っていた。
隣に腰掛けるレオンは、地図にペンを走らせてはいるものの、その視線は頁の上を彷徨っている。
「……レオン様?」
そっと名を呼ぶと、レオンははっとしたように瞬きをした。
「先ほどから、同じところを見ていらっしゃいます。お疲れではありませんか?」
柔らかな気遣いに、レオンは小さく笑って首を振る。
その拍子に、袖口で真珠のカフスが鈍く光った。
「ああ……すまない。少し、考え事をしていた」
彼は一度言葉を切り、何気ない調子を装うように続ける。
「アリア。最近、カイルとは……よく話しているのか?」
思いがけない問いに、アリアはきょとんと目を瞬かせた。
「カイルと、ですか?
護衛ですもの。公務の予定や警備の報告を受けることはありますけれど……」
「そうか」
レオンは頷きながらも、ペンを握る指先に、わずかな力がこもる。
「彼が、君から贈られた“守護の飾り”を、とても大切にしていると聞いてね。
……王女が一人の騎士に、あれほど私的な品を授けるのは、少し誤解を生むのではないかと……」
責める口調ではない。
それでも、その言葉の奥に潜む不安を、アリアは感じ取った。
「誤解……?」
アリアは静かに首を振った。
「あれは、ただの恩賞です。
以前、私を庇って怪我をした時に、感謝のしるしとして贈っただけ。……他意など、ありませんわ」
そして、少しだけ声を落とす。
「誰が、そのような誤解を?」
「……いや」
レオンは視線を逸らし、微笑みで誤魔化した。
「私の考えすぎだ。忘れてくれ」
けれど、その横顔にはすでに、
――「アリアは独占欲が強い。だから、あの騎士を囲っている」
という、セシルの甘い毒が、静かに染み込んでいた。
図書室を出たアリアを待っていたのは、テラスで紅茶を嗜むセシルだった。
「お姉様。そんなに険しいお顔で……。お紅茶、冷めてしまいますよ?」
無垢な微笑み。
けれどアリアは、その奥に揺れるものを見逃さなかった。
「セシル。貴女……レオン様に、カイルのことを何か言ったでしょう?」
「あら?」
セシルは小首を傾げ、悪びれもせず答える。
「私はただ、カイルが飾りを丁寧に磨いているのを見ただけです。
お姉様に大切にされているのね、素敵だわって……それだけ」
彼女は立ち上がり、そっとアリアの耳元へ顔を寄せる。
「でも、お姉様。
レオン様の“癖”、やっぱりご存知ないのですね」
囁きは、甘く、親密で――残酷だった。
「彼、不安になると、無意識に左の袖口に触れるの。
……さっきも、何度も触っていらっしゃらなかった?」
心臓が、嫌な音を立てる。
思い返せば、確かにレオンは真珠のカフスに何度も指を滑らせていた。
「完璧な王子様に見えて、本当はとても臆病なの。
信じていたものに裏切られるのを、何よりも恐れている人なのよ」
セシルは、慈しむような声音で続けた。
「お姉様がカイルを信頼すればするほど……レオン様は、きっと壊れてしまうのに。
……可哀想、でしょう?」
「……やめて」
アリアはセシルの手を振り払い、足早に廊下を去る。
背後で、「ふふっ」と軽やかな笑い声が、冷たい石壁に残響した。
その夜。
アリアは自室で、レオンに宛てた手紙を書いていた。
今日の冷えた空気を溶かすために。
疑念ではなく、愛を――信じている想いを、言葉にして。
「カイル。この手紙を、レオン様の離宮へ。
誰にも見られぬよう、必ずご本人に」
「御意」
跪くカイルは、ふとアリアの顔を見上げる。
「……お疲れのご様子ですね。ご無理はなさらぬよう」
その瞳にあるのは、打算のない、ただの案じ。
アリアは、ほんの少しだけ心が軽くなるのを感じた。
――だが、彼女は知らなかった。
カイルの背後に、セシルが手配した「目撃者」たちが潜んでいることを。
そして、離宮へ向かう途中で、手紙がすり替えられることを。
「今夜、いつもの場所で待っています。――カイル」
アリアの筆跡を完璧に真似た、偽りの文へと。
王宮に満ちる沈黙は、
すでに破滅への秒読みへと姿を変えていた。
建国祭に向けた準備が加速する中、図書室には古書の匂いと静寂が満ちている。
アリアは窓際の席で、古びた儀礼書を静かに捲っていた。
隣に腰掛けるレオンは、地図にペンを走らせてはいるものの、その視線は頁の上を彷徨っている。
「……レオン様?」
そっと名を呼ぶと、レオンははっとしたように瞬きをした。
「先ほどから、同じところを見ていらっしゃいます。お疲れではありませんか?」
柔らかな気遣いに、レオンは小さく笑って首を振る。
その拍子に、袖口で真珠のカフスが鈍く光った。
「ああ……すまない。少し、考え事をしていた」
彼は一度言葉を切り、何気ない調子を装うように続ける。
「アリア。最近、カイルとは……よく話しているのか?」
思いがけない問いに、アリアはきょとんと目を瞬かせた。
「カイルと、ですか?
護衛ですもの。公務の予定や警備の報告を受けることはありますけれど……」
「そうか」
レオンは頷きながらも、ペンを握る指先に、わずかな力がこもる。
「彼が、君から贈られた“守護の飾り”を、とても大切にしていると聞いてね。
……王女が一人の騎士に、あれほど私的な品を授けるのは、少し誤解を生むのではないかと……」
責める口調ではない。
それでも、その言葉の奥に潜む不安を、アリアは感じ取った。
「誤解……?」
アリアは静かに首を振った。
「あれは、ただの恩賞です。
以前、私を庇って怪我をした時に、感謝のしるしとして贈っただけ。……他意など、ありませんわ」
そして、少しだけ声を落とす。
「誰が、そのような誤解を?」
「……いや」
レオンは視線を逸らし、微笑みで誤魔化した。
「私の考えすぎだ。忘れてくれ」
けれど、その横顔にはすでに、
――「アリアは独占欲が強い。だから、あの騎士を囲っている」
という、セシルの甘い毒が、静かに染み込んでいた。
図書室を出たアリアを待っていたのは、テラスで紅茶を嗜むセシルだった。
「お姉様。そんなに険しいお顔で……。お紅茶、冷めてしまいますよ?」
無垢な微笑み。
けれどアリアは、その奥に揺れるものを見逃さなかった。
「セシル。貴女……レオン様に、カイルのことを何か言ったでしょう?」
「あら?」
セシルは小首を傾げ、悪びれもせず答える。
「私はただ、カイルが飾りを丁寧に磨いているのを見ただけです。
お姉様に大切にされているのね、素敵だわって……それだけ」
彼女は立ち上がり、そっとアリアの耳元へ顔を寄せる。
「でも、お姉様。
レオン様の“癖”、やっぱりご存知ないのですね」
囁きは、甘く、親密で――残酷だった。
「彼、不安になると、無意識に左の袖口に触れるの。
……さっきも、何度も触っていらっしゃらなかった?」
心臓が、嫌な音を立てる。
思い返せば、確かにレオンは真珠のカフスに何度も指を滑らせていた。
「完璧な王子様に見えて、本当はとても臆病なの。
信じていたものに裏切られるのを、何よりも恐れている人なのよ」
セシルは、慈しむような声音で続けた。
「お姉様がカイルを信頼すればするほど……レオン様は、きっと壊れてしまうのに。
……可哀想、でしょう?」
「……やめて」
アリアはセシルの手を振り払い、足早に廊下を去る。
背後で、「ふふっ」と軽やかな笑い声が、冷たい石壁に残響した。
その夜。
アリアは自室で、レオンに宛てた手紙を書いていた。
今日の冷えた空気を溶かすために。
疑念ではなく、愛を――信じている想いを、言葉にして。
「カイル。この手紙を、レオン様の離宮へ。
誰にも見られぬよう、必ずご本人に」
「御意」
跪くカイルは、ふとアリアの顔を見上げる。
「……お疲れのご様子ですね。ご無理はなさらぬよう」
その瞳にあるのは、打算のない、ただの案じ。
アリアは、ほんの少しだけ心が軽くなるのを感じた。
――だが、彼女は知らなかった。
カイルの背後に、セシルが手配した「目撃者」たちが潜んでいることを。
そして、離宮へ向かう途中で、手紙がすり替えられることを。
「今夜、いつもの場所で待っています。――カイル」
アリアの筆跡を完璧に真似た、偽りの文へと。
王宮に満ちる沈黙は、
すでに破滅への秒読みへと姿を変えていた。
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