硝子の婚約と偽りの戴冠

柴田はつみ

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第十章:潜入、偽りの都、あるいは再会の予感

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建国祭を三日後に控えた王都は、熱に浮かされたような喧騒に包まれていた。
色とりどりの旗が石畳の街路を覆い、広場からは楽士たちの陽気な旋律が絶え間なく流れてくる。

だが、その華やぎの裏側で――
二つの人影が、音もなく影へと溶け込んでいた。

「……随分と、変わってしまったわね」

灰色のぼろ布のようなマントを深く被り、顔を隠したアリアが低く呟く。
切り落とした漆黒の髪はフードの内に隠され、かつて王女としてまとっていた気品は、煤を塗った肌と粗末な民衣の下に封じ込められていた。

「お気をつけください、アリア様」

傍らを歩くのは、商人崩れの姿に身をやつしたカイルだ。
鋭い視線を周囲へ走らせながら、彼は自然な仕草でアリアを人混みから庇うように肩を引き寄せる。

「至るところに、セシル王女の近衛と隣国の密偵がいます」

その指先から伝わる確かな体温だけが、アリアにとって今の世界で唯一の真実だった。

二人が向かったのは、王宮裏手に残る古い水門。
かつて幼いアリアが、誰にも知られず出入りするために使っていた抜け道だ。

「ここなら……今も警備の死角のはずよ。
カイル、準備は?」

「いつでも」

短く答えた後、彼は一瞬だけ言葉を選ぶ。

「……ですが、ここから先は本当の修羅場になります。
もしもの時は、私を置いて――」

「いいえ」

アリアは即座に否定し、彼の手を強く握り返した。

「貴方と一緒に戻ると決めたの。
……二人で、あの玉座を取り戻すわ」

その掌の厚みが、彼女の胸に冷徹な勇気を注ぎ込む。

二人は湿り気を帯びた地下通路を抜け、
迷路のような王宮内部へと忍び込んだ。

目指すのは、セシルの私室。
かつてはアリアの記憶と日常が詰まっていた、忌まわしい部屋だった。



その頃――
レオンは、人気のない夜の書庫で独り、強い酒を煽っていた。

「……あの日、なぜ私は、あの手紙を疑いもしなかった」

グラスを握る指に力がこもる。
酔いに揺らぐ意識の奥で、アリアの悲痛な叫びが、何度も反芻されていた。

セシルが隣にいる時間は、もはや苦痛でしかない。
喉を焼くほどに甘い香水の匂いが、
かつてアリアが纏っていた清廉なリリーの香りを思い起こさせ、彼を苛立たせる。

無意識に、レオンは左手首に触れた。

そこには、セシルから贈られたエメラルドのカフスが、
まるで枷のように重く嵌められている。

「……アリア」

誰に聞かせるでもなく、名を零す。

「君に……会いたい」

その瞬間だった。

書庫の奥、隠し扉の向こうから、微かな衣擦れの音が響く。

「誰だ……!」

レオンは反射的に剣の柄へ手をかけ、暗がりを睨み据えた。

次の瞬間――
マントが床に落ち、月光が差し込む。

現れたのは、短く切り揃えられた黒髪と、
静かに燃える復讐の炎を宿した瞳を持つ女。

かつて、彼がすべてを捧げた最愛の人。

「……お久しぶりですわ、レオン様」

低く、凍りつくほど澄んだ声。

「いいえ――
『偽りの花婿殿』とお呼びした方が、よろしいかしら?」

その一言が、冷え切った書庫の空気を、鋭く切り裂いた。
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