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第4章 花蕾の聖女

21・優しいキスでは足りないらしい

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「お? ダークベルへの道が繋がってんな」

 帰宅後、お茶を用意しようとしたルシェラに付き添う形で二階へ上がったネフィが、わずかな異変に気付いてドレッサーの鏡の前に飛び乗った。ピンクの肉球で軽く触れると、鏡面が水面のようにさざめく。

「短い反抗期だったな。まぁ、お前の様子が気になって仕方ないんだろうよ」

 揺れる鏡面から視線を逸らし、ネフィが階下へ続く階段へと顔を向けた。

「おい、ケイヴィス!」
「あぁ?」

 名を呼ぶと、不機嫌な声が返ってくる。けれど姿は見せない。
 襲われたルシェラの心情を汲み取り、ケイヴィスは誰に言われるでもなく一階に待機したままだ。階段に座っているのだろう。声は意外と近いところから聞こえた。

「ちょっとだけダークベルに戻るから、その間ルシェラの護衛頼んだぞ」
「はぁ!? こないだのヤツが来たらどうすんだ? あんなヤベぇの来ても俺は相手にできねぇぞ」
「一瞬だ、一瞬! レヴィンの様子見に行くだけだから、五分もすりゃ戻ってくる」

 階下からはケイヴィスの喚く声が響いていたが、ネフィはそれをあっさり無視して再びドレッサーの鏡面に向き合う。鏡越しに目が合うと、ルシェラはほとんど無意識にベッドサイドに駆け寄っていた。

「ネフィ。戻るなら……これを」

 少し戸惑いがちに差し出したルシェラの手には、レヴィリウスの黒いマントが握られていた。あの夜、体を包んでくれたマントに、もう彼の匂いはない。それを寂しいと感じる胸の奥にかすかな願いが生まれていることを、ルシェラはもう無視できなかった。

「会って、きちんと話したい。そしてレヴィンがいつでもリトベルに来られるよう、再契約を結びたい、って……伝えてくれる?」

 そう躊躇いがちに告げると、金色の目が驚きに見開かれた。次いで満面の笑みを浮かべたネフィの尻尾が、抑えきれない喜びに激しく左右に揺れ動く。

「あぁ! 一言一句漏らさず伝えてくるから安心しな!」

 猫には大きすぎるマントを口に咥え、ネフィが意気揚々と鏡の中に飛び込んだ。後を追って、黒いマントがずるずると吸い込まれていく。その様子を見届けると不意に変な緊張が押し寄せてしまい、ルシェラは気を紛らわせるため慌ててお茶の用意を再開した。


 久しぶりに淹れたメリダルのハーブティーは、塞ぎ込んだルシェラの心を癒やしてくれる優しい香りがした。
 今日は少しだけ蜂蜜も入れてみよう。ひとりで飲むのは味気ないから、一階にいるケイヴィスを呼んでみようか。まだ少し警戒心は残っているが、五分もすればネフィも戻ってくるだろう。

 ひとりでいるとどうしてもセイルの言葉を思い出してしまう。
 カップに二人分のお茶を用意して、ケイヴィスに声をかけようとしたルシェラの視界に――ふとアイスブルーの光が紛れ込んだ。

 飾り棚に置いていたルダの揺り籠が、淡く発光している。主張しすぎない、柔らかな光の点滅。けれどそれはルシェラが近付く度により強く明滅し、瞳の通じて脳の奥、更に深い記憶の果てにまでアイスブルーの光を突き刺した。

 意識が弾ける。視界が歪む。ずっと遠くの方でティーカップの割れる派手な音がした。


 ***


「……ル……リア」

 呼ばれていた。肌に直接染み入る声音は思ったよりも間近に聞こえ、振動を伝える熱く湿った吐息が首筋を艶めかしく這い回る。かと思うと、耳朶を甘噛みされた。

「……っ!」

 見開いた視界に色が戻る。濃紺の空に、銀色の星屑が瞬いていた。中でも一番美しく輝く菫色の光は、甘やかな熱を持ってこちらを至近距離で見つめている。欲に浮かされた瞳、その菫色の中で恥じらい頬を染めているのは――。

「フォルセリア」

 青く冷たい泉のほとり。組み敷いたフォルセリアの耳元に顔を寄せ、銀髪の悪魔レヴィリウスが吐息に音を乗せてなまめかしく囁いた。

「何か憂い事でも?」
「レヴィン……」
「君の思考を奪うには、優しいキスでは足りないらしい」

 いたずらに微笑んで、物言いたげなフォルセリアの唇を指でなぞる。可愛らしい反論を優しく塞ぎ、漏れ出る吐息を声を飲み込んで、それでも足りぬとレヴィリウスの舌が貪欲にフォルセリアの咥内を貪った。
 ねっとりと動く舌先が煽情的に歯列をなぞり、フォルセリアの背筋がぞわりと震える。弓なりに反ったその背中を首筋から腰まで撫で下ろされれば、フォルセリアの体にもう抵抗する力はこれっぽっちも残らない。
 それでも精一杯の非難を込めて睨み上げれば、視線の先で溢れ出す色香に滲んだレヴィリウスが挑発的に微笑んだ。

「続きを?」
「……っ、それはまだダメだって言ったでしょう!? それにこんな場所でなんて」
「それは失礼。君がとても可愛らしくてつい……」

 不意打ちに落とされた目元へのキスに、フォルセリアの口から掠れた吐息が漏れる。

「ほら。こぼれる吐息ですら、こんなにも甘い」
「それ、はっ……ぁっ、レヴィンが……」
「外が嫌ならベッドを用意しましょうか?」

 頬に額に、顔中に降り注ぐキスは唇を掠めて首筋に落ちていく。抗えない快感の波が全身を震わせるように駆け巡り、自分でも分からないうちに体から力が抜けた。
 夜の帳が下りた深夜。静謐に包まれた泉のほとりに、甘い吐息だけが闇を揺らしている。
 くたりと力なく投げ出されたフォルセリアの指先が、泉の冷たい水に触れた。わずかな水音を響かせて波紋を広げる水面が、次の瞬間更に激しい水飛沫を上げた。

「ダメ……って言ってるでしょー!!」

 ばしゃんっと水音が跳ねる。フォルセリアの右手に掬われた少量の水は、レヴィリウスの熱を冷ますように彼の顔面めがけてかけられた。



 先程まで恥じらいに声を潜めていた梟が、様子を窺うように鳴き始めた。その音を合図に、停滞していた時がゆっくりと動き出す。
 風がそよぎ、木々が揺れ、水面が震える。けれど夜の世界を揺らす音はどれも控えめで、フォルセリアの小さな声にすらあっけなく上書きされてしまう。そこにレヴィリウスの滑らかな声音テノールが加われば、夜は再び二人の世界を密やかに作り出した。

「あの……ごめんなさい。冷たかったでしょう?」
「ルダの泉はことほか冷たいですからね」

 フォルセリアが不安げに視線を向けると、柔らかな笑みを浮かべたレヴィリウスがこちらへ手を差し出しているのが見える。

「君だって濡れている。――おいで」

 怒っているのではないと理解した途端に、フォルセリアの胸がふっと軽くなる。誘われるがままに手を重ねると優しく引き寄せられ、木の根元に腰を下ろしたレヴィリウスの足の間に収まる形で座り込んだ。
 そのまま背中から抱きしめられると、レヴィリウスの濡れた胸元がひやりとした感触を伝えてくる。
 冷たいのはほんの一瞬。後は二人の体温に緩く染まっていく。

「あの……レヴィン、その……応えられなくてごめんなさい」

 言いにくそうに呟けば、一瞬の間を置いて小さな笑い声がフォルセリアの鼓膜を揺らした。

「待つほどに熟す果実は、一体どれほど甘いのでしょうね。その蜜を楽しみに待つのも悪くはないですよ。――それに」

 抱きしめる腕に力を込め、レヴィリウスがフォルセリアの頭に頬を寄せる。そのさらりとした金髪を食むように掻き分け、こめかみを探り当てると触れるだけのキスを落とした。

「君の気持ちは尊重しますよ、フォルセリア」
「レヴィン……」
「あと少しですべてが終わる。その時が来たら、君は私の手を取るだけでいい」

 更けゆく闇を照らす星明かりの下。逢瀬を重ねる聖女と悪魔の秘め事は、望まぬ形で終わりを迎えようとしていた。


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