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第5章 悪魔の花嫁

26・私は諦めない

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 響く金属音と共に、左腕に激痛が走った。脈打つ鼓動に合わせて痛みが広がり、溢れ出した鮮血がボタボタと指先を伝って地面にこぼれ落ちていく。反射的に左腕を強く押さえれば、ぬるりとした血の感触に右の手のひらが滑る。

 幸い腕は繋がっている。指先の感覚も失われてはいない。
 ルシェラの血に濡れたヴィノクの指先には銀色に光る蜘蛛の糸が絡みついており、それは地面に落ちた一本のダガーと繋がっていた。うつ伏せのまま動かないケイヴィスだったが、その指先が辛うじて痙攣するように震えている。
 瀕死の状態になってもなお糸を結び付けたダガーを操り、振り下ろされたヴィノクの右手の軌道を逸らしてくれたのだ。そのおかげでルシェラは左腕を切り裂かれただけで済んでいた。

 だが、それだけだ。
 蜘蛛の糸にもダガーにも、ヴィノクを退けるだけの力はない。ルシェラに聖女の力は戻らず、頼みの綱であるケイヴィスは虫の息だ。現状は変わらず最悪で、ルシェラの命はヴィノクの手のひらに転がされている。
 その手のひらが小さな命を弄ぶように、ルシェラの細い首を鷲掴みにした。

「さらばだ。もう二度と俺たちの前に現れるな」

 首を掴む手に力が込められ、一気に酸素を奪われたルシェラの意識が白く霞む。
 窒息するのが先か、それとも首をへし折られるのが先か。
 息のできない苦しさはフォルセリアの記憶と重なり合い、脳裏の向こうに冷たいルダの泉を思い出させる。凍えるような水の感触。屈折した朝日の差し込むアイスブルーの水中と、光を受けてきらきらと揺らめく白い羽根。

『お前には贖罪が必要だ』
『百の転生を繰り返し、穢れた魂を浄化せよ』
『闇の眷属によって生を終える』

 フォルセリアを断罪した三つの光が告げた言葉が、ルシェラの中に木霊する。
 贖罪の転生。二十三歳を迎える前に闇によって命を落とす運命なら、ヴィノクに殺されようとしている『今』がその時なのではないか。
 その絶望に似た思いが脳裏を掠めた瞬間、力なく垂れていたルシェラの右手にひやりとした金属の感触がした。

『お前は生き残ることだけ考えてろ』

 よみがえるケイヴィスの言葉に意識が、力が引き戻され、ルシェラの魂に生きようとする強い光が灯される。ぐっと力を込めた右手に、ケイヴィスのダガーが握られていた。

「……ね……な、い。……わた、し……っ、まだ……死ねないっ!」

 ――そうだ、と瞳に強い意志が戻る。
 こんな所で死ぬわけにはいかない。レヴィリウスに会うのだ。会って思いを伝えるまでは、再会の約束を果たすまでは死ぬわけにいかない。

 銀髪の愛しい悪魔を思いながら、ルシェラが手にしたダガーを力一杯振り下ろした。
 肉を裂く感触とわずかに息を呑む音が聞こえ、途端ルシェラの体が地面に倒れ込んだ。体中に空気が巡り、痺れていた指先に血が通う。急な呼吸に激しく咳き込んだ。明滅する視界と耳鳴りは激しかったが、それでも生きている。まだ、生きていられる。

「無駄に足掻けば苦しむだけだ」

 腕に刺さったダガーを、ヴィノクが無表情で見つめていた。こぼれ落ちる鮮血と同じ色の瞳に熱はない。

「痛くても……苦しくても、私は……っ。私は諦めない。生き抜いて、必ずレヴィンに会いに行くわ!」
「聖女とは名ばかりの人間が図に乗るな」

 無造作に引き抜かれたダガーが、ルシェラめがけて投げられた。身を屈めて避けたルシェラだったが、鋭い痛みが頬に残る。顎まで伝う血を拭う間さえ惜しんで見上げれば、ヴィノクが長い黒髪を数本の鋭い槍のように変形させてルシェラに狙いを定めていた。

「一片の希望さえ残らぬよう、粉々に打ち砕いてやる」

 妖しく揺れる黒髪の槍が、ルシェラをめがけて一斉に放たれた。
 体を庇い、無意識に上げた腕に、足に、脇腹に槍の先端が突き刺さる。けれどそれはルシェラの体を貫くことはなかった。

 地面が激しく揺れる。バランスを崩し後退したヴィノクの足元が、低い音を立てて亀裂を走らせた。地中深くから巨大な何かが地面を押し上げるように、裏庭の庭園が緩やかな弧を描いて盛り上がる。亀裂から噴き出す強大な力の波に煽られて、崩れた地面の一部が宙に浮いた。

「何……っ!?」

 驚き目をみはるヴィノクの足元、ルシェラとの間を分かつように亀裂から黒い瘴気が溢れ出した。空気に触れ、見る間に形を変えた瘴気はくるりとして、その細く鋭い刃の先端を地面に深く突き刺した。

 ――瞬間。
 轟く雷鳴の如き大地の唸りと共に、地中から噴き出した力の塊が裏庭の大部分を上空へと吹き飛ばした。灰色の結界に罅が入り、切り離されていた空間がほんの少しだけ繋がった。モノクロだった庭園の花が色を取り戻し、見上げた空は所々に青色を覗かせている。

 収まらない地鳴りは更に大地を割り、深い亀裂はルシェラとケイヴィスの元にまで伸びてくる。慌てて立ち上がるも亀裂は既にぱっくりと口を開け、ルシェラとケイヴィスを渦巻く瘴気の底へ飲み込んでしまった。

「きゃあっ!」

 あっという間に遠くなる罅割れた青空。辛うじて届く光の中、一緒に落ちてきたケイヴィスの体を巨大な黒い獣が咥えて上っていくのが見えた。
 自分だけが取り残され、冷たい瘴気の渦へ落ちていく恐怖にルシェラの体がぞくりと震えた。一緒に連れて行って欲しいと、必死に伸ばした右手が小さくなる光を求めて空を掴む。

 瘴気の底へ落ちていく感覚は、ルダの泉へ沈んでいった時と同じだ。
 またひとりで消えていくのかと、そう思った瞬間ルシェラ頬を熱い涙がこぼれ落ちた。

「……レヴィン」 

 震える唇が、愛しい悪魔の名を紡ぐ。
 光を求めて伸ばした指先が、――優しい熱に包まれていた。

「君はどれだけ私を心配させれば気が済むのですか」

 懐かしい声に振り向く間もなく、体を強く抱き寄せられた。漆黒の瘴気渦巻く視界に流れ込む、星屑の輝きに似た銀の髪。その向こうに隠れた菫色の瞳と視線が交わったのはほんの一瞬。強く正面から抱きしめられ、ルシェラの視界が塞がれた。

「いっそのこと私から離れられないように、鎖に繋いでしまいたい」

 肌を撫でるように響く、レヴィリウスの声音テノール。激情のままに抱き寄せておきながら、体を拘束する腕には優しい熱しか感じられない。胸を甘く軋ませながらレヴィリウスの胸に頬を寄せると、懐かしい彼の匂いに混ざって血の臭いがルシェラの鼻腔を鈍く突いた。
 驚いて顔を上げると、ぽたりと落ちた血の雫がルシェラの頬を汚していく。

「レヴィンっ? 怪我をしてるの!?」
「ルシェラ、少し我慢できますか?」

 何がと聞くよりも先に、レヴィリウスが瘴気の波を蹴って一気に地上へ駆け上がる。開けた視界に光が戻り、ぼこぼこに隆起して荒れ果てた庭園の隅に巨大な黒猫とその足元に倒れたケイヴィスの姿が見えた。

「ネフィ、彼女を頼みます」

 呼ばれて、巨大な黒猫が崩れた大地を軽やかに飛び越えてきた。大きな金色の目が、心配そうにルシェラを見つめている。

「ルシェラ、大丈夫だったか!? 来るのが遅れてゴメンな!」
「ネフィ!?」
「こっちが本来の姿なんだ。さ、早く背中に乗ってくれ。ここじゃレヴィンの邪魔になる」
「でもレヴィンは怪我を……」

 振り返れば、レヴィリウスは既にルシェラに背を向けて、大鎌を片手にヴィノクと対峙している。正面から見たわけではなかったが、鼻を突く血の臭いと頬に落ちた血痕からレヴィリウスはかなりの傷を負っているように思えた。傷付いた体でヴィノクと戦うなど、心配しない方が無理な話だ。

「アイツなら大丈夫だ。ダークベルからリトベルへ、むりやり道を繋げちまったから、その反動がきてんだ」
「反動って……」
「受けた傷は、あれでもほんのわずかだ。本来なら繋がるはずのない道をこじ開けたんだからな」
「だったら余計に危険なんじゃないの!?」
「普通はな。でもアイツには、お前が返したマントがあった」

 罅割れた結界の隙間から流れ込んだ風に、レヴィリウスの羽織る黒いマントが翻る。
 レヴィリウスがいつでもリトベルに来られるよう、再契約を結びたいと願いを込めてネフィに託したあのマントだ。

「お前の願いがわずかにこもったマントがあったから、道をこじ開けてもあのくらいの怪我で済んでる。アレがなかったら、さすがのレヴィンでもリトベルに来るのは無理だった」
「……っ」
「そうまでしてリトベルへ、お前を守るために来たんだ。そのアイツが宿敵を前に負けるわけないだろ」

 名を呼んだはずが、声にならない。胸が苦しくて、甘く切ない痛みに喉が詰まる。

「ヴィノクはレヴィンの怒りに触れすぎた」

 そうネフィが呟くと同時に、レヴィリウスの大鎌とヴィノクの髪の槍が鋭い音を響かせてぶつかり合い、その衝撃に大地が再び激しく揺れ動いた。


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