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第5章 悪魔の花嫁
25・自分にできることを理解してるだけだ
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モノクロの花が、斑に色付いていた。
灰色の結界に覆われた神殿の裏庭。美しく手入れされていた生垣は、見るも無惨に抉られ、吹き飛んでしまっている。大きく削れた生垣からは、かすかに焦げた匂いがした。
判断の遅れたルシェラの手を引いて、ケイヴィスがヴィノクから距離を取ろうと反対側に走り出した。握られた手を伝って、ルシェラの指先をケイヴィスの鮮血が彩る。
「ケイヴィス! 怪我を……」
「今はそれどころじゃねぇ! とにかくヤツから逃げるぞ!」
灰色の結界から抜け出せる可能性は限りなくゼロに近い。けれどこの場に留まれば、残るのは確実な死だ。どちらにせよヴィノクよりはるかに力の劣るケイヴィスができる事と言えば、ネフィが戻るまでの時間稼ぎしかなかった。
あと数分持ちこたえれば――と思った矢先、真横の生垣を激しく揺らして飛び出した黒犬に左右から挟み撃ちにされる。
「……ちっ」
素早く身を翻して振り返った瞬間、ケイヴィスが右手に召喚したダガーナイフを投げ放った。間髪入れずに投げられた二投目も見事に命中し、二匹の黒犬は崩れるように霧散する。その風化する屍を飛び越えて更に数を増した黒犬の向こう、ゆったりとした足取りで近付いてくるヴィノクが瞳に冷たい光を宿したまま侮蔑の笑みを浮かべた。
「身の程を弁えろ。下等種が」
ヴィノクが風を切るように、軽く右手を横に振る。たったそれだけの動作なのに、ケイヴィスの体が見えない力によって勢いよく後ろへと吹き飛んだ。生垣の向こうに植えられていた木の幹に激突し、空気の振動が少し離れたルシェラの元にまで届いてくる。
「ケイヴィス!!」
駆け寄ろうとしたルシェラの前に黒犬が立ち塞がり、背後にはヴィノクの強烈な殺意が渦巻いている。そのあまりに強い剥き出しの殺意に、ルシェラの体が恐怖に竦んだ。
「心臓を一突きにしてやっても良いが、それでは少々生温い。手足をもぐか、腹を割くか……あぁ、陵辱が好みならそうしてやっても良いぞ?」
下卑た笑みを浮かべて、ヴィノクがケイヴィスを一瞥する。その視線にヴィノクの意図を知り、ルシェラの体がおかしいくらいに震え上がった。
「冗談。色気のない女はこっちから願い下げだ」
声が聞こえたかと思うと、ルシェラの体がくんっと後ろへ引っ張られる。ヴィノクの姿が一気に遠ざかり、次いで背中に感じた軽い衝撃に顔を上げるとケイヴィスがルシェラの肩を抱いて体を支えていた。
驚くルシェラの右腕に、銀色に輝く細い糸が絡みついている。
「……糸?」
「お前はここにいろ」
自身がぶつかった木の後ろへルシェラを隠すように押しやり、ケイヴィスが右手をぐっと握りしめて、何かを引っ張るように腕を引いた。その動作に合わせて、遠くに佇むヴィノクの体がかすかに仰け反った状態で硬直した。
目を凝らして見ると、ルシェラの腕に絡みついていたものと同じ糸が、ケイヴィスとヴィノクを繋いでいる。数を増していた黒犬たちも、皆同様に糸に絡まれ動きを封じられていた。
「蜘蛛の糸か。実に下等種らしい使い魔だな。あまりに小さすぎて踏み潰しそうだ」
「その小さな使い魔に拘束されてんのは誰だよ?」
糸を掴む右手を更に引き寄せると、ヴィノクの顔が上を向いた。無防備に晒された白い喉元へ投げられたダガーは、しかしその一歩手前でヴィノクの自在に動く黒髪によって弾き落とされてしまう。
「稚拙だな」
「言ってろ」
なおも強気な姿勢を崩さないケイヴィスが右手の薬指を曲げると、弾き落とされたダガーが再びヴィノクを狙って勢いよく跳ね上がった。一瞬の隙を突き、ダガーの切っ先が今度こそヴィノクの頬を深く切り裂く。
庭園に咲くモノクロの花が、また少し色付いた。
「テメェこそ、俺を見くびってんじゃねぇぞ」
ヴィノクの周りにいた数匹の黒犬が、体を拘束していた蜘蛛の糸によって切り裂かれ、次々に消滅していく。ヴィノクはまだ動きを封じられたままだ。
視線をヴィノクに向けたまま、ケイヴィスが蜘蛛の糸を操っていない左手を自身の胸ポケットに突っ込んだ。取り出した黒い珠をひとつ口に放り込み、ガリガリと派手な音を立てて噛み砕く。
「俺にはコレがあるからな。テメェを足止めするくらいなら……」
「ゴミ屑ほどの力を得て勝った気になるとは、やはりお前は頭の足らぬ赤子だな」
「端っからテメェに勝とうとは思ってねぇよ! 自分にできることを理解してるだけだ」
ケイヴィスがぐっと右手を握りしめれば、ヴィノクを縛り付けている糸が強度を増した。切り落とすことはできないが、わずかに切れた肌に血が滲む。
「だから馬鹿だと言ったのだ」
冷たい嘲笑を浮かべたヴィノクが、糸によって仰け反っていた体をゆるりと起こした。糸の拘束を少しも感じさせない滑らかな動きに動揺したのはケイヴィスの方だ。
蜘蛛の糸は、まだ二人をきつく繋いでいる。動き出したヴィノクを押さえ込もうと糸を強く引っ張れば、拮抗する力に右手が小刻みに震えた。
「足止めだと? わずかな時間を稼いで何を待つ?」
ヴィノクの長い黒髪が、まるで黒炎のように揺らめいた。その髪の一房に触れ、首に巻き付いていた糸が弾け飛ぶ。腕に絡みついていた糸が、焼き切れる。炎に見えるのはただの錯覚なのに、髪が触れた箇所から次々と糸が解けてしまう。
「レヴィリウスはダークベルに囚われたままだ。いかに最強の悪魔であろうと、深淵に堕ちた者が地上へ戻ることはできぬ」
「お前こそ忘れてんじゃねぇか? こっちにはまだもう一匹いるんだよ」
「レヴィリウスの使い魔か。なるほど……その女を殺し損なったあの日、急激にシャドウが現れたのはお前たちの仕業か。どう言う理屈か知らんが、シャドウが現れればレヴィリウスはこちらへ来ることができるようだな」
「今更分かっても遅ぇんだよ」
糸を操り、ケイヴィスがにやりと笑う。無数の小さな蜘蛛が一斉に飛びかかったその向こうで、ヴィノクを中心にして熱のない黒炎が渦を巻いた。
炎を模した黒髪によって蜘蛛は一匹残らず焼き尽くされ、糸を操るケイヴィスの右手に軽い感触だけが伝わった。
「所詮は下等種。力だけでなく、頭も粗末にできている」
「んだと……っ!」
「その使い魔が来る前に、お前が死ぬことは頭にないらしい」
反論しようと開いた口から――ごぽり、と血が逆流した。
「……あ?」
鈍い痛みが胸から全身に響いている。ゆるりと眼球を下に動かせば、いつの間にか自身の胸に黒い槍のようなものが突き刺さっていた。ぞわぞわと振動するそれがヴィノクの髪でできたものだと気付いた瞬間、黒髪の槍が無造作に胸から引き抜かれた。
「ケイヴィスっ!!」
一瞬飛んだ意識がルシェラの絶叫によって引き戻される。脱力する体に力を入れ、何とか顔を上げたそのすぐ目の前に、黒い影が滑り込んだ。はっと見開いた琥珀色の瞳が、一気に距離を縮めたヴィノクの余裕に満ちた真紅の双眸と重なり合う。
「お前と聖女を殺すのに、どれくらいの時間がかかると思っている?」
「……っ!」
「瞬きする間さえあればいい」
バキッと何かが折れる音が、ケイヴィスの体の中でした。
灰色の結界を揺らすほどの激しい衝撃波を喰らい、ケイヴィスの体が先程と同じ木の幹に激突した。倒れはしなかったものの、太い木の幹は巨大な岩がぶつかったのではないかと思うほどの大きな窪みができている。
木の後ろに隠れていたルシェラが慌てて駆け寄ると、ケイヴィスは地面に倒れたまま激しく咳き込んで吐血した。
「ケイヴィス! 大丈……」
「ネフィは……っ?」
掠れた声で問われ、ルシェラが慌てて周囲を見回す。裏庭を覆う灰色の結界の中にはもちろん、その外側に目を向けてもネフィの姿はどこにもない。絶望の色が濃く滲む顔を向ければ、ケイヴィスが荒い呼吸の合間に小さく舌打ちした。
「あ……の、馬鹿猫が。五分はとうに過ぎてんだろっ」
「ケイヴィス、動かないで。血が」
「んなモン、どうだっていい!」
羽織っていたカーディガンを止血布代わりに押し当てて、起き上がろうとするケイヴィスの体をルシェラが必死に引き戻す。その手を煩わしげに払いのけたケイヴィスが上半身を起こすと、夥しい量の鮮血が吐き出された。
「ケイヴィスっ! やめて……死んでしまうわ!」
「お前を守れないなら、どっちにしろ契約違反で俺は死ぬ。いいから俺に構うな。お前は生き残ることだけ考えてろ!」
「でもっ」
それ以上は何も言わせないと、ケイヴィスがルシェラを睨むように一瞥する。その冷たい眼光に怯んだルシェラの視界から、突然ケイヴィスの姿が消えた。
「この期に及んで、まだ逃げられると思うのか?」
ルシェラの眼前に、ヴィノクがいた。消えたと思ったケイヴィスは、ヴィノクの足に背中を踏み付けにされて地面に突っ伏している。
「ケイヴィ……っ!」
「俺たちの世界に聖女は不要だ」
一歩後退する暇さえ与えない。
勢いよく振り下ろされた右手を、ルシェラは目視できなかった。
ひゅっと風を切る音と、頬に感じる鋭い風圧。見開かれたままの視界に映るモノクロの世界に、またまばらに色を落とした赤い花が咲き乱れた。
灰色の結界に覆われた神殿の裏庭。美しく手入れされていた生垣は、見るも無惨に抉られ、吹き飛んでしまっている。大きく削れた生垣からは、かすかに焦げた匂いがした。
判断の遅れたルシェラの手を引いて、ケイヴィスがヴィノクから距離を取ろうと反対側に走り出した。握られた手を伝って、ルシェラの指先をケイヴィスの鮮血が彩る。
「ケイヴィス! 怪我を……」
「今はそれどころじゃねぇ! とにかくヤツから逃げるぞ!」
灰色の結界から抜け出せる可能性は限りなくゼロに近い。けれどこの場に留まれば、残るのは確実な死だ。どちらにせよヴィノクよりはるかに力の劣るケイヴィスができる事と言えば、ネフィが戻るまでの時間稼ぎしかなかった。
あと数分持ちこたえれば――と思った矢先、真横の生垣を激しく揺らして飛び出した黒犬に左右から挟み撃ちにされる。
「……ちっ」
素早く身を翻して振り返った瞬間、ケイヴィスが右手に召喚したダガーナイフを投げ放った。間髪入れずに投げられた二投目も見事に命中し、二匹の黒犬は崩れるように霧散する。その風化する屍を飛び越えて更に数を増した黒犬の向こう、ゆったりとした足取りで近付いてくるヴィノクが瞳に冷たい光を宿したまま侮蔑の笑みを浮かべた。
「身の程を弁えろ。下等種が」
ヴィノクが風を切るように、軽く右手を横に振る。たったそれだけの動作なのに、ケイヴィスの体が見えない力によって勢いよく後ろへと吹き飛んだ。生垣の向こうに植えられていた木の幹に激突し、空気の振動が少し離れたルシェラの元にまで届いてくる。
「ケイヴィス!!」
駆け寄ろうとしたルシェラの前に黒犬が立ち塞がり、背後にはヴィノクの強烈な殺意が渦巻いている。そのあまりに強い剥き出しの殺意に、ルシェラの体が恐怖に竦んだ。
「心臓を一突きにしてやっても良いが、それでは少々生温い。手足をもぐか、腹を割くか……あぁ、陵辱が好みならそうしてやっても良いぞ?」
下卑た笑みを浮かべて、ヴィノクがケイヴィスを一瞥する。その視線にヴィノクの意図を知り、ルシェラの体がおかしいくらいに震え上がった。
「冗談。色気のない女はこっちから願い下げだ」
声が聞こえたかと思うと、ルシェラの体がくんっと後ろへ引っ張られる。ヴィノクの姿が一気に遠ざかり、次いで背中に感じた軽い衝撃に顔を上げるとケイヴィスがルシェラの肩を抱いて体を支えていた。
驚くルシェラの右腕に、銀色に輝く細い糸が絡みついている。
「……糸?」
「お前はここにいろ」
自身がぶつかった木の後ろへルシェラを隠すように押しやり、ケイヴィスが右手をぐっと握りしめて、何かを引っ張るように腕を引いた。その動作に合わせて、遠くに佇むヴィノクの体がかすかに仰け反った状態で硬直した。
目を凝らして見ると、ルシェラの腕に絡みついていたものと同じ糸が、ケイヴィスとヴィノクを繋いでいる。数を増していた黒犬たちも、皆同様に糸に絡まれ動きを封じられていた。
「蜘蛛の糸か。実に下等種らしい使い魔だな。あまりに小さすぎて踏み潰しそうだ」
「その小さな使い魔に拘束されてんのは誰だよ?」
糸を掴む右手を更に引き寄せると、ヴィノクの顔が上を向いた。無防備に晒された白い喉元へ投げられたダガーは、しかしその一歩手前でヴィノクの自在に動く黒髪によって弾き落とされてしまう。
「稚拙だな」
「言ってろ」
なおも強気な姿勢を崩さないケイヴィスが右手の薬指を曲げると、弾き落とされたダガーが再びヴィノクを狙って勢いよく跳ね上がった。一瞬の隙を突き、ダガーの切っ先が今度こそヴィノクの頬を深く切り裂く。
庭園に咲くモノクロの花が、また少し色付いた。
「テメェこそ、俺を見くびってんじゃねぇぞ」
ヴィノクの周りにいた数匹の黒犬が、体を拘束していた蜘蛛の糸によって切り裂かれ、次々に消滅していく。ヴィノクはまだ動きを封じられたままだ。
視線をヴィノクに向けたまま、ケイヴィスが蜘蛛の糸を操っていない左手を自身の胸ポケットに突っ込んだ。取り出した黒い珠をひとつ口に放り込み、ガリガリと派手な音を立てて噛み砕く。
「俺にはコレがあるからな。テメェを足止めするくらいなら……」
「ゴミ屑ほどの力を得て勝った気になるとは、やはりお前は頭の足らぬ赤子だな」
「端っからテメェに勝とうとは思ってねぇよ! 自分にできることを理解してるだけだ」
ケイヴィスがぐっと右手を握りしめれば、ヴィノクを縛り付けている糸が強度を増した。切り落とすことはできないが、わずかに切れた肌に血が滲む。
「だから馬鹿だと言ったのだ」
冷たい嘲笑を浮かべたヴィノクが、糸によって仰け反っていた体をゆるりと起こした。糸の拘束を少しも感じさせない滑らかな動きに動揺したのはケイヴィスの方だ。
蜘蛛の糸は、まだ二人をきつく繋いでいる。動き出したヴィノクを押さえ込もうと糸を強く引っ張れば、拮抗する力に右手が小刻みに震えた。
「足止めだと? わずかな時間を稼いで何を待つ?」
ヴィノクの長い黒髪が、まるで黒炎のように揺らめいた。その髪の一房に触れ、首に巻き付いていた糸が弾け飛ぶ。腕に絡みついていた糸が、焼き切れる。炎に見えるのはただの錯覚なのに、髪が触れた箇所から次々と糸が解けてしまう。
「レヴィリウスはダークベルに囚われたままだ。いかに最強の悪魔であろうと、深淵に堕ちた者が地上へ戻ることはできぬ」
「お前こそ忘れてんじゃねぇか? こっちにはまだもう一匹いるんだよ」
「レヴィリウスの使い魔か。なるほど……その女を殺し損なったあの日、急激にシャドウが現れたのはお前たちの仕業か。どう言う理屈か知らんが、シャドウが現れればレヴィリウスはこちらへ来ることができるようだな」
「今更分かっても遅ぇんだよ」
糸を操り、ケイヴィスがにやりと笑う。無数の小さな蜘蛛が一斉に飛びかかったその向こうで、ヴィノクを中心にして熱のない黒炎が渦を巻いた。
炎を模した黒髪によって蜘蛛は一匹残らず焼き尽くされ、糸を操るケイヴィスの右手に軽い感触だけが伝わった。
「所詮は下等種。力だけでなく、頭も粗末にできている」
「んだと……っ!」
「その使い魔が来る前に、お前が死ぬことは頭にないらしい」
反論しようと開いた口から――ごぽり、と血が逆流した。
「……あ?」
鈍い痛みが胸から全身に響いている。ゆるりと眼球を下に動かせば、いつの間にか自身の胸に黒い槍のようなものが突き刺さっていた。ぞわぞわと振動するそれがヴィノクの髪でできたものだと気付いた瞬間、黒髪の槍が無造作に胸から引き抜かれた。
「ケイヴィスっ!!」
一瞬飛んだ意識がルシェラの絶叫によって引き戻される。脱力する体に力を入れ、何とか顔を上げたそのすぐ目の前に、黒い影が滑り込んだ。はっと見開いた琥珀色の瞳が、一気に距離を縮めたヴィノクの余裕に満ちた真紅の双眸と重なり合う。
「お前と聖女を殺すのに、どれくらいの時間がかかると思っている?」
「……っ!」
「瞬きする間さえあればいい」
バキッと何かが折れる音が、ケイヴィスの体の中でした。
灰色の結界を揺らすほどの激しい衝撃波を喰らい、ケイヴィスの体が先程と同じ木の幹に激突した。倒れはしなかったものの、太い木の幹は巨大な岩がぶつかったのではないかと思うほどの大きな窪みができている。
木の後ろに隠れていたルシェラが慌てて駆け寄ると、ケイヴィスは地面に倒れたまま激しく咳き込んで吐血した。
「ケイヴィス! 大丈……」
「ネフィは……っ?」
掠れた声で問われ、ルシェラが慌てて周囲を見回す。裏庭を覆う灰色の結界の中にはもちろん、その外側に目を向けてもネフィの姿はどこにもない。絶望の色が濃く滲む顔を向ければ、ケイヴィスが荒い呼吸の合間に小さく舌打ちした。
「あ……の、馬鹿猫が。五分はとうに過ぎてんだろっ」
「ケイヴィス、動かないで。血が」
「んなモン、どうだっていい!」
羽織っていたカーディガンを止血布代わりに押し当てて、起き上がろうとするケイヴィスの体をルシェラが必死に引き戻す。その手を煩わしげに払いのけたケイヴィスが上半身を起こすと、夥しい量の鮮血が吐き出された。
「ケイヴィスっ! やめて……死んでしまうわ!」
「お前を守れないなら、どっちにしろ契約違反で俺は死ぬ。いいから俺に構うな。お前は生き残ることだけ考えてろ!」
「でもっ」
それ以上は何も言わせないと、ケイヴィスがルシェラを睨むように一瞥する。その冷たい眼光に怯んだルシェラの視界から、突然ケイヴィスの姿が消えた。
「この期に及んで、まだ逃げられると思うのか?」
ルシェラの眼前に、ヴィノクがいた。消えたと思ったケイヴィスは、ヴィノクの足に背中を踏み付けにされて地面に突っ伏している。
「ケイヴィ……っ!」
「俺たちの世界に聖女は不要だ」
一歩後退する暇さえ与えない。
勢いよく振り下ろされた右手を、ルシェラは目視できなかった。
ひゅっと風を切る音と、頬に感じる鋭い風圧。見開かれたままの視界に映るモノクロの世界に、またまばらに色を落とした赤い花が咲き乱れた。
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