似紫の境界線

柏木あきら

文字の大きさ
5 / 12

発熱

しおりを挟む
掃除を終えて、アトリエを後にしても真一の脳裏にはあの作品の眼差しが離れない。頭を振りながら、洗濯に取り掛かろうとした時、ハッと気づく。時計を見ると十三時過ぎだ。昼食の準備も済んでいるというのに、まだ柳が起きていないことに気がついた。今日は何の予定がないとはいえ、遅すぎる。
真一は以前、同じように柳が起きてこない時、疲れているのかもしれないと気を遣って声をかけなかったら、『起こしてくれたらいいのに』と嫌味を言われたことを思い出す。
(仕方ない、起こしにいくか)
洗濯物を一旦置いて、真一は柳の部屋へと向かった。

「柳さん、まだ寝てるんですか? もう昼食の時間ですけど……」
ドアをノックして声をかけたが、一向に返事がない。どれだけ寝てんだよと毒づきため息をついて真一は中に入る。
夏毛布を掛けた柳の体は猫のように丸まって背中を向けていた。
「柳さん」
声をかけしばらく経っても柳は反応しない。だんだん嫌な予感がしてきて、真一はその身体を揺さぶった。
「柳さん? 大丈夫?」
顔を覗き込んでようやく柳の様子に気がつき真一はギョッとした。
大量の汗を流している。顔色が赤く、額に触れるとかなりの高温。起きてこないのではなく起きれなかったんだ、と真一は青ざめた。
(熱中症か?)
「柳さん! 柳さんッ」
さらに強く身体を揺さぶるとゆっくり、柳が瞼を開けた。真一が泣きそうになりながらその薄い茶色の瞳を見ていると、柳が小さな声で、名を呼んだ。
「……イズミ」

***

以前、夏バテした時に、かかりつけの医者で訪問医でもある青山医師がいると聞いてきたので早速、連絡をつけて来てもらった。
「熱中症ですね、あと少しで入院が必要でした」
白衣を着た青山医師が聴診器を納めながら、真一に告げる。当の本人は解熱剤が効いてきたのか、少し楽になったような顔をして寝ている。
「柳さんは夏に体調崩されやすいので、また何かありましたらご連絡ください」
優しくそう言ってくる青山医師に、相談できる相手が出来てよかったと真一は胸を撫で下ろした。
「ありがとうございました。またよろしくお願いします」

それから柳は眠りっぱなしだったが、熱は下がっていて安定している。水分だけは摂らないとまずいと思い、柳の背中を両手で抱え起こす。
「柳さん、起きて。水飲みましょう」
「んん……」
柳の身体をゆっくり起こし、コップに注いだ水を口元に近づけてやると、素直に水を飲む。喉が乾いていたのかあっという間に飲み干した。
眼鏡を外した柳の顔をゆっくりと真一は見つめていた。長い睫毛に整った鼻筋。初対面で感じた儚い印象は一緒に過ごす間に消えていったのだが、こうして弱った柳を見るとやはり何か影のようなものを感じでしまう。雨の降る前の薄暗さのような、森の中の濃霧のような。
ふいに柳の瞳がじっとこちらを見つめていたので真一は慌てた。
「柳さ……」
「もっと、みず、欲しい、
今度はくっきりと聞こえた。イズミ、と。
高熱の後だから、まだ混乱しているのだろうか。真一は何も言わずに二杯目の水を注いで飲ませてやる。トロンとした目で水を飲み干すと、ああ美味しいと柳はまた真一の方を向く。
「ありがとう」
そう言って微笑んだ。その優しい微笑みを真一は見たことがなかった。そして柳は瞳を閉じ、腕の中で眠ってしまう。真一はそっと柳の身体をベッドに横たえてその場を離れた。

部屋を出た真一は自分の頬が熱を持ち、胸の鼓動が早くなっていることに気づく。そして部屋を出たところで、しゃがみこみ、大きなため息をつく。
先ほどの柳の微笑んだ顔を見た瞬間、真一の中で確信したこと。それは柳と『イズミ』の関係が恋人同士であることだ。何故彼が今いないのかは分からないが、

そしてもう一つ、はっきりと気がついてしまったことがあった。
(俺は、柳さんが好きなんだ)
初めに惹かれたのはアトリエで見た作品。だがそれは作家としての作品であって柳本人ではない。この屋敷で初めて会ったときは特別な気持ちなど微塵もなかった。
だが一緒に過ごしているうちに彼の意外な一面を見ることとなり、いつの間にかそれが楽しくなっていた。だらしなくて、口が少し悪くて。でも自分が作る料理は素直に美味しいと言葉にしてくれる。最近ではたまに食事後に談笑することもあり、柳を身近に感じるようになっていた。
それだけならまだ作家と世話人の間柄のままだったのに、真一の気持ちが揺れうごいたのはイズミの存在。彼のことを考えているうちに、自分一人が柳を知っているわけではないと、嫉妬心が湧いてきていた。ただの世話人がそこまで感じることなどないだろう。

真一はそのことに薄々気がついていたが、自分の理性が、常識がそれを許さなかった。許してしまうときっと戻れなくなる。だから気づかないようにしていた。だが柳の優しい微笑みを見た瞬間、自分の気持ちを否定できなくなった。そして自分を『イズミ』と呼ばれたその時の激しい落胆と胸の痛み。それらは柳への恋慕を肯定する決定打となった。
(恋人がいる同性を好きになるなんて)
頭を抱えた真一はその場から長い間、動けなかった。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

氷の婚約者様に破談を申し出たら号泣された

楽矢
BL
目が覚めると、レースの牢獄のような天蓋付きベッドの上だった。 何も覚えていない出来損ない下級貴族ミラ。無能だクズだと冷酷な罵詈雑言を浴びせてくる氷の騎士セティアス。 記憶喪失から始まる、2人のファンタジー貴族ラブコメディ。 ---------- ※注) かっこいい攻はいません。 タイトル通りそのうち号泣しますのでご注意! 貴族描写は緩い目で雰囲気だけお読みいただけると幸いです。 ハッピーエンドです。 激重感情をこじらせた攻→受な関係がお好きな同志の方、どうぞよろしくお願いします! 全16話 完結済み/現在毎日更新予定 他サイトにも同作品を投稿しています。 様子を見ながらそのうち統合するかもしれません。 初めての一次創作でまだよく分かっておらず、何かおかしなことをしでかしていたら申し訳ないです!

キサラギムツキ
BL
長い間アプローチし続け恋人同士になれたのはよかったが…………… 攻め視点から最後受け視点。 残酷な描写があります。気になる方はお気をつけください。

後宮の男妃

紅林
BL
碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か

雪兎
BL
第二性が存在する世界。 Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。 しかし入学初日、彼の前に現れたのは―― 幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。 成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。 だが湊だけが知っている。 彼が異常なほど執着深いことを。 「大丈夫、全部管理してあげる」 「君が困らないようにしてるだけだよ」 座席、時間割、交友関係、体調管理。 いつの間にか整えられていく環境。 逃げ場のない距離。 番を拒みたいΩと、手放す気のないα。 これは保護か、それとも束縛か。 閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。

貧乏Ωが御曹司αの将来のために逃げた話。

ミカン
BL
オメガバース

【完結】恋人になりたかった

ivy
BL
初めてのキスは、 すべてが始まった合図だと思っていた。 優しい大地と過ごす時間は、 律にとって特別で、 手放したくないものになっていく。 けれど……

追放されたおまけの聖女♂は冷徹王太子の腕の中から離してもらえない〜今さら戻れと言われても、もうこの人の魔力しか受け付けません!〜

たら昆布
BL
聖女のおまけで召喚されたと思われて追放された不憫受けが拾われて愛される話

没落令息はクラスメイトの執着に救われる

夕月ねむ
BL
突然父親の爵位がはく奪され、帰る屋敷も家名も失ったローレンス。貴族が集まる学院の寮からも放り出されるところだった彼を、クラスメイトのユリシーズが引き留める。 「侯爵家の私であれば、従者をひとり授業に同席させることができる」と言って。 ユリシーズの従者となったローレンス。けれどその二年後、彼らの関係は再び大きく変わることとなった。 ※FANBOXからの転載です。 ※他サイトにも投稿しています。

処理中です...