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過去
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結局、真一はその日は帰らずに、泊まることにした。夜中にまた熱が出るかもしれないという心配と、自分の中の気持ちが整理できなくて、帰宅する気力がなかったのだ。
翌朝、柳が朝食をとれるか分からないが、とりあえず消化の良いものを準備することにした。しばらくして廊下の軋む音が聞こえたので視線を向けると目の前に柳が立っている。
「おはよう」
眼鏡をかけたその顔は、いつもの柳の顔で熱はしっかり下がったようだ。
「おはようございます、検温してください」
そっと体温計を渡すと嫌がることもなく、検温をし始めた。いつもなら真一が指示するとすぐ文句を言ってくるのに、と違和感を覚えた。
(なんだろう、いつもより雰囲気が……柔らかい?)
ピピッと体温計が検温終了をつげて、柳が体温計を真一に見せると三十六度。真一はホッとしてよかったです、と口元を緩めた。
「今日は作業はせずにゆっくりしてくださいね。昼食はいつもの様に冷蔵庫へ入れておきますから」
真一がそう言うと柳は頷く。
「体が楽になったよ。ありがとう、イズミ」
「……え?」
(いま、イズミって言ったか?)
椅子に座ると、手を合わせて冷製スープを手に取る柳。その様子はいつもと変わらない。だが……
「……美味しいですか?柳さん」
真一はわざと柳に問いかけてみた。
「うん。美味しい。やっぱりイズミの手料理は美味いな」
柔らかな顔を見せる柳。真一は眉をひそめて柳の顔を凝視する。昨夜は高熱で混乱して真一をイズミだと誤認したのは理解できた。しかし今朝は平熱で、落ち着いたはずなのに柳はまだ真一をイズミだと誤認している。これは、どう理解したらよいのか。
愕然としながら真一は拳を握った。
やがて食事を済ませた後、柳が自室に戻ったのを確認して、真一は青山医師の名刺をポケットから取り出して電話をする。三コール後に電話が繋がった。
「昨日お世話になった柳さんの……世話人です。おかげさまで熱は下がり落ち着かれたのですが、一つ気になることがあるんです」
翌日、真一は青山と商店街の喫茶店で待ち合わすこととなった。昔ながらの喫茶店に真一が時間通りに到着したとき、青山はすでにコーヒーを飲んでいた。
「お待たせしてすみません」
「いや、早く着いてしまったから、気にしないで」
白衣ではない青山はポロシャツとチノパンという格好だったので、真一の緊張感が幾分和らぐ。
コーヒーを注文し、早速柳の話題になる。
熱が下がっても真一をイズミと認識していること。それは今日も続いており、先程も『買い出しに行く』と告げると夕飯の献立を聞かれて、真一が答えると嬉しそうに笑っていたこと。
「柳さんが俺に優しく笑いかけるなんて、今までなかったんですよ」
「はは、それは驚くね。……柳は『イズミ』と呼んでいるんだよね?名前は間違いない?」
「ええ」
そう真一が答えると青山は辛辣な顔をする。一口コーヒーを飲むと、決意した様に真一に告げた。
「数年前の話をしよう」
今から遡ること五年前。柳は両親を亡くしてずっとあの屋敷に住んでいて、その頃はホームヘルパーが柳の世話をしていた。ちょうど美大を出た柳は創作活動に勤しんでいた。
そんな中、モデルとして屋敷に来たのが泉だ。柳と泉がどの様にして知り合ったのか、それは分からない。人物画に取り組んでいた柳は週に数回、泉に来てもらいスケッチしていた。
ある日青山は、柳から泉とあの屋敷で同居することになったと報告をうけた。
ホームヘルパーが妊娠し、柳が代わりを探していることを知った泉は、住わせてもらう代わりに、柳の身の回りの世話をすると申し出てきたという。
二人は二年近くもの間、あの屋敷で暮らしていたのだ。日本画家として名前が少しずつ認知され始め、日展でも受賞するようになっていた柳を泉は陰で支えていた。
しかしそんな二人の暮らしはある日終わりを迎えた。それは泉が突然屋敷からいなくなってしまったのだ。
その日、個展の準備に出かけた柳が屋敷に戻ると泉の姿はどこにもなかった。
長い間世話になった柳に一言も言わず、突如いなくなった泉の行動に、青山は不信を抱き、盗難にあってないかとか心配したが何一つなくなったものはなかった。
泉は自分の荷物を全て引き上げて、痕跡を全て消していった。柳との仲が邪険になったわけでもないのに忽然と柳の前から姿を消した泉。
柳はしばらく筆を取ることができなかったという。
「それ以降なんだよ、屋敷から出ることを拒むようになったのと、人嫌いがはじまったのは。もうあれから三年経つけど相変わらずだろう?」
柳の過去を聞き、真一は思わず唾を飲む。一緒に暮らし、身の回りの世話までしてくれ着いた人物が何も言わずに去っていく恐怖を思うと身震いがする。
「描く絵も、今は水墨画……というか薄墨一色だろ?あの出来事までは普通に色を使ってたんだ。柳はあの日以降、日常に色がついてないんだろうな」
青山が遠い目をしながら窓の外を見た。
それにしても青山はただのかかりつけ医にしては事情に詳しい。しかも気がつけば柳、と呼び捨てにしている。
「あの、柳さんとは……」
「俺は柳の古い友人なんだ。だから昔の絵を知ってる」
「そうなんですか?」
「高校生まで仲良くしててね。俺は研修医期間から県外に出てたけど、数年して戻ってきたんだ。俺が戻って来た時にちょうど柳が同居を始めたんだと言ってきてね」
若いなとは思ったが、まさか青山医師が柳と同級生とは。だから問診にも来てくれるのかと真一は思った。
「それから泉……さんは」
「あれから一度も戻ってないらしいよ。柳はそのまま、新しくハウスキーパーを雇うこともせず、あの屋敷から動けないんだ」
動けない、と青山の言葉に真一はハッとした。もしかしたら柳は泉を待ってるのではないか。だから動かない……、動けないのではないだろうか。
「柳さんは何故、俺を泉と呼ぶのでしょうか」
青山医は少し節目がちに真一を見た。
「何かきっかけがあったのかな。例えば泉がよく作っていた料理を出したとか?それくらいじゃこんな事にはならないと思うけど……。柳は心の底で泉を待ち侘びているのかもしれないな。あの高熱で、泉がいなくなったことをなかったことにしてしまった。そしてそばにいる雛野さんを泉に見立ててしまっている……寂しい事だね」
翌朝、柳が朝食をとれるか分からないが、とりあえず消化の良いものを準備することにした。しばらくして廊下の軋む音が聞こえたので視線を向けると目の前に柳が立っている。
「おはよう」
眼鏡をかけたその顔は、いつもの柳の顔で熱はしっかり下がったようだ。
「おはようございます、検温してください」
そっと体温計を渡すと嫌がることもなく、検温をし始めた。いつもなら真一が指示するとすぐ文句を言ってくるのに、と違和感を覚えた。
(なんだろう、いつもより雰囲気が……柔らかい?)
ピピッと体温計が検温終了をつげて、柳が体温計を真一に見せると三十六度。真一はホッとしてよかったです、と口元を緩めた。
「今日は作業はせずにゆっくりしてくださいね。昼食はいつもの様に冷蔵庫へ入れておきますから」
真一がそう言うと柳は頷く。
「体が楽になったよ。ありがとう、イズミ」
「……え?」
(いま、イズミって言ったか?)
椅子に座ると、手を合わせて冷製スープを手に取る柳。その様子はいつもと変わらない。だが……
「……美味しいですか?柳さん」
真一はわざと柳に問いかけてみた。
「うん。美味しい。やっぱりイズミの手料理は美味いな」
柔らかな顔を見せる柳。真一は眉をひそめて柳の顔を凝視する。昨夜は高熱で混乱して真一をイズミだと誤認したのは理解できた。しかし今朝は平熱で、落ち着いたはずなのに柳はまだ真一をイズミだと誤認している。これは、どう理解したらよいのか。
愕然としながら真一は拳を握った。
やがて食事を済ませた後、柳が自室に戻ったのを確認して、真一は青山医師の名刺をポケットから取り出して電話をする。三コール後に電話が繋がった。
「昨日お世話になった柳さんの……世話人です。おかげさまで熱は下がり落ち着かれたのですが、一つ気になることがあるんです」
翌日、真一は青山と商店街の喫茶店で待ち合わすこととなった。昔ながらの喫茶店に真一が時間通りに到着したとき、青山はすでにコーヒーを飲んでいた。
「お待たせしてすみません」
「いや、早く着いてしまったから、気にしないで」
白衣ではない青山はポロシャツとチノパンという格好だったので、真一の緊張感が幾分和らぐ。
コーヒーを注文し、早速柳の話題になる。
熱が下がっても真一をイズミと認識していること。それは今日も続いており、先程も『買い出しに行く』と告げると夕飯の献立を聞かれて、真一が答えると嬉しそうに笑っていたこと。
「柳さんが俺に優しく笑いかけるなんて、今までなかったんですよ」
「はは、それは驚くね。……柳は『イズミ』と呼んでいるんだよね?名前は間違いない?」
「ええ」
そう真一が答えると青山は辛辣な顔をする。一口コーヒーを飲むと、決意した様に真一に告げた。
「数年前の話をしよう」
今から遡ること五年前。柳は両親を亡くしてずっとあの屋敷に住んでいて、その頃はホームヘルパーが柳の世話をしていた。ちょうど美大を出た柳は創作活動に勤しんでいた。
そんな中、モデルとして屋敷に来たのが泉だ。柳と泉がどの様にして知り合ったのか、それは分からない。人物画に取り組んでいた柳は週に数回、泉に来てもらいスケッチしていた。
ある日青山は、柳から泉とあの屋敷で同居することになったと報告をうけた。
ホームヘルパーが妊娠し、柳が代わりを探していることを知った泉は、住わせてもらう代わりに、柳の身の回りの世話をすると申し出てきたという。
二人は二年近くもの間、あの屋敷で暮らしていたのだ。日本画家として名前が少しずつ認知され始め、日展でも受賞するようになっていた柳を泉は陰で支えていた。
しかしそんな二人の暮らしはある日終わりを迎えた。それは泉が突然屋敷からいなくなってしまったのだ。
その日、個展の準備に出かけた柳が屋敷に戻ると泉の姿はどこにもなかった。
長い間世話になった柳に一言も言わず、突如いなくなった泉の行動に、青山は不信を抱き、盗難にあってないかとか心配したが何一つなくなったものはなかった。
泉は自分の荷物を全て引き上げて、痕跡を全て消していった。柳との仲が邪険になったわけでもないのに忽然と柳の前から姿を消した泉。
柳はしばらく筆を取ることができなかったという。
「それ以降なんだよ、屋敷から出ることを拒むようになったのと、人嫌いがはじまったのは。もうあれから三年経つけど相変わらずだろう?」
柳の過去を聞き、真一は思わず唾を飲む。一緒に暮らし、身の回りの世話までしてくれ着いた人物が何も言わずに去っていく恐怖を思うと身震いがする。
「描く絵も、今は水墨画……というか薄墨一色だろ?あの出来事までは普通に色を使ってたんだ。柳はあの日以降、日常に色がついてないんだろうな」
青山が遠い目をしながら窓の外を見た。
それにしても青山はただのかかりつけ医にしては事情に詳しい。しかも気がつけば柳、と呼び捨てにしている。
「あの、柳さんとは……」
「俺は柳の古い友人なんだ。だから昔の絵を知ってる」
「そうなんですか?」
「高校生まで仲良くしててね。俺は研修医期間から県外に出てたけど、数年して戻ってきたんだ。俺が戻って来た時にちょうど柳が同居を始めたんだと言ってきてね」
若いなとは思ったが、まさか青山医師が柳と同級生とは。だから問診にも来てくれるのかと真一は思った。
「それから泉……さんは」
「あれから一度も戻ってないらしいよ。柳はそのまま、新しくハウスキーパーを雇うこともせず、あの屋敷から動けないんだ」
動けない、と青山の言葉に真一はハッとした。もしかしたら柳は泉を待ってるのではないか。だから動かない……、動けないのではないだろうか。
「柳さんは何故、俺を泉と呼ぶのでしょうか」
青山医は少し節目がちに真一を見た。
「何かきっかけがあったのかな。例えば泉がよく作っていた料理を出したとか?それくらいじゃこんな事にはならないと思うけど……。柳は心の底で泉を待ち侘びているのかもしれないな。あの高熱で、泉がいなくなったことをなかったことにしてしまった。そしてそばにいる雛野さんを泉に見立ててしまっている……寂しい事だね」
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