似紫の境界線

柏木あきら

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決意

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真一は重い足を引きずるように歩く。青山と別れて、喫茶店を出た頃から雨が降り出した。霧のように細かい雨だ。
今日の夕飯の材料を入れた袋がいつもより重く感じる。それは単純にものが重いからではない。
(俺はどうしたらいいんだろう)
このまま、作品が出来上がるまで世話人として何も考えず黙々と過ごせばよいことは分かっている。
だけど、もう気付いてしまった柳への気持ちを持ったまま、果たして過ごせるのだろうか。

霧雨はいつの間にか本降りになってくる。屋敷までの薄暗い小道の中、真一は体が濡れることを気にせず、暫く佇んでいた。

屋敷に戻ると、柳はアトリエにいた。今日は創作をしないようにと言ったのにと真一は苦笑した。
「体の調子は大丈夫ですか?」
アトリエを覗き込んで真一が声をかけると、キャンバスへ向けていた体を真一の方に向け直した。熱が出る前の格好と同じTシャツに短パンだ。
「ああ、もう大丈夫。これを早く仕上げたいんだ。対にして納品しないといけないから」

真一はその作品が律子の待っている作品であることに気づいた。全ての記憶が過去に戻ったわけではないようだ。柳は今を生きている。ただ、。それだけなのだ。
(俺は存在していないってことか)
そう思うと、胸がえぐれるように痛む。以前なら何も感じなかったかもしれない。だけど柳に対する想いに気づいてしまった今、それはあまりにも悲しくて……
「傘持っていかなかったのか? 濡れてる」
いつの間に近づいていた柳は雨で濡れてしまった髪にそっと触れてきた。至近距離で柳と目が合った瞬間、真一はたまらず目の前の柳を抱きしめた。
「……!」
一瞬だけ柳の体が強張ったが、すぐに力が抜けていくのが分かった。そしてゆっくりと柳は自分の腕を真一の体に回し、濡れているその体を抱きしめる。抱き合う形となり、真一は柳の華奢な体をさらに強く抱く。
(きっと柳さんが抱いているのは、泉さんだ。雛野真一じゃない……)
柳の方に顔を埋めて、真一の瞳から一筋の涙がこぼれた。
このまま真一としてではなく泉として接していけば、柳は答えてくれる。笑顔を見せてくれる。
だったらもう泉になりきって彼の隣にいるしかない。
真一は顔を上げ、俯いてた柳の顎に指をかけて、その唇にキスをした。

***

それからの日々は、まるで休日の午後のように穏やかになった。
午前中、柳はアトリエに篭り真一は家事に勤しむ。昼食を二人で取った後は少しゆっくりして、また柳は創作、真一は買い出し。そして夕飯。
以前と変わったことは、真一が通いではなく屋敷に住み込みとなったことだ。
画廊の律子はかなり驚いていたが、これも絵を早く仕上げてもらうためだと真一は適当にごまかしていた。
「いいわ、ちょうど忙しくないから。柳先生によろしくね。進捗を教えてちょうだい」
律子はそう言いながら、真一が画廊に通えないことを快諾してくれた。

夕飯が終わると柳は、音楽をかけながら読書をするのが日課だ。後片付けが終わってから、真一はコーヒーを出す。
テレビが苦手な柳に合わせ、音楽生活となったが、その方がゆっくり過ごせることに気づいた。

ページをめくる音と、クラシックの音楽だけが流れる夜。穏やかなこの時間を真一はいつの間にか心地良いと感じるようになった。
メガネをたまに押さえながら、柳は読書に没頭する。毎日よく飽きないなぁ、と真一がその様子を見ていると柳は視線を感じて本から目を離す。
「なに?」
「なんの本を読んでるのかなと思って」
ひょいと真一が柳の持っている本に近づいて、覗き込む。
「ミステリー小説だよ。読み終わったら、読んでみる?」
(泉は小説を読んでたのかな)
「うん。読んでみたい」
真一がそう言うと、柳は嬉しそうに微笑んだ。

あの霧雨の日から、真一は泉になることを決心した。相手は男だし、数ヶ月前に知り合ったような間柄だ。なのに何故こんなに柳に固執してしまうのかと思うのだが、いまは彼のそばにいたい。
一緒に暮らしながら、泉だったらどう言うのか、泉だったらどう振る舞うのか……気がついたら毎日そんなことを考えていた。

柳は泉との暮らしを続けていると思っているのだろう。ただ、ひとつだけ昔と違うことがある。
柳はアトリエに篭ると一人で創作する。泉をモデルに描いていたなら、真一を呼ぶはずだが一度もモデルとして呼ばれない。
そして、最近はアトリエに入ることすら拒まれて掃除もできない。
(何故なんだろうか)
真一はアトリエ前の廊下を掃除しながら、中にいるであろうキャンバスに向かう柳を思った。

キスはするのに、性行為はしない。
手はつないで寝るのに、抱き合って寝ない。そんな日々が数ヶ月続いた。
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