戦国時代、ある武士と忍の短い恋の物語

雑多のべる子

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夢から覚めてみる夢は

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 ――歌っている。


 彼が、歌っている。
 それは卓越した言葉回しもなく、特筆すべき技巧もなければ遊びもない。茫洋と凡庸な古い童歌。子供でも歌い回せるほどの単純な音階。なのに、彼の唇が紡ぐその歌は、不思議と心の奥底に染みついて剥がれない。

 蝶が舞い踊るに似た彼の動きに風を孕んだ袖が大きく膨らみ、月の光に金糸銀糸がキラキラ映える。抜けるように白い肌も宝石に似たその瞳も、キラキラとチラチラと、今正に終わりを迎えんとする恒星が明滅する如く、最後の輝きを全身から滾らせ迸らせて、清廉に凄惨に高潔に、華やいでいた。

「善之介」

 彼が呼ぶ。形の良い唇が艶やかな微笑みを形作る。

「善之介、おいで」

 酷く甘い、脳髄を蕩かす音声おんじょう。促され、善之介は素直に手を伸ばす。指を絡め取られ引き寄せられて、二人、走り出した。

 よく見ると彼の全身は真新しい鮮血で唐紅に染め上げられていて、それに気付いてしまったら最後、辺りを漂う死臭がツンと鼻をつく。ここに辿り着くまでに彼が何をしてきたのか、それはあまりにも明白で明瞭で明確で、けれど善之介はそれが如何に悍ましいことだとしても、その手を離そうとは思わなかった。恐れなど、迷いなど、今更抱いたところで何になろう。

 月明かりしか頼るもののない森の中を駆け抜ける。踏み荒らされた雑草が二人の行方を刻み残す。

(――きっとこの道はどこへも通じてはいない)

 善之介にも、手を引く暮里にも、それははっきりと解っていた。この道はどこにも続かない。お先の知れた短い逃避行。きっと遠くない未来、それもたった数刻先、彼等には過酷な運命が待っている。
 それでもこの手は離さない。最終最後の瞬間まで、絶対に離すものかと、善之介は指に力を籠める。

「暮里!」

 先を行く背中に声を投げた。

「暮里、暮里、暮里!!」

 何度も、何度も名を呼んだ。答える代りに、暮里の指に力が籠もる。
 善之介はいつしか笑っていた。笑っている場合じゃないのは解っていた。けれどなんだか総てが馬鹿らしくて、腹の底から可笑しくて、とんでもなく滑稽で、それでいて愉快で痛快で。この時間、一瞬一瞬のすべてが愛しくて、溢れる想いに胸がはち切れそうで。

「楽しいな!なあ、楽しいなあ、暮里!」
「……ああ」

 そして彼はそっと笑った。

「善之介、僕は今……初めて、自分の人生を生きている気がする」


 夢はいつも、そこで終わりを告げる。


 ***


 酷く永い夢を見ていた気がする。

 気付くとそこは昼下がりの森の中で、善之介は痛む頭を擦りながら身を起こした。
 どうやら木の上で居眠りをし、落ちた衝撃で目を覚ましたらしい。おかしな落ち方で取り返しのつかない怪我をしなくて良かった、と安堵しながら着物の前を正し、帯を直す。空を見上げると太陽はまだ傾きかけたばかりで、夕餉の刻には少し間がありそうだった。随分長いこと眠っていた気もするが、実際は半刻そこらなのかもしれない。

 それにしても、日頃古参の家令連中から「若君の前世は猿じゃ」と揶揄される自分が木から落ちるとは。余程疲れが溜まっていたに違いない。それもそのはず、善之介は最近よく眠れていなかった。

 原因は繰り返し繰り返し、毎夜訪れる夢のせいだ。それは見知らぬ異国の情景で、場面は飛び飛びであるものの一綴りの物語絵巻のように、このところずっと続いている。その夢世界の善之介は自由気侭な旅人だった。身分に囚われることなく誰とでも言葉を交わし、誰とでも閨を共にして、誰とでも一緒になることができた。
 夢を見る度、善之介はたくさんの世界を見た。山の中の小さな農村にいたこともあれば、海の上に浮かぶ小島で生活したこともある。見知らぬ建築物が立ち並ぶ町へも行ったし、時には夜空の星の中を歩いたこともあった。
 すべては夢だ。
 しかしその夢でも変わらぬことが一つだけあった。――隣にはいつも一人の男がいる。
 夢の中の男と善之介は、肩を並べてどこにでも行った。どこまで行っても足は疲れなかったし、どこへ行っても堪らなく楽しかった。二人はずっと笑っていて、そんな日々がずっと続くことに迷いもなかった。それは友情といって然るべきものだっただろう。そう、今、この時までは。

「……しまった、やってしまった」

 恐る恐る下帯を確認して、善之介はぐっしょり濡れたそれに苦笑する。爽やかな友情物語だったはずのそれは、先ほどとんでもない淫夢に変わってしまった。
 ――善之介は夢の中でその男に抱かれた。
 本当はこちらが抱いてやろうと思ったのに、いつの間にか引っ繰り返されて抱かれたのだ。夢の中で善之介はそれを男として大層屈辱的なものと感じたが、しかして目覚めた善之介はこの時世、衆道といえば年上が年下を抱くものだと腹を収めた。多分、相手は年上だったに違いない。常識に照らせば順当である。

 それはともかく、この歳で夢精することになるとは、と善之介は大いに自分を恥じた。いくら生々しい夢だといっても、夢は夢だ。寝起きに勃つくらいは男の生理現象としてよくあるものの、昼寝でこれほど盛大に下穿きを汚してしまってはばつが悪い。
 幸いにもまだ陽はある。家の者に見つかる前に洗って干して証拠を隠滅しよう……と考えていたら、程近い茂みの向こうで人の気配がした。

「善之介様!善之介様やあい!どこいっちまっただよお」

 聞き慣れた野太い声は馬番の田助だ。
 善之介が長い時間姿を晦ましているので、痺れを切らした家令の誰ぞから捜索を申し付けられたのだろう。こういう時、身分の低い者は難儀なものである。とはいえこの情けない姿で応えてやるわけにもいかず、すまん許せと心の中で詫びを入れ、善之介は息を潜めてそっとその場を離れた。

 向かうところはもう決めている。

 この先少し行けば小川が流れていて、ほとりの掘立小屋には最近一人の男が住み着いていた。
 女のように綺麗な顔をした男だ。洗練された立ち居振る舞い、知見の広さ、使う言の葉などから、善之介は彼を落ちぶれた貴族と推察したが、詳しいことは知らない。善之介の方もあまり自分のことを口にしていないし、彼から率先して話題にするつもりもなさそうなので、互いの身分は有耶無耶になったままだ。
 ただ彼のひょうげた人柄と弁えた距離感は好ましく、善之介はこのところ頻繁にこの川原へ足を運んでいた。思えばそれはあの夢の中の二人のような友好的な関係で――というよりは二人はまるで瓜二つで――いや、あんな淫らな夢を見てしまった後だ。あえて深く考えるのはやめた。

 緩い傾斜を駆け降り、獣道を分け入る。先程から下腹部がべたべたして気持ち悪い。苦い笑いを唇に浮かべながら川辺の砂利を蹴って小屋に近付くと、善之介はいつものようにその扉を拳で叩いた。

「おい暮里、いるか?」
「はいはい、おりますとも。やつがれがここにいなくてどこにいるというんです」

 ごそ、と中で人が動く気配があり、一呼吸おいて引き戸が開く。
 姿を現したのは藍染の着流しを纏った若い男だった。長く伸ばした髪を後ろで一つに纏め、女のように簪で留めている。抜けるような白い肌に、整った顔立ち。滲み出る色香は、恐らく化粧の一つでもすればそこらの花魁にも引けはとらぬだろう。彼はゆたりと戸枠に身を預け、酷くわざとらしい甘えた上目遣いで善之介を見た。

「やあ、野良猫の君。どうも幾久しいお目見えじゃあござんせんか。その気紛れな風が我が身に向くのを、やつがれは心待ちにしておりましたよ。あんまり恋しくて、寸で生き霊になっちまうところでした」
「ははっ、そいつは悪かった。おまえ、こんなところに住んでるくせに案外寂しがりなことを言うのだな」
「はあ……やれやれ揶揄い甲斐のない、冗談に決まっていましょうが。騒がしい男がいなくて寧ろ快適な日々でしたね。で、今日の用向きは何です?いつも通り、やつがれの下らない与太話をご所望で?」

 相変わらずの調子で下らない冗句を吐きながら、その男――暮里は手を伸ばし、善之介の頤を指で掬う。どうということのない所作ではあるが、彼がすると非凡な艶が滲む。
 それに臆する様子もないまま、善之介はバリバリと頭を掻いてきまり悪げに暮里を見た。

「いやあ、悪いが……ちぃと洗濯をさせてくれないか?」
「せん……なんだって?」
「だから、洗濯だ」

 流石にそれは想定外だったのだろう。暮里は呆気に取られて口を開け、一拍おいて、ふは、と軽く吹き出した。途端に、彼が纏っていた淫靡な空気も雲消霧散して、年相応の青年らしい自然な表情が浮かぶ。

「いやはや、これはまた一本取られましたね。こんなところにまでえっちらおっちら、洗濯をしに来る間抜けた輩がいるとは思わなんだ。貴方はいつもやつがれの予想の斜め上をいく……尊敬の念にたえません」
「褒めていないなそれは?」
「いいえ、やつがれにしては最大級の賛辞ですよ」

 ふふ、と肩を揺らし暮里は煙に巻くような言葉を連ねる。だが善之介の来訪を歓迎しているのは嘘ではないらしく、一度小屋へ引っ込むと古びた洗濯桶を持ってきた。

「こちらをどうぞ。使い終わったら裏っ返しにして干しておいてくださいね」
「助かった。物干しもしばらく借してもらう」
「はいはい、それくらい構いやしませんよ。着物一枚引っ掻けたところで、早々減るもんでもありませんしね。それにしても、一体全体、何を汚したんです?」

 当然の流れで問われて、ぐ、と善之介は詰まった。

 本来ならば彼にだって知られたいものではない。が、ここで誤魔化そうとしたらこの意地の悪い男は間違いなく、桶も物干しも貸してくれないだろう。それどころか洗濯物が乾くまでの間、小屋に入れてくれないかもしれない。下穿きを洗って干して乾かすまでの間、武家の嫡男が川辺でぼんやり逸物を晒しているのはあんまりに偲びない。ええい真間よ――と腹を括って、善之介は無駄に胸を張り、自分の下半身を指さした。

「褌だ」
「……は?」
「だから、褌だと言っている」
「……はあ……ということは、褌を汚したってことですよねえ?……ははあ?」

 本日二度目。解ったか解らいでかという顔を見せて、暮里は善之介の顔と股間とを交互に見遣る。そして手を打った。

「なるほど、我慢できずにお漏らしですか。それは確かに恥ずかしい」
「そのようなわけがあるか、赤ん坊か俺は!」

 反射的に善之介は声を荒げる。
 ははっ、と訳知り顔で笑った暮里は、結局それ以上の説明を求めなかった。

「まあいいでしょう。あんまり苛めて、気持ち悪い思いを長引かせても可哀想ですからね。さっさとその汚い褌、洗っていらっしゃい」
「ありがたい、恩に着る」

 拝むように手刀を切ってから、善之介は早速小屋裏手の洗い場に向かう。暮里はそんな彼の後姿を暫し微笑ましげに見詰め、湯を沸かしに小屋の中へと戻っていった。
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