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この国は飢えている
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「さ、おあがりなさい。幾ら夏場とはいえ、そんな格好でいては肝から冷えてしまいます」
白湯の入った湯飲みを渡され、善之介はまた「有難い」と手を合わせてそれを受け取った。ごくり、呑み込んだぬるま湯が喉を下り、胃の腑から全身に温かさが広がると、自然肩の力が抜ける。
無防備に足を崩し寛ぐ善之介の膝をぴしゃりと打って、暮里は彼を諫めた。
「お行儀が悪いですよ、善之介さん。膝を閉じなさい。そんなに足を広げては、見たくないものまで丸見えです」
「見たくないもの?ああ、珍棒か。女形でもあるまいし、このようなもの男同士ならいちいち隠す方が逆に恥ずかし……」
言い掛けて、善之介は途中で言葉を途切れさせた。
今、この小屋の中は二人きり。外では蝉がミンミンと五月蠅く鳴いていて、先程の夢が脳裏へと蘇ってくる。
当然のことながら、これまで善之介は暮里という男を友人以上の何かとして見たことは無かった。それなのに不意に彼の長い睫、黒曜のように透き通った目、通った鼻筋、薄く微笑む唇が印象的に映えて、視界に飛び込んでくる。
改めてみるとまったく、こいつは綺麗な顔をしていた。
善之介も筆おろしなどとっくに終えた身だったが、そこらの遊び女にも身近な女中にも、こんな美人はいない。そんな繊細な容姿をしているというのに、彼自身にはまったくなよなよとしたところがなく、言動には潔さとキレがあって気持ちがいい。細く見えて案外体幹はしっかりしており、薪割りなどしている姿には雄々しささえ感じた。
(そうだ、俺はこんな男に抱かれたのだ――いやいや、それは夢の出来事だが)
つい彼と夢の男とを重ねてしまい、心の臓がどぎまぎとする。あんな生々しい夢、誰だって意識せずにはいられまい。
「……そうだな、やはり、よくないな!」
直前の言葉を翻し、あんまり素直に善之介が膝を揃えたので、暮里は驚いたように目を丸くした。
「おや、今日に限って随分とお利口なことで」
「また人を犬猫みたいに」
「貴方なんていつも野良猫みたいなものでしょう。明日は槍でも降りますかねえ」
「冗談ではない、そんなもの降ったらこの世の終わりだ」
また元気にツッコミを返してから、善之介はふと表情を変える。
「……槍ではなく雨ならば、降って欲しいものだがな」
「ああ、そうですねえ」
空気が変わったのを察し、暮里も共に姿勢を正した。
「善之介さん、今年も農村部の干害被害は深刻ですか?」
ここ数年、この国では夏に日照りが続き、農作物に大規模な被害が出ている。年貢を下げるなど付け焼刃の対策は取られるものの、天災に対して人は無力だ。村々では飢餓による多数の死者が出ており、問題となっていた。
「年貢を下げなければ百姓が死ぬ。百姓は国の礎、何をするにも百姓がいなければ話にならん。けれど、年貢を下げ過ぎて扶持が出なければ今度は武士が死ぬ。武士の忠義に相応の報酬がなければ、離反にも繋がる。国の守りが薄くなれば、あっという間に他国に押し込まれては城主城代一同揃って仲良く腹切りだ。頭が挿げ変われば年貢も上がるだろう。限界まで搾り取られて、もう飢饉どころの騒ぎですらなくなるだろうな。なんにせよこのままではろくなお先がない」
「とはいえ、お国の事情など一介の百姓には到底理解出来るものではありませんからね。殿様も頭の痛いことでしょう」
「かもしれないな」
俺は難しいことは解らんが、と肩を竦めて、善之介はその場にごろんと寝転がった。掃除の行き届いた天井を見上げ、深く長く息を吐く。
「だから俺達の殿様は、考え過ぎて頭がいかれてしまったのだろう。城に呪い師を呼んだというぞ」
「ほう。それで、どんな御託宣が?」
意外にも暮里が軽く身を乗り出す。
その期待に応えてやろうと善之介は榊を振る身振りを添え、胡散臭い呪い師の口上を真似して見せた。
「この日照りは眷属である白蛇を討伐された竜神の怒りの御業であーる。竜神の怒りを解くには祈りを捧げ、高貴な身分の姫君を人身御供に差し出すべし!さすれば一月の内に我等が大地に雨の恵みが齎されるであろう……とさ。それで、殿様が一人娘を生贄に捧げると決めたらしい。正門前に今、大々的に掲示されてる」
「それは……また……穏やかではない話ですね」
暮里は眉を顰めた。
この頃、水害や干害の折、神仏に祈りを込めて人身を供することは珍しくなかった。
しかしその多くは口減らしの口実であり、身寄りのない孤児や老人が御役目に充てられるもので、身分を問われることは滅多にない。上流階級になればなるほど、子供はその性別に関わらずお家存続のための貴重な資源として、大切に蝶よ花よと扱われるからである。
では今回のこれは、といえば百姓達の暴動、一揆を抑える為の示威行為であると考えられた。我が子を生贄に差し出すことで、百姓だけではなく武家も身を切っていることを知らしめるつもりだろう。情勢はそこまで切羽詰まっているといってもいい。
「哀れなのは姫君ですね。今頃、恐怖に震えているやもしれません」
「どうだろうな。俺達のような”シモジモノモノ”は顔も見たことのないお姫さまだ、どうにもピンときやしない」
そんな雲の上の娘を生贄にしたところで地に足付けた百姓の溜飲が下がるものか、と善之介は思うが、それが年寄り連中の判断ならば、そこから俸禄を得ている善之介が逆らう謂れもない。
ただ、人生の酸いも甘いも知らぬ若い娘が無為に命を散らすのは勿体ない、と思った。件の姫君は古今東西稀に見る美女だというから、生きていればきっと良い縁組が待っていただろうに。
ごろん、と横向きに姿勢を変えて、善之介は暮里を見る。いつの間にか彼は手慰みに藁を縒って、籠を編んでいた。器用な指先が繊細に、時に大胆に動くのを眺め、善之介はふと問う。
「暮里は、嫁取りするつもりはないのか?おまえみたいな美人なら、どこへ行っても引く手あまただろう」
暮里はその言葉に一度目を瞠って、それからにこりと余所向きの笑みを浮かべた。
「僕のような流れの身を婿に取ろうなんて物好きは、滅多やたらにありゃしませんよ。風の向くまま気の向くまま、どこに飛んで行くかも解らねえってのに」
「言われてみればそれもそうか。……そのうちここからもいなくなってしまうのだろうな」
「そうですねえ。それが今日になるか明日になるか、はたまた十月十日後かはお約束できませんがね」
冗談めかして暮里が言うので、善之介は声を立てて笑う。子供のような笑い声にまた目を細めて、暮里は逆に問い返した。
「そういう善之介さんはどうなんです?武家の生まれで齢十八といえば適齢期でしょう。貴方は黙っていれば見目も良いですし、条件のいい縁談も来ているのでは?」
「さあな?親父殿が何か考えてるかもしらないが、俺はとんと興味がなくってね。興味を持ったところで俺の立場じゃ好いた相手を嫁に取れるわけでなし、”これ”と持って来られたのを娶るしかないだろう。ま、贅沢を言う気はないさ。人間の顔さえしていれば、精々お家の為に腰を振ってやる」
「貴方、案外諦めの早いところありますよね」
「そういう時代だ。誰も彼も何かを我慢している。俺だけ自由に、というわけにもいかんさ」
善之介はその手を伸ばし、一度、ぐっと握り締めた。――直ぐに拳を開く。その指の隙間から零れる”何か”を見るように目を細めて。
「俺だって出来るものなら、自由に遠くへ行ってみたい。例えば……野良猫同然の気侭なその日暮らしで、国中の名所名物を巡って歩くんだ」
「それはとても貴方らしい夢ですね。その時は僕もお供しましょう。二人でなら、どこへ行っても退屈せずに済みそうだ」
「おまえは言葉が巧みだから、道中記でも書けば売れるに違いない。百年後には寺子屋で手習いに使われたりしてな」
「百年後なんて悠長な。僕がひとたび筆をとれば老若男女が新作を求めてこの小屋に押し寄せ、干乾びるまで感動の涙を流し、涙は川となって田畑に流れ込み土地を潤しますよ」
「そいつは素晴らしい。今すぐ一本書いてくれ、暮里先生」
「まあ、冗談ですがね」
そりゃそうだろう、と善之介は肩を竦める。
暮里はまた笑って、零れる善之介の前髪を指で掬い上げ、その額を優しく撫でた。子供をあやすに似たその仕草。善之介は鼻をひくつかせて複雑な表情を浮かべる。子供ではないぞと言いたいような、もっと撫でていて欲しいような、妙な心地がした。
何とはなしに口を閉じ目を伏せて、善之介は暫し沈黙した。暮里も共に言葉を途切れさせる。蝉の声が遠く近く、波のように寄せては引いていく。何を思っているのか、暮里は善之介の額に触れていた指を下に辿らせ、形のいい鼻筋を辿った。鼻先にちょん、と触れてからさらに下へ。唇を押さえるように指を押し付ける。
「……善之介さん」
「ん?」
「ねえ、善さんや。本当に僕と遠くへ行きましょうか」
またいつもの戯れ冗句か、と笑ったが、暮里の声音は妙に真剣で、善之介はすぐに笑えなくなった。善之介は単純で無粋な男だが、今ここで笑ってはいけない、ということくらいは解る。
「きっと楽しいですよ。干上がったこんな国は捨てて、僕と二人で珍道中です。北の先から南の突端まで、一緒に歩いてみませんか」
「本気で言っているのか?おまえが本気なら、俺は」
「冗談です。勿論、こんなもの冗句でしかありゃしませんよ。貴方にも僕にも立場ってもんがあります。でも、善之介さん、貴方はもし……もし僕が」
「おまえが?どうした?」
「……僕は……僕はね……」
そこまで言って、暮里は黙り込んだ。暫くは続く言葉を待っていた善之介だったが、やがて痺れを切らして目を開く。
「おい暮里、そこで止めるな。何か言……」
その時、ふ、と影が差した。
暮里が身を屈め、ちょうど善之介に覆い被さるように顔を寄せる。え、と口に出すより早く、彼の唇が額に押し付けられた。口吸いされたわけでもない。動きを封じられているわけでもない。たったそれだけ、それだけなのに、それだけのことで――その唇がやけに熱くて――善之介は動けなくなる。
何が起こっているのかよく解らなかった。
「……暮里?」
「さて、そろそろ日が傾いてきましたよ。洗濯物も乾いた頃でしょう。黄昏時が来る前に、貴方の帰るべき場所にお帰り」
顔を上げた暮里はいつも通りの飄々とした仮面を貼り付けており、善之介はそれ以上踏み込むことが出来ず引き下がる。ゆっくり体を離して、立ち上がった。
「……解ったよ。またな、暮里」
「ええ、さようなら、善之介さん」
いつも通りの別れの言葉。
また幾日もすれば会える、いつだって会える。それは束の間の別離――だと、思っていた。
その日、彼を問い詰めなかったことを、善之介はこの先一生悔むことになる。
白湯の入った湯飲みを渡され、善之介はまた「有難い」と手を合わせてそれを受け取った。ごくり、呑み込んだぬるま湯が喉を下り、胃の腑から全身に温かさが広がると、自然肩の力が抜ける。
無防備に足を崩し寛ぐ善之介の膝をぴしゃりと打って、暮里は彼を諫めた。
「お行儀が悪いですよ、善之介さん。膝を閉じなさい。そんなに足を広げては、見たくないものまで丸見えです」
「見たくないもの?ああ、珍棒か。女形でもあるまいし、このようなもの男同士ならいちいち隠す方が逆に恥ずかし……」
言い掛けて、善之介は途中で言葉を途切れさせた。
今、この小屋の中は二人きり。外では蝉がミンミンと五月蠅く鳴いていて、先程の夢が脳裏へと蘇ってくる。
当然のことながら、これまで善之介は暮里という男を友人以上の何かとして見たことは無かった。それなのに不意に彼の長い睫、黒曜のように透き通った目、通った鼻筋、薄く微笑む唇が印象的に映えて、視界に飛び込んでくる。
改めてみるとまったく、こいつは綺麗な顔をしていた。
善之介も筆おろしなどとっくに終えた身だったが、そこらの遊び女にも身近な女中にも、こんな美人はいない。そんな繊細な容姿をしているというのに、彼自身にはまったくなよなよとしたところがなく、言動には潔さとキレがあって気持ちがいい。細く見えて案外体幹はしっかりしており、薪割りなどしている姿には雄々しささえ感じた。
(そうだ、俺はこんな男に抱かれたのだ――いやいや、それは夢の出来事だが)
つい彼と夢の男とを重ねてしまい、心の臓がどぎまぎとする。あんな生々しい夢、誰だって意識せずにはいられまい。
「……そうだな、やはり、よくないな!」
直前の言葉を翻し、あんまり素直に善之介が膝を揃えたので、暮里は驚いたように目を丸くした。
「おや、今日に限って随分とお利口なことで」
「また人を犬猫みたいに」
「貴方なんていつも野良猫みたいなものでしょう。明日は槍でも降りますかねえ」
「冗談ではない、そんなもの降ったらこの世の終わりだ」
また元気にツッコミを返してから、善之介はふと表情を変える。
「……槍ではなく雨ならば、降って欲しいものだがな」
「ああ、そうですねえ」
空気が変わったのを察し、暮里も共に姿勢を正した。
「善之介さん、今年も農村部の干害被害は深刻ですか?」
ここ数年、この国では夏に日照りが続き、農作物に大規模な被害が出ている。年貢を下げるなど付け焼刃の対策は取られるものの、天災に対して人は無力だ。村々では飢餓による多数の死者が出ており、問題となっていた。
「年貢を下げなければ百姓が死ぬ。百姓は国の礎、何をするにも百姓がいなければ話にならん。けれど、年貢を下げ過ぎて扶持が出なければ今度は武士が死ぬ。武士の忠義に相応の報酬がなければ、離反にも繋がる。国の守りが薄くなれば、あっという間に他国に押し込まれては城主城代一同揃って仲良く腹切りだ。頭が挿げ変われば年貢も上がるだろう。限界まで搾り取られて、もう飢饉どころの騒ぎですらなくなるだろうな。なんにせよこのままではろくなお先がない」
「とはいえ、お国の事情など一介の百姓には到底理解出来るものではありませんからね。殿様も頭の痛いことでしょう」
「かもしれないな」
俺は難しいことは解らんが、と肩を竦めて、善之介はその場にごろんと寝転がった。掃除の行き届いた天井を見上げ、深く長く息を吐く。
「だから俺達の殿様は、考え過ぎて頭がいかれてしまったのだろう。城に呪い師を呼んだというぞ」
「ほう。それで、どんな御託宣が?」
意外にも暮里が軽く身を乗り出す。
その期待に応えてやろうと善之介は榊を振る身振りを添え、胡散臭い呪い師の口上を真似して見せた。
「この日照りは眷属である白蛇を討伐された竜神の怒りの御業であーる。竜神の怒りを解くには祈りを捧げ、高貴な身分の姫君を人身御供に差し出すべし!さすれば一月の内に我等が大地に雨の恵みが齎されるであろう……とさ。それで、殿様が一人娘を生贄に捧げると決めたらしい。正門前に今、大々的に掲示されてる」
「それは……また……穏やかではない話ですね」
暮里は眉を顰めた。
この頃、水害や干害の折、神仏に祈りを込めて人身を供することは珍しくなかった。
しかしその多くは口減らしの口実であり、身寄りのない孤児や老人が御役目に充てられるもので、身分を問われることは滅多にない。上流階級になればなるほど、子供はその性別に関わらずお家存続のための貴重な資源として、大切に蝶よ花よと扱われるからである。
では今回のこれは、といえば百姓達の暴動、一揆を抑える為の示威行為であると考えられた。我が子を生贄に差し出すことで、百姓だけではなく武家も身を切っていることを知らしめるつもりだろう。情勢はそこまで切羽詰まっているといってもいい。
「哀れなのは姫君ですね。今頃、恐怖に震えているやもしれません」
「どうだろうな。俺達のような”シモジモノモノ”は顔も見たことのないお姫さまだ、どうにもピンときやしない」
そんな雲の上の娘を生贄にしたところで地に足付けた百姓の溜飲が下がるものか、と善之介は思うが、それが年寄り連中の判断ならば、そこから俸禄を得ている善之介が逆らう謂れもない。
ただ、人生の酸いも甘いも知らぬ若い娘が無為に命を散らすのは勿体ない、と思った。件の姫君は古今東西稀に見る美女だというから、生きていればきっと良い縁組が待っていただろうに。
ごろん、と横向きに姿勢を変えて、善之介は暮里を見る。いつの間にか彼は手慰みに藁を縒って、籠を編んでいた。器用な指先が繊細に、時に大胆に動くのを眺め、善之介はふと問う。
「暮里は、嫁取りするつもりはないのか?おまえみたいな美人なら、どこへ行っても引く手あまただろう」
暮里はその言葉に一度目を瞠って、それからにこりと余所向きの笑みを浮かべた。
「僕のような流れの身を婿に取ろうなんて物好きは、滅多やたらにありゃしませんよ。風の向くまま気の向くまま、どこに飛んで行くかも解らねえってのに」
「言われてみればそれもそうか。……そのうちここからもいなくなってしまうのだろうな」
「そうですねえ。それが今日になるか明日になるか、はたまた十月十日後かはお約束できませんがね」
冗談めかして暮里が言うので、善之介は声を立てて笑う。子供のような笑い声にまた目を細めて、暮里は逆に問い返した。
「そういう善之介さんはどうなんです?武家の生まれで齢十八といえば適齢期でしょう。貴方は黙っていれば見目も良いですし、条件のいい縁談も来ているのでは?」
「さあな?親父殿が何か考えてるかもしらないが、俺はとんと興味がなくってね。興味を持ったところで俺の立場じゃ好いた相手を嫁に取れるわけでなし、”これ”と持って来られたのを娶るしかないだろう。ま、贅沢を言う気はないさ。人間の顔さえしていれば、精々お家の為に腰を振ってやる」
「貴方、案外諦めの早いところありますよね」
「そういう時代だ。誰も彼も何かを我慢している。俺だけ自由に、というわけにもいかんさ」
善之介はその手を伸ばし、一度、ぐっと握り締めた。――直ぐに拳を開く。その指の隙間から零れる”何か”を見るように目を細めて。
「俺だって出来るものなら、自由に遠くへ行ってみたい。例えば……野良猫同然の気侭なその日暮らしで、国中の名所名物を巡って歩くんだ」
「それはとても貴方らしい夢ですね。その時は僕もお供しましょう。二人でなら、どこへ行っても退屈せずに済みそうだ」
「おまえは言葉が巧みだから、道中記でも書けば売れるに違いない。百年後には寺子屋で手習いに使われたりしてな」
「百年後なんて悠長な。僕がひとたび筆をとれば老若男女が新作を求めてこの小屋に押し寄せ、干乾びるまで感動の涙を流し、涙は川となって田畑に流れ込み土地を潤しますよ」
「そいつは素晴らしい。今すぐ一本書いてくれ、暮里先生」
「まあ、冗談ですがね」
そりゃそうだろう、と善之介は肩を竦める。
暮里はまた笑って、零れる善之介の前髪を指で掬い上げ、その額を優しく撫でた。子供をあやすに似たその仕草。善之介は鼻をひくつかせて複雑な表情を浮かべる。子供ではないぞと言いたいような、もっと撫でていて欲しいような、妙な心地がした。
何とはなしに口を閉じ目を伏せて、善之介は暫し沈黙した。暮里も共に言葉を途切れさせる。蝉の声が遠く近く、波のように寄せては引いていく。何を思っているのか、暮里は善之介の額に触れていた指を下に辿らせ、形のいい鼻筋を辿った。鼻先にちょん、と触れてからさらに下へ。唇を押さえるように指を押し付ける。
「……善之介さん」
「ん?」
「ねえ、善さんや。本当に僕と遠くへ行きましょうか」
またいつもの戯れ冗句か、と笑ったが、暮里の声音は妙に真剣で、善之介はすぐに笑えなくなった。善之介は単純で無粋な男だが、今ここで笑ってはいけない、ということくらいは解る。
「きっと楽しいですよ。干上がったこんな国は捨てて、僕と二人で珍道中です。北の先から南の突端まで、一緒に歩いてみませんか」
「本気で言っているのか?おまえが本気なら、俺は」
「冗談です。勿論、こんなもの冗句でしかありゃしませんよ。貴方にも僕にも立場ってもんがあります。でも、善之介さん、貴方はもし……もし僕が」
「おまえが?どうした?」
「……僕は……僕はね……」
そこまで言って、暮里は黙り込んだ。暫くは続く言葉を待っていた善之介だったが、やがて痺れを切らして目を開く。
「おい暮里、そこで止めるな。何か言……」
その時、ふ、と影が差した。
暮里が身を屈め、ちょうど善之介に覆い被さるように顔を寄せる。え、と口に出すより早く、彼の唇が額に押し付けられた。口吸いされたわけでもない。動きを封じられているわけでもない。たったそれだけ、それだけなのに、それだけのことで――その唇がやけに熱くて――善之介は動けなくなる。
何が起こっているのかよく解らなかった。
「……暮里?」
「さて、そろそろ日が傾いてきましたよ。洗濯物も乾いた頃でしょう。黄昏時が来る前に、貴方の帰るべき場所にお帰り」
顔を上げた暮里はいつも通りの飄々とした仮面を貼り付けており、善之介はそれ以上踏み込むことが出来ず引き下がる。ゆっくり体を離して、立ち上がった。
「……解ったよ。またな、暮里」
「ええ、さようなら、善之介さん」
いつも通りの別れの言葉。
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その日、彼を問い詰めなかったことを、善之介はこの先一生悔むことになる。
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