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八
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翌朝には、嘘も罪も世の中に一つもないような青空が広がっていた。広尾にある日赤医療センターは土地柄か、富裕層が患者に多いからか、気持ちがいい病院だった。周囲は緑に囲まれ、院内は広く清潔で、改装したばかりで新しい。過去に政治家や皇族が入院していたこともあると聞く。その際はワンフロアを貸し切っていたらしい。
私は間藤代理の病室へ入った。彼はベッドに寝そべり、スマホをいじっていた。
「お、ミミさん。見舞いに来てくれたの? やべえ、嬉しいな」
「ミミじゃなくて、ミイよ、漢字は三井。電車に跳ねられた割には元気そうじゃない」
見舞い品の千疋屋で買ったゼリーを置く場所を探すふりをして、部屋を見渡した。冷蔵庫やシャワールーム、ソファなど、不自由なく生活できるものは一通り揃っていた。8畳ほどの広さに三食がつく生活は、下手な大学生よりいい暮らしに思える。
「さっき検査受けたんだけどさあ。何も異常ねえの。俺、すごいよな」
私はベッドサイドにある椅子に座り、彼を見つめた。銀行にいる時と印象が違う。もう、
くたびれた妻子持ちには見えなかった。西麻布なんて目を瞑っても歩けるくらい、豪快な遊び人に見えた。患者衣をまとっているせいだけではない。表情の作り方、声の出し方までが異なっている。 私はある考えに思い至った
「あなたも演技してたの?」
彼の唇は弧を描いた。それは肯定の意と取って間違いなさそうだった。彼はベッドに放り投げ、身を起こした。たっぷり寝て起きたばかりのせいか、 健康そのものに見える。
「自分だけだと思ってたのか? あの石橋を叩き壊す銀行の連中が、そんなリスク冒すわけないって」
「被害者がいたじゃない。女性が二人、休職もしてるわ」
「年齢が高い女性が選ばれたには、それなりに理由がある。別に俺の趣味じゃねぇぜ。上が決めたことだ。うちの銀行、勤続十年以上なら休職しても給料がほぼ満額もらえるんだよ 。あのご婦人たちは出世とか興味ないみたいだっただから、仕事を休めて金も出る話に飛びついたんだろうな。今頃旦那や子供と、ハワイでも楽しんでるんじゃないか」
私は拳を握りしめた。銀行にとって私たちは駒でしかない。潰れれば、また新しいものが補充される。
「まあ元気ならいいわ。心配して損しちゃったわ。私はもう行くから」
「どこへ行くんだ?」
「どこにでも」
「また店で会えるのかな」
「さあね。調査委員会がどこまで手を緩めてくれるか次第じゃないかしら。あまり忙しい部署に飛ばされるのは嫌だわ。お芝居の勉強もあるしね」
彼はベッドから立ち上がった。顔に浮かぶ艶めいた笑みは、ぞっとさせるものがあった。
「それなんだがな、良い話がある」
彼と私の距離は三センチほどに詰められた。薄茶色の瞳は私を捉えて逃さない。捕食者の蛇のような目をしていた。
「良い話にはもう乗らないわ」
私は精一杯、気丈な声を出した。
「お前は脚本家を間違えたんだ。もっとでかい芝居を打たないか?」
「お断りします。私は自分の力で夢をつかむの。近道は無いって気づいたんだから」
彼の手を振り払い、今度こそ病室を出ようとした。
「目黒支店の取引先に芸能プロダクションがあるんだけどな」
それは私の足を止めるのに充分な言葉だった。ホシプロ、ラプロなど、芸プロは確かに取引先として存在する。芸能人が通帳紛失で来店することもある。
「クリスマス公演に向けて、いくつかオーディションやるみたいなんだ。興味あるか?」
沈黙。私は腹が立ってきた。いつまでも夢を捨てきれない自分に。うまい話だと思って乗っかり、そのために裏切られる人生に。そうして、危険と分かっていても進んでしまう道に。「三井さんの年齢だと、ドカンと売れるのは難しいよ。TikTokで乳揺らして踊るとかしないと……」忌々しい事務所で言われた言葉が蘇る。私は彼に向かって歩き出した。彼はニヤリと笑い、私と握手をした。それはファウストとゲーテのような、悪魔の契約を思わせた。魂を売り、望みをすべて叶える。万が一のために、ランドのチケットに暗号を書いておいた。あの人が金庫の暗証番号を変えたことを知っているのは、私だけだろうから。
私は間藤代理の病室へ入った。彼はベッドに寝そべり、スマホをいじっていた。
「お、ミミさん。見舞いに来てくれたの? やべえ、嬉しいな」
「ミミじゃなくて、ミイよ、漢字は三井。電車に跳ねられた割には元気そうじゃない」
見舞い品の千疋屋で買ったゼリーを置く場所を探すふりをして、部屋を見渡した。冷蔵庫やシャワールーム、ソファなど、不自由なく生活できるものは一通り揃っていた。8畳ほどの広さに三食がつく生活は、下手な大学生よりいい暮らしに思える。
「さっき検査受けたんだけどさあ。何も異常ねえの。俺、すごいよな」
私はベッドサイドにある椅子に座り、彼を見つめた。銀行にいる時と印象が違う。もう、
くたびれた妻子持ちには見えなかった。西麻布なんて目を瞑っても歩けるくらい、豪快な遊び人に見えた。患者衣をまとっているせいだけではない。表情の作り方、声の出し方までが異なっている。 私はある考えに思い至った
「あなたも演技してたの?」
彼の唇は弧を描いた。それは肯定の意と取って間違いなさそうだった。彼はベッドに放り投げ、身を起こした。たっぷり寝て起きたばかりのせいか、 健康そのものに見える。
「自分だけだと思ってたのか? あの石橋を叩き壊す銀行の連中が、そんなリスク冒すわけないって」
「被害者がいたじゃない。女性が二人、休職もしてるわ」
「年齢が高い女性が選ばれたには、それなりに理由がある。別に俺の趣味じゃねぇぜ。上が決めたことだ。うちの銀行、勤続十年以上なら休職しても給料がほぼ満額もらえるんだよ 。あのご婦人たちは出世とか興味ないみたいだっただから、仕事を休めて金も出る話に飛びついたんだろうな。今頃旦那や子供と、ハワイでも楽しんでるんじゃないか」
私は拳を握りしめた。銀行にとって私たちは駒でしかない。潰れれば、また新しいものが補充される。
「まあ元気ならいいわ。心配して損しちゃったわ。私はもう行くから」
「どこへ行くんだ?」
「どこにでも」
「また店で会えるのかな」
「さあね。調査委員会がどこまで手を緩めてくれるか次第じゃないかしら。あまり忙しい部署に飛ばされるのは嫌だわ。お芝居の勉強もあるしね」
彼はベッドから立ち上がった。顔に浮かぶ艶めいた笑みは、ぞっとさせるものがあった。
「それなんだがな、良い話がある」
彼と私の距離は三センチほどに詰められた。薄茶色の瞳は私を捉えて逃さない。捕食者の蛇のような目をしていた。
「良い話にはもう乗らないわ」
私は精一杯、気丈な声を出した。
「お前は脚本家を間違えたんだ。もっとでかい芝居を打たないか?」
「お断りします。私は自分の力で夢をつかむの。近道は無いって気づいたんだから」
彼の手を振り払い、今度こそ病室を出ようとした。
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