花恋詩

月咲やまな

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【第1話】日常こそが幸せ

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 病院の屋上で暖かな日差しを浴び、ユカリが一人でスケッチブックに絵を描いている。彼女の右目は今ガーゼと眼帯で覆われており、そのせいで距離感が掴めず、なかなか筆が進まない。いつもだったらサッサと描き終わって満足気に頷いているであろう時間は既に経過したのに、まだ何となく輪郭が出来あがってき始めた気がする程度だ。そのせいか、彼女の顔が徐々に、無自覚のまましかめっ面気味になっていっている。

 このままでは埒あかない。

 ユカリがそう思った時「何の絵を描いてるんだ?」と、後ろからの男性の優しげな声が聞えてきた。
 この声はきっと、彼に違いない。
 声だけでその主がわかったユカリは、振り返りながら「圭吾けいご!」と、彼の名前を嬉しそうな声色で呼んだ。
「ごめん、邪魔…… しちゃったかな?」
「そんな事無い。全然大丈夫だよ。課題の絵を描いていただけだから。提出日が近いんだけど、コレのせいで全然進んでないままだったから、せめて構図だけでも考えておこうと思って」
 ユカリは眼帯で隠された自分の右目を指差し、苦笑した。
「そっか、じゃあ急がないとな」
「そうだね。ちゃんとコツコツ頑張るよ」
 彼と話しているだけで、一人だった時とは一転して、ユカリの表情が明るいものに変わる。
 そんなユカリの前に圭吾は回ると、彼女の座るベンチへ一緒に座り、彼は細い脚を伸ばした。腕を高らかに上げ「今日は気持ちいい天気だな」と言い、背筋も柔軟体操でもするみたいに軽く反らす。さっきまで圭吾は病室のベッドで眠っていたからか、体を伸ばすだけでもなんだか気持ちがスッキリとした。
「そうだね、日差しが丁度いい感じ。暑くもなく寒くもなくで、ホント気持ちいいね」
 ユカリが頷き、圭吾の気持ちよさそうな声に対し嬉しそうに微笑んだ。

「んで?これは…… 何の絵?」

 圭吾がユカリの持つスケッチブックを覗き込みながら訊いた。
「あぁ、下描きの状態じゃ全然何の絵かわかんないよね」
「うん。あー…… ごめんね?ユカリの絵は、好き…… だけど、流石にね」
 ニコッと笑いながらそう言う圭吾の笑顔に、ユカリの顔が真っ赤に染まる。『好き』の部分が強調されている気がしてならないが、気のせいかもしてない、と彼女が慌てた。

(絵『好き』だって言ってくれただけで、私の事なんかじゃないのに…… 何ドキドキしてんだろ?あーもうっ!)

 ドクンッドクンッと跳ねる心臓を押さえ、ユカリが俯く。
 そんな彼女の様子が気になったのか、圭吾がとても不安そうな顔で「大丈夫?苦しいの?誰か呼ぶ?」と、ユカリの顔色を伺いながら訊いた。

(マズイ、圭吾君の前でコレはしちゃいけないんだった!)

「平気!ただちょっと、緊張しただけだから!」
 ユカリは慌てて顔を上げると、圭吾に向かい『違う違う!』と主張するように、大袈裟な動きで手を振って見せた。

「…… 良かった。ユカリの心臓まで壊れちゃったら、俺——」

 圭吾の声が途切れる。
 彼の前にある現実と、ユカリへの心配が交差し、複雑な気分になっているのだろう。

「…… え、えっとね、これ、彼岸花の絵を描こうと思っているの」

 ユカリは話題を変えようと、話を元に戻した。
 圭吾の心臓の事には触れたくない。触れない方がきっと、彼も喜ぶだろうと判断したからだ。
「…… 彼岸花の絵なんか、描いてるの?こんな場所で?どこにも咲いて無いのに」
 そう言って、圭吾が周囲を見渡す。
 だけど病院の屋上にはベンチが置いてある程度で、あとは高いフェンスに囲われているだけの殺風景な状態だ。だがその分空の見える範囲がとても広い。周辺に高い建物が無いおかげもあって、ちょっと視線を上にやるだけで、まるで自分が青空の方へ落ちていく様な錯覚を感じられそうなくらいに空がとても広い。
「まぁ現物はここには無いけど、好きな花で何度も描いてるから。だから、何も見なくても描けるから平気」
「へぇ…… 」
 圭吾の顔に少し陰りが見える気がする。
 その事を不思議に思ったユカリは「この花は嫌い?」と恐る恐る圭吾に訊いた。

「まさか!好きだよ!ずごく好き!」

 身を乗り出し、圭吾が叫ぶように言った。
「…… 本当に?」
 あまりにも勢いよく答えられたせいで、ユカリは逆に言葉通りに受け止める事が出来ず、首を軽く傾げた。

「…… あー。いや、ごめん。実は、嫌い」

 乗り出した身を引き戻し、ベンチの背もたれに寄り掛かりながら、圭吾が高い晴天の空を仰ぎ見た。
「あんまりいいイメージが無い花だから、俺は駄目」
「そう、なんだ。…… なんかごめんね?」
 彼の言うとおり、彼岸花にはいい印象が無い人は多いと思う。ユカリも昔はそうだった為、圭吾の彼岸花を嫌う感情はすぐに理解出来た。
 見た目はとても美しいのに不吉だと言われる事も多い花だし、何よりも、今ユカリ達の居る病院という場所には似合わない花だ。彼岸花の持つ花言葉の一つでも知れば、自分の様にまた違った印象を持つ事だってありえるだろうに。毒があり、名前の響きの問題もあるのはわかるが、美しい花が嫌われる事をユカリは残念で思った。

「いや、俺の方こそごめん。好きな花を嫌いなんて言われるの、嫌だよな。ホントごめん」
「ううん、いいの。私が悪いの。嫌いな人だっているって、ちゃんと考えるべきだった」

 ユカリはそう言いながら視線を少し上にあげ、気持ちを切り替えようと青空に視線をやった。
 雲一つ無い透き通った色の空が視界いっぱいに広がっていてとても綺麗だ。遠くに見える山々は薄っすらとてっぺんの方が紅く色付き始めていて、秋の足音を感じられる。

『退院したら、一緒に紅葉でも見に行こうか』

 そんな発言が喉元まで出かかって、ユカリは言葉をぐっと呑み込んだ。
 彼には、気軽にそんな言葉を言っちゃいけないんだよなぁとユカリは思いながら、彼岸花の描かれたスケッチブックを勢いよく閉じると、圭吾の方へ体を向けた。

「今日はもうお終い!この話も、課題も終わりにして、散歩でもしよう」
「課題も終わりって…… 提出期限が近いんじゃなかったのか?」
「まぁそうなんだけど、ほら!片目じゃ距離感がいまいち分かんないから、もうここまででも今日はいいかなー…… なんて」
「そっか。んじゃ、ユカリのご希望通り、散歩にでも行こうか」
「ありがと!」
「今日はどっちの方に行ってみる?」
「んとね、中庭とかどうかな?あそこならまだ、花とかいっぱい咲いてるらしいし」
「いいね。じゃあ行こうか」
 柔らかな日差しを上から浴びながら、二人が座っていたベンチから立ち上がる。
 そして先手を取った圭吾が「お手をどうぞ、お姫様」と、ユカリに対してダンスにでも誘うみたいな仕草をしながら、冗談っぽく言った。
 左目だけでは距離感の掴めない。だがなんとかゆっくりと圭吾の差し出す手を掴み、ユカリがその手を強く握った。
 圭吾の指はどれも骨張っていてとても細い手だが、触れているだけでホッとした気持ちになってくる。だけどそれと同時に心臓の辺りがきゅーっと苦しくもなってしまい、相反する感情の板挟みになってしまいせいで、ユカリの口元がへの字になった。

「あ、ありがとう」

 ユカリは手から感じられる圭吾の体温に対して頬を赤くしながらも、お互いに微笑を交わし合い、屋上を後にする。

 あと少し、もう少しだけでもいいから、この手を離さないですみます様に——

 そう願いながら、サンダルを履く圭吾がユカリの一歩前を歩く。
 自分の不健康な白い肌が、今は林檎みたいに紅く染まっているのを、ユカリには悟られまいと思いながら。
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